赤い糸

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 和希との出会いは運命だと思っていた。  それは優子が大学二回生のときだった。  その日に限って、目覚まし時計がならず、大事な春学期の期末試験に遅刻しそうになっていた。  優子は試験が行われる教室に駆け足で向かっていた。すると、誰かとすれ違い際にぶつかって、優子は派手に尻餅をついた。バッグも肩から落ち、中身が道路に散乱した。  ――こんなときに限って……  優子は下唇を噛んだ。  そんなときだ。頭上から「大丈夫?」という優しい声が降ってきたのは。  声の方を見上げると、同年代の青年が心配そうに優子を見ていた。  彼は優しげに手を差し出した。そして、優子はその手を受け取った。  これが優子と和希の出会いだ。  和希とは、物事の考え方も食の好みも笑いのつぼも金銭感覚も……いろいろな面で驚くほど気が合った。出会うべくして出会い、惹かれるべくして惹かれ合った、そんな気さえした相手だ。  大学を卒業してもふたりの順調な交際は続き、社会人3年目の冬に優子は和希にプロポーズされた。 「優子のこと、絶対幸せにする。それに……」    和希は照れたようにえくぼを作り言った。 「優子と俺、なんか運命感じるんだよね」と。  あれから十五年の月日が流れた。  ふたりの歯車が狂い始めたのはいつからだろう。  結婚生活を始めてからだろうか、それとも子どもが産まれてから……?  ふたりの生活が日常になって、子どもが産まれてからは幸せを噛みしめると同時に責任ものしかかった。  仕事はお互い忙しい。社内で中堅ポジションになった和希と優子は、任される仕事の責任も重くなり、上司と後輩の狭間でストレスも増えていた。  優子が仕事で重くなった体を引きずって家に帰ると、子どもの世話と家事が待っている。幼い月齢から保育園に預けている負い目もあり、家に居るときくらいは精一杯子どもと向き合いたい。  ――けれど、そんな余力、わたしには残ってない。  毎日、毎日、濡れぞうきんみたいに力を絞られて、いや、自ら絞って、今やボロボロの古ぞうきんみたいに、心に潤いは残っていない。    以前だったら自然とできていた和希への気遣いができなくなった気がする。今まで、ちょっとした不満も笑いに変えられたのに、いつしか小さな不満は優子を苛立たせ、和希そのものに対する不満へ変わっていった。  変わったのは優子だけじゃなかった。和希もまた変わった。家事の細かいやり方について、優子が少しでも「こうしてほしい」と言えば、一気に不機嫌になり「だったら自分でやれよ」と言うようになった。  前は仕事が終わると一目散に家に帰って来ていた和希は、今ではわざと外に用事をつくっている気がする。優子は、こんなに忙しく家のこともこなしているのに……とさらに和希への不満が募った。  そんな生活が三年も続いた頃。  優子は少し残業して、いつものように娘を迎えに急いで保育園に向かった。しかし、保育園に娘は居なかった。  先生によると、さっき和希が迎えに来たという。スマホを見るとちょうど今しがた和希からメッセージが入っていた。 「出先から直帰したから、迎えに行った」  優子はそれを見て、まず腹が立った。  和希がお迎えに行ってくれると分かっていればもう少し残業できたのに、と。最近、優子の職場ではごたごたが続いていて、同僚はみんな遅くまで残っているのだ。毎日、頭を下げて退社してるというのに。和希は何も分かっていない。自分の都合のいいときだけ、娘を可愛がるのだ。  今からでも、会社に戻ろう。  そう思って、来た道を戻っていたら、顔に冷たい水滴が落ちた。  ――もうっ、ついてない。雨の予報なんて出ていなかったはずなのに。  気持ちがざわついている間に、雨は急激に強まり優子に降りかかってくる。  どこかで雨宿りしようと周囲を見渡すと、一軒の花屋が目に留まった。そこは、昔から商店街にあるような花屋ではなく、今どきのお洒落な雰囲気を醸し出している。確か一年ほど前にオープンしたはずだ。ずっと気になってはいたけれど、立ち寄る時間も花を買う心の余裕もなかった。  木製の扉を押し開けると、明るいグリーンの葉に迎えられた。華やかな花の香りが鼻孔をくすぐる。  