ⅩⅩⅥ章

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ⅩⅩⅥ章

 春名が小説を書くようになったのは、中学二年の夏からである。元々読書もしなければ、ましてや小説を書くことなど考えたこともなかった。野球好きの父親の勧めで野球部に入ったものの、特段やる気はなく、一年の間はいつもベンチに座っていた。二年になると部活は実力よりも年功序列を重視していて、自動的にレギュラーになり、時々試合にも出るようになった。しかしある日、相手が打った打球が運悪く右足に当たり、春名は骨折と入院をすることになった。正直春名はこれで練習をサボれると嬉しく思い、入院期間はゲームをして楽しんだが、さすがに数日経つと飽きて来た。そんな時に母親が退屈凌ぎにと持って来たのが本だった。数冊目を通すが、日本語と言うよりは呪文が並んでいるようで、数ページ読んでも全く頭に入らなかった。  そんな時に目に入ったのが宮沢賢治だった。読書をしない春名も名前くらいは聞いたことがあった。確か銀河鉄道の話を書いた人。あとは“風にも負けず、雨にも負けず”と言った人。春名の宮沢賢治の印象はそんなものであった。しかし試しに読み進めると、今まで呪文に思われた単語の羅列が、きちんと頭の中に入り込み、文章として認識が出来た。  最初に読んだのは、『注文の多い料理店』である。男二人が森の奥のレストランに行くと、謎の声にどんどんと指示され、最終的には自分達が料理として食べられそうになる……。文章は童話のように分かりやすいのに、少し不気味で面白い。次に読んだのは、『セロ弾きのゴーシュ』チェロを弾くゴーシュが動物達に演奏方法を教わり、上達をする話だ。現実が舞台なのに、当たり前のように摩訶不思議な存在や事象が出て来る。まるで料理に不思議なスパイスが混ざったような世界観で、春名は夢中で読み進めた。そして『銀河鉄道の夜』に出会った。一番最初に読んだ時は正直、よく分からなかった。カンパネルラは死んでしまったのか。ジョバンニが乗っていた銀河鉄道は現実と黄泉の世界を繋いでいたのか。だとしたら、どうしてジョバンニが乗ることは出来て、下車出来たのか……。疑問がどんどんと浮かび上がり、何度も繰り返し読んだ。春名は本を読んでいる時以外、散歩している時や風呂に入っている時、本が手元にない時も銀河鉄道のことを、ジョバンニやカンパネルラのことを考えた。そして、本が手元にないのにあれこれ考えてしまうことが“印象に残る”と言うことを知った。  退院した後、春名は野球部に戻ることはなく、ある野望に燃えていた。野球観戦をして実際に野球をしてみたくなるように、春名も読書だけではなく、小説を書こうと思ったのである。しかし、いざノートを広げ文字を書こうとしても、何を書いたら良いのか分からない。まずは頭に映像をイメージして、それを誰かに伝えるようにして書いてみよう。春名は少しずつ文字を書くことに慣れて行き、短編のアイディアも浮かんだ。ノートにネタや登場人物の名前を書いたり、文章を綴るのがたまらなく楽しかった。ようやく真剣に打ち込めるものを見付けることが出来た。  そんな時、春名は大きな失態を犯してしまう。それは春名の小説のネタや短編を記したノートを教室のクラスメイトの机の中に忘れてしまったこと。そしてそのクラスメイトこそが、宇田川伊織だったのである。  春名の通っていた中学校は、中学の近くにある小学校を卒業すると自動的に入学が決まる、ごく平凡な公立の学校である。そんな一般庶民が通う学校に、宇田川伊織が入学して来た。宇田川は数か月前まで小学生だったとは思えないくらい、話し方や佇まいが大人びており、まるで宇田川だけ別の世界から来た人間だと校内に知れ渡った。更に宇田川は鉄道会社の一つを運営しており、他にも商業施設、ホテルなども携わっている宇田川グループの社長の息子であることは風の噂ですぐに広まった。成績は優秀、むしろ間違えているところは見たことがなく、外見も端正で全てが完璧だった。