ⅩⅩⅧ章

1/1

2人が本棚に入れています
本棚に追加
/39ページ

ⅩⅩⅧ章

 絵を描くことが好きだった。 白い何もない世界から、自分の手で形や色を付けて自分だけの世界を創り出すことが、好きだった。ペンや筆で描くこと。手を動かしても、中々頭の中の世界を具現化出来ない。難しいけれど、それでも少しでも、自分の頭の中の世界を出力出来た時は嬉しい。それで満足だったのに。  水田一穂は幼少から絵を描いた。初めて絵を描いた時の記憶はない。試しに両親が画用紙とクレヨンを渡したところ、思い思いの絵を描いた。それから一穂は人形遊びや外で友達と遊ぶことはせずに一人で絵を描いた。一穂が絵を描くことが好きだと察した両親は、一穂に筆を与えて好きに描かせた。  小学校四年の時、図工の授業で一穂が描いた水彩画が小学生のコンクールに選出された。その頃から一穂は“絵の上手い子”と学校で言われるようになった。それは一穂にとって自分が唯一誇れることであった。一穂は昔からふくよかな体型でどんくさい。運動も出来ない。勉強の成績も中の上。だんだん視力も低下して、眼鏡をかけた。登校前に部屋の姿見で自分を見ても、本当に地味だなと思う。本当はもっと丈の短いスカートを履きたいと思っても、足が太いと自認している一穂は履く勇気はなかった。ダイエットしようと思っても続かない。クラスでも地味な部類に入る。しかし、一穂には絵があった。修学旅行のしおりのイラストを描いたり、コンクールに出展したり、“絵の上手い人”と言う評価が自分の全てだった。私にはこれしかない。そう思い、美術に打ち込んだ。  高校一年までは一穂は絵を描くことに夢中だった。一年のコンクールで奨励賞を取った。その絵は昇降口の壁に貼られた。嬉しい。クラスでは見向きもされない自分が、絵でならたくさんの人の目に触れている。そして次の年も出展した。結果はまた奨励賞。そして一穂は自分が出展したコンクールの会場に行き、現実に気が付いた。私は勘違いをしていた。優秀賞を受賞した絵は、一穂にとっては天と地の差があるように思えた。優秀賞の絵は、絵の世界に引き込まれる。他にも絵が飾られているのに、この絵にしか目が、心が向かない。一体、どうしたらこんな絵を描けるのだろう。毎日何を食べて、どんな生活をしたら、こんな表現が出来るのだろう。一方私の絵は……。数ある作品の中で埋もれている。地味。これが本当の私。自分は絵が上手いと思っていたが、井の中の蛙であった。自分と年齢が一、二歳しか変わらないのに、これほどまで差があるのだろうか。悔しさや屈辱と言うよりは打ちのめされた気分だった。  しかし、一時の感情は風化する。少し経って一穂は高校三年の最後のコンクールは絶対に優秀賞を取ると決めた。それから絵を描いて応募した。一枚の為に二か月をかけた。結果は奨励賞だった。三年間奨励賞。周りは賞を取るだけでも凄いと言うけれど、結局は奨励止まり。進路も美大に行こうと思っていたが、心が揺らいだ。どうせ美大に行っても、自分よりも凄い人がたくさん居る。きっと今以上に、傷つくだろう。まだ三年の秋。ぎりぎり進路を変えられる。美大の入試用の教室に通っているけど、でも今ならまだ。 「一穂、この後時間ある?」  教室の掃除をしていると、同じクラスで掃除当番でもある水泳部の海藤美波と弓道部の如月佐都子が話しかけてきた。  海藤も如月も、本来なら一穂と仲良くなるはずはなかった人間である。海藤は帰国子女で、男子、女子分け隔てなく接することで出来る明るい性格の持ち主だ。幼少期から水泳を習っていて肌は焼けている。高校卒業後は前に住んでいたオーストラリアに留学するらしく、日本の受験とは関係ないので、三年でありながら部長を続けている。もっと言うと、水泳部は部員が少ない為、一人でも抜けるとランキングが下がってしまうらしい。  一方如月は白雪のように肌が白く、背が高くて美人である。真面目で成績優秀、祖母が旅館を経営していて将来的には継ぎたいと考えていると言っていた。大学の推薦が決まっており、進学したら勉強の間に旅館の手伝いをするから、弓道は高校で辞めるらしい。それを聞いた部員から、最後に大会に出ないかと言われ、今でも一緒に練習している。  