ⅩⅩⅩⅢ章

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ⅩⅩⅩⅢ章

 スポーツはルールに基づいた戦い。 戦いは勝敗が最重要。 勝つと言うことは、他者よりも強いと言う優越感を味わうものではなく、過去の自分の努力が報われたことの証明だ。 だから俺は勝ちたい。 自分の流した汗も時間も苦しい時間も、意味があるものにする為に。  高瀬涼雅の父は野球のコーチをしている。コーチと言っても、少年野球のチームの指導ではあるが、涼雅は父を誇りに思っていた。気が付けば涼雅も野球を始めていた。人気のあるポジションはピッチャーだったが、涼雅は興味がなかった。涼雅は一番人気のピッチャーよりも、そのピッチャーのボールを打ち返すバッターになりたかった。それから毎日バットを振り続け、父の指導を受けた。小学四年の時に少年野球のチームのレギュラーに選ばれたが、試合当日は緊張のあまり一度もバットがボールに当たらなかった。試合には勝てたが、涼雅は自分を足手まといだと落ち込んでいた。そんな涼雅を見かねて父は言った。 “野球に限らず何でも、練習は登山だと思う。登山は最初は楽しいが、段々上ることが苦しくなって立ち止まってしまうこともあるだろう。でも、登らないと頂上には行けない。お父さんは試合を登山の本番だと思う。勝てば頂上に上れたことになって、自分が今までやってきた練習が報われたと思う。逆に負けた時は頂上まで行けなかった時。まだまだ努力が足りない。もっと上るための努力が必要である。でも、だからって落ち込むことはない。次の山のてっぺんを見るまで、焦らずに上り続けるんだ” 涼雅はこの父親の言葉が忘れられなかった。練習は登山。言われてみればそうだ。  何となく、試合には勝ちたいと思っていた涼雅だったが、その何となくが消え、自分の練習の成果を確認することが試合の勝ち負けだと思うようになった。勝てれば山の頂上に登れた。負ければ、途中で止まってしまった。涼雅は毎日、練習をした。別に練習が好きなわけではない。でもこの苦しい時間、こんなに頑張っても報われるのかと言う不安を、試合に勝つことで無駄ではなかったと確認したかった。試合に勝てなければ無駄になる。絶対に、無駄にしたくない。涼雅は人よりも勝ちにこだわるようになっていった。今にして思うと、父親の言葉は諸刃の剣だった。  中学に上がり、涼雅は当然野球部に入部した。一年にも関わらず一目置かれ、涼雅は一年の夏にはレギュラーに選ばれた。これで試合に出れる。そうすれば、俺の努力が無駄ではないと確認が出来る。その頃、同じグラウンドではサッカー部も活動をしていた。サッカー部の一年にも、涼雅のように一年生でレギュラーになった実力者が居ると言う話を聞いた。その人物こそ、五十嵐司佐である。しかし別のクラスで接点のなかった涼雅はただ遠くから、そのルーキーを見ていた。よく笑う奴だな。五十嵐の第一印象である。  二年に進級し、涼雅と五十嵐は同じクラスになった。それでも普段は野球部の友人と行動していた涼雅は話すことはなかった。ある日、席替えで涼雅は五十嵐と隣同士になった。五十嵐が教科書を忘れ、涼雅に声を掛けた。 「高瀬君、ごめん。教科書忘れちゃって。見せてくれない」 「ああ」   これがきっかけだったと思う。それから五十嵐と涼雅は話すようになり、いつしか共に行動を取るようになった。五十嵐は涼雅にとって、一番の友であり、負けたくない相手、ライバルでもあり、尊敬もしていた。五十嵐は誰にでも平等に接しられた。成績も優秀で本当に、非の打ちどころがない。サッカーでもエースだった。五十嵐はよく笑った。笑うことが苦手な涼雅はいつも笑顔の涼雅が居ると、つられて一緒に笑えている気がして、居心地が良かった。三年も同じクラスになった頃、涼雅は以前五十嵐と親しくしていた男子に声を掛けられた。 「よく司佐と一緒に居られるよね」 「司佐を悪く言っているのか」  涼雅が怒気を含めて言い返すと、相手は慌てて否定する。 「そうじゃなくて、むしろ悪い所なんてない。完璧だよ」  男子は苦笑する。 「完璧すぎて、一緒に居て自分が辛くならない?」 「いや、別に」  この時はまだ、涼雅はこの言葉の意味を理解していなかった。  