そして余裕があるのか、いつも不敵な笑みを浮かべている。自分が裕福であることをひけらかすような人間ではなかったが、育った環境が違うので一般人と感覚がずれていた。クラスメイトの一人がどうして公立学校に入学したのかを聞くと、平然と“父が社会勉強をして来いと言ったから”と答えた。入学当初は学校まで黒塗りの高級車でやって来た。途中から徒歩になったが、それでも全校生徒に与えた衝撃は大きかった。漫画の中からやって来た人間みたいだとよく言われていた。  春名は宇田川とは住む世界が違うと思っていたし、そもそも関わることもないと思っていたが、二年に進級した時、同じクラスになった。それでもほとんど会話することはなかった。春名は当時所属していた野球部の友達と一緒に行動していたし、宇田川は友達と呼べるような存在は居たようには思わなかったが、グループを作れと言われると、決まってクラスの中でも目立っていたサッカー部のグループに混ざっていた。正確には、サッカー部の連中が“特別”な宇田川に声を掛け、自分のグループのレベルを底上げしていた。宇田川は誰かが話し掛ければ話すが、自分から話に行くような人間ではなかった。休み時間は決まって読書をしており、その姿がまた絵になり、他の人間と違う雰囲気を醸し出していた。  春名が宇田川の机の中に小説を綴ったノートを忘れた日、グループ毎に発表をする授業があった。各自机を向かい合わせにし、発表の準備をしていた。春名はたまたま宇田川の席がグループの場所であり、発表の準備もほとんど終えていたことから空き時間にネタを書こうと、ネタ帳であるノートを忍ばせて行った。他のノートと共に宇田川の机の中に入れたところ、ネタ帳だけを置き忘れてしまった。それに気が付いたのは放課後であった。鞄に教科書を入れようとした時、ネタ帳がないことに気付いた。そしてすぐに忘れた場所を思い出す。最悪だ。ただのネタ帳ならまだしも、短編小説を書いている。これが男子だったらまだ良い。女子でも、佐藤が変なポエムを書いていると馬鹿にされるだけだ。よりにもよって宇田川の机の中だ。庶民が三文小説を書いていると思うに違いない。宇田川がノートを見ていないことを祈り、初めて声を掛けた。 「ごめん、さっきグループワークの時に宇田川の机の中にノートを入れて、それで置き忘れて……」  春名は自分でも驚くくらい、変な汗をかきながら宇田川に尋ねた。対して宇田川は涼しい顔をしている。春名は宇田川がノートの中身を見たのかそうでないのか、気が気ではなかった。 「このノート、佐藤君のだったんだ」  宇田川は机の中からノートを取り出した。 「……中身、見た?」 「うん」  宇田川の返事に春名はもう、言い訳をすることもなく、ただ羞恥心で早くこの場から去りたくなった。 「面白かったよ」  しかし、宇田川の予想外の言葉に春名は項垂れていた顔を上げた。 「佐藤君が書いたの」 「ああ、そうだけど……」 「そうなんだ。凄いね」  思っても見なかった言葉に春名は面を食らった。宇田川の顔は春名にお世辞を言っている訳でも馬鹿にした様子もなく、純粋に褒めていることが伝わってくる。そして春名は、生まれて初めて自分の文章を褒められ、天にも昇る気持ちであった。 「ありがとう……」  春名は礼を言うも、 「でも、何か似てる作品とかあって……」 と、不安を口にした。  春名が初めて書いた短編『黄昏の車窓』と言い、『銀河鉄道の夜』の影響を受けている。主人公の少年は家族旅行で列車に乗っている。途中でトイレに立つと、絵本を開いて車窓に過ぎ去る景色を見せている、不思議な青年が座っているのが目に入る。少年が用を足すと、不思議と車両にはその青年の他に居なくなっている。少年は好奇心から青年に声を掛けることにした。少年は青年に何故絵本に車窓の景色を見せているのか尋ねると、青年は言った。“自分が自分の意思で動いていると、錯覚しているのではないか。この絵本のように自分の意思も目に映る光景も、誰かによって操られて見せられているものではないか”と答えた。