天真爛漫な海藤に、真面目で文武両道な如月、絵を描くことが得意だがクラスでも地味な一穂。本来なら三人は別々の女子グループに所属するはずだが、Vウォーズのランキングの影響で二年からずっと掃除当番をさせられ、それがきっかけで仲良くなった。また、たまたま三人とも部長を務めていることで、より親しくなった。 「もし予備校に行くなら、断っても大丈夫だよ」  如月が柔和な笑みを浮かべる。 「あ、今日は休みだから大丈夫」 「やった! じゃあ、この後駅前のカフェに行かない? 新作の飲み物が出ててさ、飲みたいんだ」  海藤は嬉しそうに尋ねてくる。 「うん」 「じゃあ、掃除しとくから行ってきなよ」  掃除をしていると、元吹奏楽部の女子が言う。 「え、でも当番だし……」 「そう言うの、もう良くない?」  野球部だった男子も掃除道具を持ち始める。  ここ数日で、間違いなく学校の空気は変わってきている。それもこれも、あの文芸部の影響だ。美術部に下克上の話をしてきた時は、正直驚いた。もうこの学校のルールは変えられないように思っていたからだ。しかし、背の高い男子と目がぱっちりした学ランの子、何処となく影があるピアスの男子。美術室に下克上の話をしに来た三人の目は本気であった。それでも一穂は、出来上がった理は変えるのは難しいと断った。憲法を改正するのは容易ではない。この一年でVウォーズが創り上げた順位付けによる世界。それはこの超デジタル学園における憲法である。そう思っていたけれど……。  窓から中庭を闊歩する恐竜や隕石のようなバレーボールが落下するのを見た時、学園の憲法は、Vウォーズが作っていた空気が確実に壊れた。更に絶対王者の宇田川に仲の良い如月が初めて攻撃をしたこと。如月はVウォーズが始まった時から、自分の能力は卑怯だ、使いたくないと言っていた。海藤とどういう事だろうと話していたが、見えない矢を放つ能力は確かに奇策で宇田川に攻撃が出来た。それからクラスの中の雰囲気も変わった。部活を引退しても、元々所属していた部活のランキングに基づいて掃除当番をしていたが、今は大半の生徒は手伝ってくれるようになった。これは間違いなく、文芸部が起こした革命の功績だと思う。  クラスメイトに半ば教室から追い出され、三人は駅前のカフェに行った。レジで注文をし会計をしようとすると、海藤と如月に制される。何故だか二人は一穂の分まで飲み物の料金を払ってくれた。 「二人とも、急にどうしたの」  席について一穂が尋ねると、何故だか二人は心配そうな顔つきになる。 「一穂さん、最近元気がないなと思って……」 「勝手だけど、心配していたんだ」  如月と海藤は一穂を見る。二年から同じクラスと言うこともあり、二人には お見通しのようである。 「やっぱり、進路の事?」 「そうだね……」  如月の言う通りである。 「美大に行っても、私なんかよりも上手い人がいっぱい居る気がして。絵を描くことは好きだけど、なんかこのままだと嫌いになりそう……」  一穂は思わず、弱音を吐いてしまう。 「一穂、何弱気になってんの。私の周りで高校三年間、毎年賞を取っている人なんていないよ」 「一穂さんは凄いよ。不安なのは分かるけど、大人が審査して賞をくれたのは本当に才能がある証拠だよ」  海藤と如月の言葉に励まされ、一穂は幾らか自信を取り戻した。 「二人とも、ありがとう」  しかし、翌日に美大の入試対策の教室へ行くと、自分よりも画力がある生徒の絵を見て、また気分が塞がる。いつもこうだ。自分は大丈夫、自分には絵しかない、絵を描いて生きてくんだ。こう思っても、他の人の絵を見ると、自分は下手、才能がない、地味。そう思って、泣きたくなるくらい不安になる。このままじゃ駄目だ。でも、どうしたら良いのか分からない。絵を描くことが好きだったはずなのに、自分が人よりも劣っている絵しか描けなくて、苦しい。私、何のために絵を描いているんだっけ。苦しいよ。辛いよ。こんな思いまでして、何で描きたいの? でも、周りに美大に行くと言ってしまった。それに私には絵しかない。この十八年間生きてきて、私が唯一誇れることは絵しかないんだ。