三年の秋の進路を決める際、涼雅は超デジタル学園に進学を決めた。デジタルでの野球の練習が気に入ったのだ。デジタルであれば、相手にボールを投げてもらわなくても、自由に設定をして練習が出来る。そして五十嵐も同じであった。双方とも別々に学校見学に行っていたので、志望校を聞いた時は二人で驚いたものだ。 「涼雅もデジタル学園か! 一緒に行けると良いな」 「お前は成績オール5だから大丈夫だろう。問題は俺だ……」  涼雅の成績は中の上と言ったところだった。理数系や体育などは問題ないが、どうにも国語や英語などの文系が苦手であった。 「分からない所は教えるし、一緒に行こうよ」  そうして司佐にも手伝ってもらい、何とか入学が決まった。先に推薦で合格していた司佐は、一般入試で涼雅が合格していた時に、何故だか泣いた。 「本当に良かった! 高校でもよろしく」  こうして、晴れて二人で一緒に超デジタル学園に入学した。そして一年の夏、涼雅は好きだった司佐に別の感情を抱くことになる。  超デジタル学園の野球部は都大会でベスト八に残る程の強豪校である。練習は中学時代よりも厳しかった。朝練は勿論、夜は七時半まで練習した。授業を受けている間は野球の休憩時間と思えるくらいだった。ここでもっと、登山を上って己の鍛練をする。対して同じグラウンドで活動しているサッカー部は六時か長くても六時半で部活を終わらせていた。下手したら陸上部の方がもっと練習をしている。中学時代までは野球部もサッカー部も帰る時間は同じだった。野球部だけが長く練習しているのか。しかし、陸上部は七時くらいまで居るし、体育館のバスケ部やバレー部もまだ残っている。練習が出来ないならまだしも、練習が出来るのにしていない。怠慢か。いや、司佐に限ってそんなこと……。涼雅は気になって本人に聞いた。 「サッカー部って、いつも何時まで練習しているんだ」 「六時か遅くても六時半までかな。その後はやりたい人は自主練。試合前はもうちょっと遅く残るけど。何で?」 「いや……」  涼雅は言おうか迷ったが、恐る恐る尋ねた。 「司佐はもっと練習したいと思わないのか」 「え?」  五十嵐は涼雅の質問に驚いたようだった。 「俺は別に今のままで丁度良いけど。放課後大体四時から六時まで練習すれば十分だと思う」 「十分?」  涼雅の中で完璧だった五十嵐の印象に亀裂が入る。 「お前はサッカーをなめているのか。毎日二時間しか練習しないで、強豪に勝てると思っているのか」 「まあそれはそうだけど……」  五十嵐は困ったように笑う。 「俺、勝ち負けよりも楽しければそれで良いから」 「たのしい……」  涼雅はそれ以上は言えなかった。 たのしい。 楽しければそれで良い? ではあいつは、何の為にサッカーをしているんだ。苦しくて辛い登山。どれ程足を動かしても、きちんと頂上に向かっているかも分からず、不安を抱えながら登ることがどれだけ大変か。それを楽しい? 登山が楽しいだけではないだろう。あいつは頂上に上らずに山の麓を登ってそれで満足して下山する。そんなこと。そんなこと、あって良いのか?  更に追い打ちを掛けることがあった。土曜日にサッカー部が他校との試合があるとのことで、練習の合間に様子を見ていた。試合は他校の勝利だった。司佐はさぞ悔しい思いをしているだろう、これで練習に励むかな。そう思っていた涼雅は目を疑った。あろうことか、司佐は笑っていた。負けたのに? どうして? あいつは本気でサッカーをしていない。お遊びでやっている。そんなこと。あっていいのか。  その日を境に涼雅は司佐を避けることにした。軽蔑をした。勝つ為の練習は厳しく、自分を追い込むものでないといけない。楽しいと思う内は強くなれない。それなのにあいつはいつもヘラヘラ笑ってやがる。一緒に勝利に向かって努力していると思ったら、とんだ間違いだった。  そして、Vウォーズが始まった。最初は部活同士の力を見せ合う。そんな優しい言葉で説明していたが、これは同じ戦争だ。勝った時こそ、自分の努力の鍛練が認められる。俺には才能はない。稀に何も考えずにただ勝利をもぎ取って、楽々と登山をする人間も居るが、俺はそうではない。