少年はそんな気がしてとても怖くなった。ふと目を覚ますと、少年は家族と一緒に列車に乗っていた。あの青年を探したが、もう何処にも姿が見当たらなかった。少年が見たのは現実か、それとも夢か分からない。こんな話である。  書き終わった時は達成感で満たされ、何度読んでも自分の中から生み出した言葉とは思えなかった。それほど感動をした。ただ数日経って読み返して見ると、色々と粗い所が見えて来た。特に気になったのは話の大筋だ。 「なんか、江戸川乱歩の『押絵と旅する男』や中国の説話の『胡蝶の夢』と似ている気がして……」  自分の中から生み出したとはいえ、先人がもう書いた話ではないかと悲観に暮れていた。 「僕はそう思わないよ」  宇田川は春名の不安を否定する。 「『押絵と旅する男』は、確かに列車に乗っていて押絵に景色を見せているシチュエーションは似ているけど、主題は押絵の中の女性に恋をして自ら押絵の世界に入り込んでしまった兄と旅をする奇妙な男性の話だし、『胡蝶の夢』だって自分が起きていると思っている時間が夢かもしれないと言っているだけで、佐藤君の作品の主題、自分の意思で行動していると錯覚しているだけで別の誰かが操っているかもしれない、と言うものとは違う」  宇田川のはっきりとした言葉に春名は感銘を受けた。自分の挙げた作品を読んでいるだけでなく、春名の書きたかったことまで理解してくれている。 「……ありがとう」  春名はようやく、処女作に自信を持つことが出来た。 「実は、作品を誰かに読んでもらったのは初めてだったんだ。こんなに褒めて貰えて嬉しいよ」  春名は礼を言うと、宇田川は微笑んだ。 「君の作品が素晴らしいからだよ」  こうして、春名は宇田川と親しくなった。春名は短編を書き終えると、宇田川に読んでもらい感想を聞いた。宇田川は春名の処女作は褒めたものの、他の作品には手厳しく批評をした。春名もお世辞を言われるよりは正直に感想を言って貰えた方が有難く、改稿をして作品を仕上げて行った。  初めは春名が短編を書いた時だけ作品を読んでもらい宇田川に批評を頼んだが、次第に放課後は教室に残って、作品を読んでもらうだけでなく、文学の話にも花を咲かした。宇田川は金持ちでとっつきにくいと思っていたが、実際に話をすると、そうでないことが分かった。自分が裕福であることを鼻にかけず、庶民である春名達のことも見下していることはなかった。ただの読書が好きな、普通の男子中学生だったのである。宇田川は太宰治が好きで、太宰の作品を読んだ。春名は勧められ読んでみたが、後世まで作品が残る理由が分かったような気がした。一通り作品を読んだところで、宇田川は春名に尋ねた。 「春名は太宰の作品で何が良かった?」  いつの間にか、春名も宇田川も名前で呼び合っていた。 「そうだなあ」 「当てようか」  宇田川は悪戯っぽく笑う。 「『御伽草子』でしょ」 「……何で分かったんだよ」  春名は自分の趣味が完全に把握されていることを悔しく思った。『御伽草子』は、こぶとりじいさん、浦島太郎、かちかち山、舌切り雀など、古来から伝わっている童話を太宰が独自の解釈で書き直した短編である。今でいうと、二次創作に近い作品かもしれない。春名の好きな作品の系統である、現実世界にファンタジー要素が混ざった世界観に加え、太宰は暗い雰囲気の作品が多いので、明るい作風で好きになった。 「伊織は?」 「僕?」  春名は宇田川の好きな作品が全く見当もつかなかった。 「……『魚服記』かな」 「何だっけ、それ」 「読んだよ。覚えてないだけでしょ」 「ごめん……」  春名は未だに話の内容が思い出せなかった。タイトルを聞いても、内容が全く蘇って来ない。 「父親と山に住んでいる少女の話。最後、少女は父親に乱暴されて、滝つぼに身を投げて鮒に生まれ変わる。でも鮒は滝つぼに吸い込まれるんだ」 「ああ、そう言えば、そんな話もあったな……」  春名はようやく話の概要を思い出した。正直、春名はさっさと読み終えてしまった作品だ。 