これを手放したら、私は……。この世界に存在が出来ない。一穂は涙を流しながらも、絵を描き続けた。何枚描いても、何を描いても、安心出来なかった。  一穂が奨励賞を受賞した絵は、まだ昇降口に飾られている。二か月かけて描いた作品。澄み渡った川にピンクや淡い水色、薄紫色のカラフルな蝶が水面に浮かんでいる。蝶一匹一匹を鮮明に描き、川の光の反射も苦労しながら描いた。でも。どうせ誰も見ていない。壁と同化している。わざわざ壁をよく見ないだろう。  放課後だった。一穂が帰ろうとした時。声が響いた。 「前から思ってたけど、この絵何?」  一人の女子の声だった。一穂はちらりと声のした方を見ると、テニス部の徳田と女子が数人居た。一穂は慌てて下駄箱の後ろに姿を隠した。 「一応、賞取ってるみたいだよ」 「すごいけど、川の上にちょうちょが居るだけじゃん」  女子達は嘲笑している気がした。そうだよね。地味だよね。私なんか……。 「アリカ、どうしたの」  ロッカーの物陰から女子達の姿を見る。何故だか徳田はじっと一穂の絵を見ていた。 「……アリカ、この絵好き」  徳田は予想外の言葉を放った。 「だって、きれいじゃん!」  徳田は笑った。一穂は徳田の笑顔を初めて見た気がした。そしてその場に座り込んだ。どうしてだか、涙が溢れて止まらなかった。一穂は初めてだった。自分の絵を上手いと言ってくれる人はたくさん居ても、“好き”と言ってくれた人は初めてだった。……私、やっぱり頑張ろう。  それから一穂は更に絵を描いた。挫けそうになっても、徳田が自分の絵を好きと言ってくれたことが自信に繋がった。私の絵を好きだと言ってくれる人が居る。徳田は美術部の後輩を引き抜きし、自分に不細工と言った女子だ。でも徳田はその通りだと思った。あの子はきっと、自信に満ち溢れているのだろうと思っていた。だから。 “私にはかわいいしかない! かわいいをとったら何も残らない! 頭悪いし、テニスだって上手くないし、かわいいしかないのに!” ああ、あの子。自分とは天と地、月とすっぽんだと思っていた。でも、あの子も私と一緒だ。一つのことにしか自信が無くて、それがないと存在出来ない。 だから一穂は絵を描いた。蝶と花。あの子を癒したい。一穂にとって、絵を描くことは自分が存在することを表すことだった。そして、絵を見ることは、癒しの為だった。疲弊した時、悲しい時、辛い時。沈んだ心を元に戻すのが芸術だと思う。だから、あの子も。絵を描き終わった一穂は、徳田の元に向かった。徳田は大事ラケットを壊し、その場にしゃがみ込んでいる。 「貴方はこの学校で一番可愛いよ」  一穂は徳田に声を掛けた。徳田は驚いたように一穂を見上げる。 「え……」 「貴方はこの学校で一番可愛い。だけど、それだけじゃない。貴方は方法は間違ったかもしれないけど、自分が可愛いことを証明する為に、四天王にまで上り詰めた。その強さは本物だよ」  徳田は目を丸くしている。 「それに友達が私の絵を地味だと言っているのに、貴方は綺麗だと褒めてくれた。周囲に同調しないで、自分の意見を言えることも誇れることだよ」 「どうして……」  徳田は驚いている。 「私、先輩に不細工って酷いこと言ったのに……」 「だって、あなた、私の絵を好きって言ってくれたから」  一穂が答えると、徳田は目を見開いた。確かに、美術部に入ってくれた女子を引き抜かれた時に、徳田に不細工と言われた。しかし、一穂は気にしていない。それ以上の言葉を徳田は掛けてくれた。 「あの絵、先輩が描いたの……」 「そう。貴方と友達が絵を見ていた時、私たまたまそこに居たの。このまま美大に行こうか迷っていた時、貴方が私の絵を好きだって言ってくれて救われた」  だから、今度は私がこの子を救う番。 「もう無理かな、駄目だなって限界を感じても、貴方が私の絵を好きだって言ってくれたことが嬉しくて、自信に繋がって、頑張れるの。ありがとう」  徳田の目が潤みだす。 「貴方は可愛いだけじゃない。可愛いを取っても、強いこと、人を救う力があることを忘れないで」  一穂の言葉に徳田は大きな瞳から涙を流した。 「泣いても大丈夫。