俺が勝つには、山を登り切るのは努力と鍛練あるのみ。  Vウォーズが始まった頃、涼雅はまだ平部員だったが当時のキャプテンに話し、まずは戦いなれていない文化系の部活を狙った。案の定、ポイントはすぐに集まった。涼雅の中では、五十嵐も文化部も同等であった。ただ音楽を奏でたり、絵や文を書いている部活などよりも、毎日七時まで練習をしている方が凄い。野球部の順位はどんどん上がり、ついに二位にまで浮上する。後はVウォーズを始めた宇田川を倒すのみ。そう思っていたが。宇田川はただのパソコン部だ。そう慢心していたせいか、返り討ちにあった。返り討ちと言っても、何をされたか分からない。気が付けば負けていた。涼雅の中で警報が鳴る。こいつには勝てない。これは本能と呼ぶべきか、抗えない現実を教える音だ。脳内で警報が鳴ったのは五十嵐に次いで二人目だ。  しかし二位に上り詰めてからが大変であった。ポイントを奪取したい部活は、一位の宇田川には敵わないと思い、二位の野球部を攻撃してきた。更に他の部活からも入部があり、一年生に対して多数で挑んだり、順位の高さを盾に女子に声を掛けることにあった。そう言った場合はすぐに退部させていたが、外部からも内部からも圧迫されていた。何処に居ても気が抜けない。そんな緊張感のある生活から、涼雅はますます笑みを浮かべる五十嵐を憎く思えてきた。何故、あいつはいつも笑っているのか。そんなに楽しいのか。楽しさを優先していては勝つことは出来ない。永遠に頂上には行けない。どうして俺はあんな奴に勝てないと悟ったのだろう。今ならあいつに勝てる。勝って俺の方が上だと確認しないといけない。涼雅は試合での一件から五十嵐に対し距離を置いていたが、五十嵐も薄々涼雅の拒絶に気が付いており、以前のように頻繁に話してくることはなくなった。涼雅は五十嵐を山に登る途中の障害だと思えてきた。あいつは性格の良さも勉強の出来も容姿も全て、何もかもが俺の上だ。でも、俺は楽しみながら山を登っている奴に負けたくない。そう思い、涼雅は五十嵐との戦いを望んだが五十嵐は頑なに拒んだ。そんな中、更に涼雅の五十嵐への憎しみに拍車をかけることがあった。部室に入ろうとすると、涼雅が居ないと思ったのか一年生の会話が聞こえた。 「俺達のキャプテンもサッカー部の五十嵐さんか陸上の椎名さんが良かったな」 「特に五十嵐さんとか凄い性格良さそうだし、一年の悩みとかも聞いてくれてさ。やりやすいって」 「高瀬さんも凄く努力してるし憧れるけど、みんなあそこまでストイックに練習出来ないよな」 「分かる。相談とかも出来ないよな」 「練習もハードでなんか軍隊みたい」 「確実にレベルは上がってるけど、ミスしたら殺される」 ここでも五十嵐か。涼雅は中学生の時に言われた言葉を思い出した。 ”一緒に居て嫌にならない” 今なら分かる。五十嵐と居ると周囲が勝手に比較する。それに疲れて皆、五十嵐から離れていくのだ。でも俺は違う。俺はそこらの凡人とは違う。比較されようが構わない。ただ愚直に山道を登るだけ。登るだけなのに……。今でも五十嵐が自分の一歩先を行っている気がして、無性に腹が立つ。あいつを倒さないと。いつまでもこの怒りを抱えるのだろう。早く解放されたい。だから。 ”は?” ”そんな理由で” 四年間一緒に居て、初めて五十嵐の怒りの感情を目の当たりにして、涼雅は情けなくも一歩下がってしまった。更に温和で人の悪口も一切言ったことがなかった五十嵐から放たれた拳を受けて倒れこんだ時。忘却していた八乙女との会話が走馬灯のように蘇る。放課後だったか、いつだったか。 「高瀬君は何故、五十嵐君を目の敵にしているの」  茶道部の八乙女から質問をされた。高瀬は正直、八乙女が苦手であった。女子そのものもどう接したら良いのか分からないのに、全く感情の読めない八乙女は更に対応に困った。同じ四天王でも徳田の方がまだ、乱暴だが感情の起伏が分かって話しやすい。 「お前には関係ない」 「そうよね」  意外にも八乙女はあっさりと引き下がった。 「高瀬君は野球をしていて楽しい?」 「何故、そんなことを聞く」 「楽しそうに見えないから」  八乙女はきっぱりと言い放った。 「肉体の疲労は睡眠で回復出来るけど、心の疲労は芸術で回復すると思うの。