「何でこの話が好きなんだ? 太宰ってもっと凄い作品があるじゃん」  本音を言うと、宇田川は何でだろうねと苦笑した。 「僕は色んな本を読んできたつもりだけど、初めて読んでいて“寒い”って感じたんだ。吹雪の中に放り出されたような、冷たさ。文章を読んで色々思案することはたくさんあるけど、冷たさを感じたのは初めてだった」  春名は宇田川の言葉がよく分からなかった。ただこの時の宇田川が、何だかとても寂しく思えた。  春名は宇田川と親しくなり、毎日家に帰っては文章を書くか、読むか、とにかく文字を見た。クラスメイトが流行っている音楽やアニメやドラマの話をする中、春名と宇田川は過去の文学作品を考古学者のように発掘した。ただ毎日が楽しかった。無我夢中で文字を生み出し、文字を取り込み、文学の世界に入り込もうともがいていた。ただそんな充実した日も、終わりを迎えた。  夏休みに入る前、宇田川は春名に長編小説を書かないかと勧めて来た。今まで春名は短編の作品のみを書いていて、文字数は多くても一万字程度、原稿用紙十数枚程度である。せっかく時間もあるしと勧められ、春名も良い機会だと思って書いてみることにした。夏休みの間、宇田川と会うことはなかったが、時々連絡が来て進捗状況を聞かれた。春名は宿題もそこそこにパソコンに文字を打ち込み、初めて十万字を超える小説を書き上げた。  あらすじは、主人公の少年は毎晩夢で青い髪の少年に出会っている。青い髪の 少年は何かを主人公に訴えていたが、最初は分からなかった。それが次第に少年に助けを求めていることだと気が付く。青い髪の少年に言われた通りの場所に行くと、過去に人体実験が行われていた場所だと気が付く。そして、青い髪の少年が実験の対象者だと気が付き、主人公は少年を助けようとする、SFファンタジーの作品である。主人公は必死に青い髪の少年を探すが見つからず、最後は自分が危機に陥ると毎回助けてくれる、紅玉の色の竜が実験により姿を変えられた青い髪の少年だと気が付いて話は終わる。小説の名前は『紅玉の竜』だ。  丁度書き終えたのは夏休みの最終日で、達成感に浸る間もなく、慌てて放置していた残りの宿題に取り掛かった。小説のデータだけ宇田川に送ると、夏休み明けの翌日、宇田川は紙束を持って春名の元に来た。 「読んだよ」  一ヵ月半ぶりに会う宇田川は何も変わっていなかった。 「読んだよって全部?」 「うん」  春名が宇田川にデータを送ったのは昨晩である。それを一晩で読んでしまったのかと驚く。そして春名は宇田川の手に握られているものが、昨日データで送った作品を印刷したものだと気が付いた。 「とりあえず、文法がおかしかったところと良かったところを書いた」 「……」  春名は宇田川の心遣いに感極まった。適当に読んだだけではないと伝わって来る。 「……ありがとう。どうだった?」 「そうだね」  宇田川は印刷した紙を見せながら説明してくれた。お世辞は言わずに話の矛盾点やおかしいところは指摘し、春名は家に帰ったら修正しようと思った。 「春名、これ文学賞に応募しなよ」  突然の宇田川の提案に春名は困惑した。 「文学賞って、初めて書いた小説だぞ。どうせ落選するよ」 「そうかな。僕はもっと色んな人に、春名の小説を読んでほしいと思うよ」  宇田川の目は真剣であった。春名はその真っすぐな視線に耐えられずに目を逸らした。 「……でも、何処に応募すれば良いのか分からないし」 「こことかどう?」  そう言って宇田川はスマートフォンである文学賞を見せた。 「……考えておくよ」  春名はそう言って、答えを保留にした。文学賞か。春名は小説を完成させるのに必死で何処かに応募してみようなどとは思っても居なかった。何より、初めて書き上げた小説である。伊織は面白いと褒めてくれるけど、大人から見たら十四歳の子供が書いた拙い作品に見えるだろう。でも、せっかく書いたし……。  結局、春名は応募を決意した。別に賞を取りたいと言う欲があるわけではなく、初めて長編小説を書いた記念だった。