蝶が隠してくれるから、みんなに見えないよ」  一穂の描いた色取り取りの蝶が徳田の周りに集まり出す。 「わたし、わたし……」  徳田は更に大きな声で泣いた。 「わたし、可愛いことしか自信が無くて。でも可愛いのって親のおかげで、自分じゃ何もなくて。空っぽだと思ってた。それを認めたくなくて、Vウォーズで頑張って四天王まで上って、わたしは可愛いだけじゃない、強いって満足したけど、でもバレー部に負けちゃって。自分がやってたことって何だろうって思って。もう、どうでも良くなっちゃって……」  一穂は徳田を抱きしめた。 「貴方はどうしたいの」 「……」  徳田はしばらくは泣きじゃくった。 「わたし」  徳田は一穂から離れる。 「わたし、もう一回頑張りたい」  もう泣いていなかった。しっかりとした目で一穂を見る。 「もう一回頑張って、また上に行く」 「そうね。一回負けたくらいで、終わりじゃないから」 「そうじゃないよ」  徳田はあの日のような、笑みを浮かべた。 「先輩がアリカは可愛いだけじゃないって言ってくれたから、安心してまたテニス出来る」  二人は微笑みを合った。 「もう大丈夫?」 「うん」  一穂は自分の能力を消した。蝶と花々は消えて、また体育館に戻る。徳田は立ち上がった。バスケ部員達を見る。 「参りました」  徳田は頭を下げる。 「アリカがラケットを投げて戦えなくなっても、攻撃しないで待ってくれてありがとうございます。今日はあたしが弱いせいで負けた。でも次は、」  徳田はいつものように、堂々と自信に満ち溢れた顔つきになる。 「絶対に負けないから!」 “テニス部が降参しました。よって勝者はバスケットボール部、美術部です” アナウンスが流れた。 「美術部さん、何したんですか」 「まさか勝っちゃうなんて」  一穂が陣営に戻ると、バスケ部も後輩も慌てているようだった。 「まあ、ちょっとね……」  一穂が振り返ってテニス部の方を見る。 「みんな、今日で一旦テニス部は解散。残りたい人は残って、元の部活に戻りたい人は戻っていいよ。今までごめんね」  徳田は部員にそう言って謝っている。もう今までのような、きつい印象はなかった。  戦いも終わり、今日は部活に寄らないでもう帰ろうと昇降口に向かった。そこには一穂の絵が飾られている。今までは“奨励賞”だった絵。それが誰かを救った絵になる。初めて。描いて良かったと思えた。 「先輩」  何処からか声がする。 「水田先輩!」  後ろからだった。声の主は徳田だった。 「貴方は……」 「徳田亜理華です」  あの、と徳田はまっすぐ一穂の顔を見る。 「さっきはありがとうございました!」  徳田は頭を下げる。 「アリカ、もうこの後どうしようって思ってたんですけど、また一から頑張ろうって先輩のおかげで前に進めます」 「良かった」  徳田はもっと成長出来る。そう一穂は思った。 「あの、先輩」  徳田は急に不安そうな顔つきになる。 「先輩、美大に行くんですよね?」 「え」  思わぬ質問に面食らう。 「うん。そのつもりだけど……」  一穂がそう答えると、徳田は一穂に近付いた。 「先輩、絶対に美大に行ってください! 先輩の絵、アリカ大好きだし、絶対にまた誰かの心に残ると思います!」  そう言うと、アリカは自分のスマートフォンを見せた。待ち受け画面は、今飾られている一穂の絵だった。 「本当は駄目かもしれないけど、写真撮って待ち受けにしてるんです。先輩の絵を見ると、アリカの心が綺麗になるんです」  一穂の目から涙が流れた。本当に、この絵を描いて良かった。 「ちょっと先輩、何泣いているんですか!」 「だって、嬉しくて……」 「先輩、この絵描いてくれてありがとう」  とうとう一穂は嗚咽を漏らした。 「もう先輩、私が泣かせたみたい」  徳田は困りながらも、一穂の背中をさする。 「先輩、これからカフェ行こうよ! ケーキ、すっごい美味しいところ、知ってるんだ」 「……うん」  一穂の心にはもう、不安はなかった。あの絵の蝶のように、行きたいところに飛べる気がした。
/39ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加