芸術はなくても生きていけるけれど、誰かの心を回復する力がある。お茶を飲むことも、音楽を奏でたり聞くこと、絵や小説を書いたり、見たり読んだりすること。誰かにとっては心が安らかになる。芸術に限らず、スポーツもそう思うけど、高瀬君は?」 「俺は……」  高瀬は八乙女の質問の意図が分からなかった。 「俺は自身の毎日の練習の成果、努力を試合で勝つことで確認している。そこに楽しいと言うのはない。楽しいと思うは怠慢だ。楽しければ気がたるんでいる。練習は辛いと思わなければ練習ではない」 「確認。新しい考え方ね」  八乙女はは興味深そうに頷いた。 「楽しいのは悪いことではないと思うけど」 「楽しいと言うのは余裕があると言うことだ。余裕がある内はまだ練習が足りていない」 「余裕がある、か。だから高瀬君は五十嵐君を目の敵にしているのね」 「俺は司佐を倒さねばならない。あんないつもへらへら笑っている奴よりも、俺の方が上だ」 「Vウォーズの順位は高瀬君の方が上だけど」 「そう言うレベルじゃない。個人での話だ」 「……隣の芝は青いと言うことか」  八乙女は何故だかため息をついた。 「余計なお節介かもしれないけど、ああ言う普段は穏やかで笑みを絶やさない人間ほど、怒りが迸れば大変なことになる。くれぐれも気を付けることね」  八乙女は去っていった。正直、あいつは何が言いたかったのか理解が出来なかった。でも、今なら分かる。まさに今、五十嵐は怒りを爆発している。  涼雅は殴られた衝撃で体育館の天井を見ている。このままでは負ける。また負ける。それは、絶対に。起き上がろうとすると、既に五十嵐は目の前まで来ていた。 いつもの笑みは消え、見下ろされる。 ああ、俺は。 五十嵐は涼雅に近寄ると無言で胸倉を掴み、再び拳が顔に当たった。ヴァーチャル空間の為痛みはないが、顔を枕に押し当てたような感触が残る。頭上で自分のポイントが減らされているのが見えた。五十嵐はそのまま涼雅に馬乗りになり、拳を振り上げる。ポイントが三千五百、三千と五十嵐の拳が降って来る度に五百減って行く。このままでは負ける。何とかしないと。涼雅が起き上がろうとしても、五十嵐は動かない。今まで無言で涼雅を殴っていた五十嵐が口を開いた。 「……涼雅が、俺のことを嫌ってるって、分かってた。俺が原因だって。でも、それは涼雅の勝手な理由じゃないか! 俺は何もしてないのに。涼雅は特別だと思っていたのに……」  俺は特別? 涼雅は何を言っているのか分からなかった。 「……お前は、いつも笑ってばかりでサッカーに真剣じゃない。それが嫌で、そんなお前に負けている俺がもっと嫌なんだ」 「負けってなんだよ。意味分かんねえよ!」  五十嵐の目が怒りから悲しみに変わる。しかし、振り下ろされる拳は止まらない。 負ける。 直感で悟る。対抗しようとする気力も湧かなかった。もはや、勝ち負けなどどうでも良くなっていた。 “野球部のポイントがゼロになりました。サッカー部の勝利です” アナウンスが流れ、ようやく五十嵐の手が止まった。 「これで満足かよ……」  五十嵐は泣いていた。涙が涼雅の頬に落ちた。 「……俺、涼雅と一緒の高校に行けるってなった時、本当に嬉しかったんだ。友達がみんな俺から離れていく中、涼雅だけは一緒に居てくれて、勉強も野球も真剣で一度決めたらまっすぐ進み続けて努力出来る涼雅を尊敬してて、大好きだった。それに俺の友達で居てくれた。俺の中で、涼雅は特別だった。でも、お前も俺のこと嫌いになるんだな……」  俺は何て馬鹿なのだろう。五十嵐の涙が降り注ぎ、病的に登山に固執していた涼雅の世界に雨を降らす。大雨では登山は出来ない。 「……すまなかった」  五十嵐の涙の混じった声を聴いて、涼雅は我に返った。五十嵐は涼雅から離れ、ようやく起き上がることが出来た。 「……俺は、自分のことしか考えていなかった。中学から司佐は友達でもあり、ライバルだった。誰とでも話せて、勉強も出来る司佐に俺は劣っていると思っていた。でもそれで良かった。悔しいと思わないくらい、お前のことが友達として好きだった」  中学の時は今のような感情は一切抱いていなかった。 「しかし高校生になって、自分は努力して辛い思いをしているのに、笑いながら楽しくサッカーしている司佐を見て、弛んでいると思った。