宇田川は本物の編集者の如く、何度も作品を読み、アドバイスをくれた。何度も改稿し、最初に勢いで書いた作品はきちんと練り込まれた作品に仕上がった。応募する際にあらすじを記載する必要もあり、春名は考えるのが苦手だったが、それも宇田川が助けてくれた。何とかして作品を応募するまで漕ぎつけた。小説を書いて投稿するのって、こんなに大変で疲れるんだと春名は身を持って感じた。決して一人では出来なかった。仮に長編を書いても応募しようとは思わなかった。ここまで出来たのは、宇田川のおかげだったと痛感する。  その後、春名は応募しただけで満足し、正直結果に関しては何も期待していなければ、そもそも賞に応募したこと自体忘れていた。十四歳の中学生が初めて書いた小説なんてたかが知れている。次はどんな話を書こうと思案している内に、宇田川から連絡が来た。 「春名! 一次通っているよ!」  宇田川は珍しく、と言うよりも初めて、興奮した様子で春名に伝える。 「一次? 何のことだ」 「小説だよ!」 「え⁉」  春名は驚き、文学賞のサイトに行くと、六百を超える応募作品の中から、一次審査を通過した三十作品が発表されており、その中に『紅玉の竜』と記載があった。春名は自分が今見ているものが信じられなかった。 「た、たまたまだよ……」  そう平然を装ったものの、春名も嬉しさで有頂天になった。運良く、たまたま通過した。その気持ちが変わったのは二次審査の結果が出た時だ。今度は三十作品の中から十作品に絞られる。そして、またしても『紅玉の竜』が残っていた。ここまで来ると、自己肯定感の低い春名でも、自分はもしかしたら才能があるのではと思い始めた。初めて書いた小説が二次審査まで通過した。読書家の伊織だってあんなに褒めてくれるし、もしかして俺の書いた小説は面白いのではないか? 本屋に行くと、“十四歳の新鋭”と帯を付けられた俺の小説が並ぶのかもしれない。春名はただただ結果が出るのが待ち遠しく、早く発表されて結果を知りたかった。  だから春名が編集者からメールが来た時、嬉しさのあまり躍ったこともないダンスを踊り出しそうだった。すぐに宇田川に報告すると、“僕は受賞すると思っていた”と笑ってくれた。編集者のメールでは春名の作品は、審査員特別賞を受賞したとのことである。詳しい話をしたいから、打ち合わせをしたいと言う内容だった。審査員特別賞。元々予定されている賞にはなかった賞だ。デビューが出来るのか、賞金が貰えるのかも分からない。それでも、賞を貰えるというだけでも満足だ。  家族に報告すると、妹の秋奈はお兄ちゃん凄いと踊り出し、母親も驚いて危うく夕飯のシチューの鍋を落としそうになった。父親は、何も答えなかった。野球を辞めて以来、父親とは上手く行っていなかった。春名が勝手に野球部を辞めたことに対して、怒っているのか会話する回数が減ってしまった。 「いつ、打ち合わせがあるの? お母さんも一緒に行く?」 「学校の三者面談じゃないし、一人で行くよ」 「でもあんたはまだ中学生なのよ。出版の話とか、分かるの」 「まだ出版出来るかも分からないし、とりあえず行って話を聞くだけだから」  それでも春名と一緒に行こうとする母親を制したのは父親だった。 「……春名が一人で行くって言っているんだ。行かせてやれ」 「……親父」 「ただ契約や印税の話の時は、さすがに一緒に行くからな」  久しぶりに父親が微笑んだところを見た気がした。春名は編集者との打ち合わせまでドギマギして授業の内容も頭の中に入って来なかった。  打ち合わせ当日、宇田川から“頑張ってね”とメールが来た。初めて都心まで一人で行き、巨大なビルが林立する建物の森を向けて、出版社へとやって来た。鼓動が高鳴る。少しだけ、大人になったような気がした。俺もここから、賢治のような後世に名を残す作家になるんだ。  意を決して出版社の中に入り、受付で緊張しながら打ち合わせの為に来たことを話した。部屋へと案内され、口から心臓が出そうな程緊張しながら待っていると、二十代半ばくらいの柔和な笑みを浮かべた男性が入って来た。明らかに様子のおかしい春名を気遣ってか、緊張しなくて良いよと笑みを浮かべながら、穏和な雰囲気で話が始まった。編集者の名前は前田と言い、とても話しやすかった。最初は小説を書き始めたきっかけや好きな作家の話をし、春名も本題に入る前の雑談かと思っていたが、中々出版に関する話に行かないことに気が付いた。痺れを切らした春名が出版の話をすると、あれほどにこやかにしていた前田の顔色が曇った。まだ中学生の春名でも、何か不穏な空気を感じ取った。 「……話そうか迷っていたんだけど」  前田は言いにくそうに、視線を春名の双眸から机に移した。 「佐藤君は本当に文章を書くことが好きで、真摯な気持ちを持っているのに、このまま隠しておくよりは、本当のことを話すね」  春名は唾を飲んだ。嫌な予感しかしない。 「結論を言うと、君の作品は本来一次審査を通過するだけで、二次審査は落選の予定だった」  前田の話した真実に春名は心臓が止まったような感覚を味わう。やっぱり、俺の実力はその程度なんだ……。じゃあ、何で。 「何で、二次審査を通過したんですか……」  春名は絞り出すような声で尋ねた。全く分からなかった。 「それは審査員の方の一人に猛烈に気に入られてね。最初から君の作品を出版するように言われてね。その方は賞のスポンサーでもあって、編集部としては断れなくて……」 「だから、審査員特別賞……」  春名は頭で理解が出来ても、心が追いついていない。俺は本来デビュー出来るわけではなかった。そうだ。まだ中学生で初めて書いた小説だ。当たり前だ……。 「君は確かに才能がある。初めて書いた長編小説が一次審査を突破しただけでもすごい。この世の中には何年応募しても、一次すら通過出来ない人達がほとんどだからね」  前田は励ますように言う。 「……君には才能を感じるし、このまま書き続ければ若い内にデビューは出来るだろう。でも、それは今じゃない」  厳然とした言葉と現実に春名は言葉を失った。これが現実だ。初めて書いた小説で作家デビューが出来る程甘くない。分かっていたじゃないか。 「このまま何を知らせずに君をデビューさせることも出来る。しかし、今の君の実力では世間から厳しい批評を受けたり、審査員のコネとか散々なことを言われる可能性がある。それで君の心が折れて才能を潰すよりは、真実を伝えた方が良いと思ったんだ……」  前田は申し訳なさそうにするが、春名はどうでもよくなっていた。 「……やっぱり、そうですよね。中学生が初めて書いた小説が賞を受賞するなんて、何かの間違いかと思いました」  春名は平気な振りを装い笑顔を作るが、涙が溢れないようにするのが大変だった。 「でも、このままデビューすることは出来るよ。それは佐藤君が決めてほしい」 「……」  実力不足でデビューするか、実力でデビューを掴み取るか……。 「ちょっと、すぐには答えられません……」 「そうだよね」  春名はどうしたら良いのか分からなかった。まずは伊織と家族に相談しよう。 「ちなみに、あの……」  春名はおずおずと尋ねる。 「僕の作品をデビューさせてほしいと言ってくれたのは誰なんですか」  二次審査で落選するはずだった自分の拙い作品を褒めてくれた人も居た。せめて、その人の名前だけでも知りたい。 「宇田川伊作さんだよ」  前田の言葉に春名は頭を金槌で殴られたような衝撃を味わう。 「うだ、がわ?」 「そう。あの宇田川鉄道の社長さん。元々審査員じゃなかったんだけど、読書好きの息子さんに勧められて審査員をやりたいと進言して来てね。スポンサーでもあるからお願いしたんだ。とても君の作品を気に入っていたよ」  そう言う、ことだったのか。点と線が繋がった。賞の応募を進めて来たのは伊織だった。そして応募する賞も伊織が決めた……。 「……あの」  春名は呆然とした意識の中で、あるはっきりとした感情に突き動かされる。 「賞を断ることって出来るんですか」 「え? 辞退ってこと……」  前田は驚いているようだった。 