それから司佐を見ると、無性に腹が立った。自分はこんなに辛い思いをしているのに、どうしてお前は楽をしているんだって。しかしそれは、司佐が変わったからじゃない。俺が変わったんだ」  自分は辛い思いをして登山をしているのに、司佐は笑って楽しそうにしている。ずるいと思った。間違っていると思った。いつの間にか司佐のことを僻んでいたんだ。 「本当は分かっていたんだ。司佐は楽しみながらも、努力をしていることを。しかし、俺は要領が悪くて楽しさと真剣さを両立出来ない。だからこそ、お前を遠ざけてしまった。全部俺の弱さだ。すまなかった……」  涼雅は再び頭を下げた。 「……なんだよ、それ」  顔を上げると、五十嵐がいつものように笑みを浮かべる。 「こんな全校生徒の前で喧嘩みたいなことしてさ」 「……そうだな」  俺は一体、何と戦っていたのだろう。自分の自信のなさを、自分が認めたくないものを、全て司佐の所為にしていた。 「俺は、自分が認めたくないものを、全部お前の所為にしていて、」 「許すよ」  五十嵐はいつものように笑顔を作る。司佐の笑顔。見るのはいつ振りだろう。 「その代わり、また友達になってよ」 「……嫌だ」 「え?」  五十嵐が瞠目する。 「もう親友だろう」  涼雅は右手を出した。 「そうだった」  五十嵐は嬉しそうに握り返した。  体育館は騒然としていた。全校生徒の前で喧嘩する姿を晒したのだ。もはや戦いではない。しかし、恥ずかしいと言う感情はない。今は何故だか、晴れ晴れとした気持ちだ。 「今日の部活さ、サボろうぜ」 「サボる?」  五十嵐の提案に涼雅は訳も分からずに繰り返した。 「サボるとは具体的に何をするんだ」 「マジか……」  五十嵐は苦笑する。涼雅は今まで練習を休んだことはなかった。 「そうだな。ゲーセン行ったり、映画見たり、ファミレスでだべったり……。あ」  五十嵐は何か思いついたように笑顔になる。 「中学の時みたいに、俺の家でゲームしない?」 「……そうだな」  中学時代、部活が休みの日はよく五十嵐の家でゲームをしていた。高校に上がり、いつしか行かなくなってしまった。 「じゃあ、昇降口で待ち合わせしよう」 「分かった」  涼雅は副部長に部活を休むことを伝えた。さすがに全校生徒の前で五十嵐にタコ殴りにされて傷心したのかと部員は心配していたが、逆に涼雅は五十嵐に殴られて目が覚めた気がする。  登山をするのにも人それぞれ目的とペースがあるのだ。俺のように頂の景色を目標に山を登りたい者が居れば、司佐のように休みながら、楽しく登りたい人間もいる。人それぞれ違う。正解もない。それを忘れていた。  昇降口で靴を履き替えていると、八乙女が通った。 「もう帰るの? 部活は?」 「ああ。司佐に誘われて、今日はサボる」 「サボる?」  八乙女は今までにないくらい目を見開く。 「……天変地異の前触れかしら」  そう言うも、すぐにまたいつもの落ち着いた表情に変わる。 「たまには良いんじゃない。野球から離れてみても。遠くからでしか見えないものもあるし」 「そうだな」 「あ、椿先輩!」  八乙女は剣道部の桜に呼ばれる。 「じゃあ、また明日」  八乙女はそう言って、桜の元へ行く。すると、すぐに五十嵐がやって来た。 「涼雅、八乙女さんと仲良いんだ」 「別にそんなんじゃないが……」 「大和撫子って感じで良いよね。度胸もあるし」 「度胸?」 「知らない? うちの部員がさ、廊下で歩いているときに、宇田川君と八乙女さんが歩きながら話しているのを見たんだけど、宇田川君が怒らせたのか分からないけど、八乙女さんが宇田川君の頭を叩いたんだって」 「宇田川の頭を? 命知らずか?」 「凄いよね」  五十嵐は感心している様子だが、涼雅は内心恐ろしく思う。俺も変な事を言って叩かれなくて良かった。 「じゃあ、行こう」  五十嵐に誘われて校舎を出る。何だか身体が軽くなったような気がする。楽しいことは悪ではない。八乙女の言う通り、たまには遠くから野球を見つめなおすのも良いだろう。
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