「はい、辞退します」  春名は覚悟が出来ていた。それからの前田との話は覚えていない。最後に名刺を貰ったが、春名は駅のゴミ箱に捨てた。  あの日、どうやって地元の駅まで帰ったのか覚えていない。行きは駅まで親が車で送ってくれたが、帰りは呼ぼうと思わなかった。春名は線路の横を歩きながら、家へと向かった。空はすっかり暗くなっていた。星が瞬いている。月は何処に居るのだろうか……。春名の体内で様々な感情が沸き上がり、渦のように荒れ狂う。  ただ文章を書くのが楽しくて好きだった。それだけだったのに。人は悲しいから泣くのか。泣くから悲しいと感じるのか。それは分からないが、春名の視界はぼやけ、涙が溢れて頬を伝ったのを感じた。それから嗚咽が漏れ、大声で泣いた。もう、どうにでもなれ。すれ違う人が見て来た気がしたが、ぼやける視界ではよく分からなかった。あいつは、初めからこうするつもりだったんだ。俺に長編を書くように仕向け、自分の親が審査員になれる賞に応募させて、実力不足の俺を受賞するように仕向けた。 “春名、一次通過していたよ” 怒りでどうにかなりそうだった。あいつはこう言っても、心の中で喜ぶ俺を嘲笑していたんだ。通過したのはお前の実力じゃない。自分の力だって。賞なんかどうでも良かった俺をその気にさせて、受賞と言う山の頂点に上らせたかと思いきや、転がり落とした。突き落とされた俺の身体はもう、ボロボロで動けないはずなのに、それでも怒りが身体を突き動かした。許さない。絶対に、許せない。  家の前に辿り着くも、春名は中々扉を開けることは出来なかった。親に何て言おう。あんなに喜んでくれたのに。静かに扉を開けると、春名の姿に気が付いた秋奈はお兄ちゃん!と目を輝かせながら玄関までやって来た。 「お兄ちゃん、どうだった? デビュー出来るの?」  純粋な瞳に春名は目を逸らした。視線を逸らした先にリビングのテーブルが目に入った。そこには春名の大好きなオムライスやケーキが置いてあった。春名は再び涙が出て来た。あいつは。俺だけじゃなくて、家族までも傷つけやがった。 怒りが炎のように燃えさかり、爆発した。 「……全部! あいつの掌の上で転がされてたんだ!」  春名の言葉に父と母も玄関にやって来た。 「どうしたんだ?」  父親が尋ねると、春名はわっと泣き出した。泣きながらも、体内の怒りが言葉となって噴き出す。 「宇田川が俺の作品を受賞するように仕向けたんだ。あいつ、自分の父親を審査員にして、俺の作品を受賞するようにした。俺の作品は本来、二次審査で落ちる予定だったんだ! 他人の力でデビューしたって嬉しいわけないだろ! だから賞を辞退した!」  春名は一度涙を拭いたが、再び溢れてくる。ようやく怒りは鎮火したが、今度は悔しくてたまらなくなった。 「……俺、絶対自分の力で作家デビューする。絶対にあいつを見返してやる……」 「……お兄ちゃん」  泣いている春名と一緒に秋奈まで泣き始めた。 「でも、初めて書いた小説が一次審査を通っただけでも凄いじゃないの」  母親は春名を慰めた。 「ごめん、みんなを期待させて。料理も作ってたのに……」 「これはお前が本当にデビューする時の前祝だ。だから、気にせずみんなで食べるぞ」  父親の言葉に春名は泣きながら、嗚咽で喉を傷めながら料理を食べた。春名はしょっぱい料理を食べながら誓った。絶対に作家デビューする。あいつの力なんかなくても、俺は出来る。  次の日の放課後、宇田川は平然と春名に話し掛けて来た。 「昨日編集者との打ち合わせだったんでしょ。どうだった?」  こいつ、一体どういう神経で聞いているのだろう。 「お前、ふざけるなよ」  春名は怒りを抑えられなかった。 「聞いたぞ。お前の父親のコネで俺を受賞させたって」 「……そうだよ」  宇田川が何の表情も変えずに答えた。 「だって、春名の作品をもっと色んな人に読んでもらいたいと思ったんだ」 何の悪気もない言葉と態度に、考える前に身体が動いていた。春名は宇田川の Yシャツの襟首を掴む。 「ふざけんな!」  春名が怒声を出して、初めて宇田川の顔色が変わった。 「他人の力でデビューしたって嬉しいわけないだろ! そんなことも分からないのか!」  宇田川は目を丸くしていた。 「何をそんなに怒っているの」  宇田川は春名が怒っている理由が分からない様子だった。 「デビューすると言う目標は一緒でしょ。なら、何を怒っているの」 「過程の問題だよ!」  春名は声を荒らげるが、それでも宇田川は首を傾げていた。 「過程? 目標を達成するなら、どんな過程でも良いじゃないか。そんな些細な事を気にしているの」 「些細な事?」  春名はようやく怒りが収まって来た。同時に宇田川と話が通じないことも理解し始めていた。 「……もう、いいよ」  春名は対話することをやめた。もうこいつに何を言ったって、通じはしない。 「分かってくれれば良いんだ」 「いや」  宇田川の言葉に春名は言葉を被せた。 「もうお前と話しても無駄だってことが分かった」  宇田川は何も言わなかった。 「もう金輪際、俺に話し掛けるな」  春名はそう告げて、宇田川の前から消えた。それから、宇田川が春名に近付くはなかった。  中学を卒業し、心機一転高校生活を始めようと思ったのに。背後から宇田川に話し掛けられた時は悪夢を見ているのかと思った。それからVウォーズが始まり、否が応でも春名の前には宇田川が目に入った。  春名が宇田川との因縁を神城に話していると、すっかり世界は夜へと変わり、空気が寒くなっているのを感じた。春名は声を出しすぎたせいか、喉が渇いたことに気が付いた。 「……春名君と伊織君の間でそんなことがあったのか」  神城は溜息をついた。 「……想像以上に、スケールのでかい話だったな。まるで物語を聞いているようだった」 「全部事実だよ」  春名は乾ききった口に缶コーヒーを入れて潤した。 「僕も春名君と同じ立場だったら、怒るだろうな。本当に自分の作品が好きなら、デビューが出来ると信じてほしかった」  神城はでも、と言う。 「何で伊織君はわざわざ春名君と同じ高校に行くことにしたんだろう。やっぱり、仲直りしたいからではないか」 「あいつの考えていることなんて知らねえよ」 「それにVウォーズだって。一体、何の為に始めたのか気にならないか」 「……別に」 「僕は、伊織君は悪気があって春名君の作品を無理やり賞を獲らせるようにしたわけではないと思うぞ」  そんなことは知っている。悪気がないからこそ、余計に腹が立つのだ。 「春名君は、伊織君と仲直りしたいのか」 「したいわけないだろ。俺だけならまだしも、Vウォーズで色んな人を傷つけて。許せるわけねえよ」 「……そうだな」  神城は小さく返事をした。 「今日は色々大変だったのに、長話してごめんな」 「いや、構わない。これから春名君の小説を読んで元気を回復するからな」  神城の笑みが中学の夕焼けの差す教室を想起させた。俺はあいつが大嫌いだ。俺の心を殺した。家族まで傷つけた。でも、それでも、あの時の思い出は嫌いにはなれない。初めて俺の作品を読んでくれたのは、神城ではなく宇田川だ。あの時、宇田川が俺の作品を褒めてくれなかったら、今も小説を書いていたか分からない。その事実がどうにかなりそうなくらい、憎い。 「どうしたのだ?」 「いや、別に……」 「下を向いている時間はないぞ。僕らはVウォーズを終わらせて、春名君の作家デビューの為に早く文芸部の活動を再開させないとな」 「……そうだな」  今は神城が居る。それだけで俺の壊れた心は修復されていく。 「あのさ……」  駅に向かっている最中、春名は神城に尋ねる。 「なんか言うタイミングを逃してたんだけど……」 「改まってなんだ」 「神城のこと、由希也って呼んでも良いか」 「そう言うものは許可を取るものじゃないぞ」  神城は嬉しそうに春名の腕を叩いた。二人は目を交し笑った。
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