単純なようだけれど、曇っていた心が一気に上がった気がした。  雨に濡れて重くなっていたパンプスのはずなのに足取りは軽く、優子は目に付くまま美しい花たちを見て回った。  しばらくして、奥のレジカウンターから出てきた店員の男性が近づいてきた。手には赤い薔薇が一本握られている。 「どういった花をお探しですか」  丸眼鏡がよく似合う店員は、穏やかな口調で尋ねた。見た目は優子と変わらない歳だが、やけに落ち着いた雰囲気を持っている。  何故か、優子は彼の深みのある瞳から視線が外せなくなった。  何も答えない優子に、彼は視線を反らし、優子の濡れた衣服を見た。 「すみません、気がつかなくて。今タオルをお持ちしますので、カウンターの椅子に座っていてください」 「あっ、いえ、そんな……」  優子は遠慮したが、彼は優子をエスコートするように椅子まで導いてくれた。それはまるで運命の赤い糸に引っ張られるように――     ******** 「ひょ~~、いいね、いいね!」  アオノさんの卓上モニターには、ある女性の新たな出会いが映し出されていた。アオノさんは興奮した面持ちで奇声を発している。  その声に、隣の席のシロタさんがモニターをのぞき込んだ。 「こ、これはっ……あなたは、いったいなんてことしてくれちゃってるんですかっ!?」  シロタさんもアオノさんに負けじ劣らず声を張り上げた。  これはまずい空気だ。見ると、シロタさんのこめかみには青緑の血管が浮き出ている。 「なんだシロタ、文句あんのか? おまえが15年前、赤い糸を結んだふたりが上手くいかなくなったから、この俺様が女のほうに新たな赤い糸を準備してやったんだ」  アオノさんの言葉に、今にも破裂しそうなシロタさんの血管が、神経質にこめかみをぴくついた。 「んぬあ~……私のマッチングミスだったとでも言いたいのですかっ? 15年前、私がありとあらゆるデータを分析解析して、優子と和希に赤い糸を結んだというのに……それが間違いだったと?」  アオノさんは面倒くさそうに、でも、どこか面白がるようにシロタさんを横目で見る。 「だから、いつも言ってんだろ? シロタみたいに手間暇かけてマッチングするふたりを選定したところで、数年経てばこの有様よ! ほら見てみろ。この女、花屋の店員にとろんとしてやがる。こりゃあ、不倫一直線だな~」  いくらなんでも軽口が過ぎる……とは思うが、そういう私もモニターのふたりから目が離せない。優子というこの女性は、アオノさんがつないだ赤い糸を振り切ることができるのだろうか。それとも……? 「あなたって人は……! どうして、そうも不真面目なのですか? いいですか!? 我々の使命は、人間界を末永く存続させるべく……」 「あのなあ。存続たって、個人が幸せじゃないと意味ないだろ? 最近のこの女、幸せに見えたかよ?」 「そ、それは……」  さて、先ほどから罵声が飛び交っているが、これは『赤い糸結ぶ事務局』での一幕である。それぞれのデスクの上には下界、つまり人間界が映し出されるモニターが設置されている。  『赤い糸結ぶ事務局』に配属される面子は、その昔、神に仕えていた神使である。神使の役目を終えた者は、隠居するか、神の役割の末端を担う部署にスライドされる。つまり、『赤い糸結ぶ事務局』は神使の天下り先なのだ。  かく言う私も、五千年に及ぶ神使の職を全うし、百年前にこの部署に来た。ここに来て三千年のアオノさんにしてみれば、私はまだ新人なのだそうだ。  我々の使命は、人間界の存続。つまり男女をカップリングし、子孫を残させることである。そのために、人間には見えない『赤い糸』を結ぶ。我々によって赤い糸を結ばれた男女は、強烈な力を持って惹かれ合う。  そう、まるで『運命のふたり』だったと感じるような――。    昔はモニターもシステムもなかった『赤い糸結ぶ事務局』だが、今や近代化の波が押し寄せ、だいぶ効率的になった。ランダムにシステムが抽出した人物に合う人を、これまたシステムによって細分化されたデータを照らし合わせてマッチングすればいい。  今やクリックひとつで、長続きしそうなカップリングが導き出されるのに、古株のアオノさんとシロタさんは己のこだわりを持って仕事をしている。  アオノさんは、実に危ういカップリングをする。わざと合わない人同士に糸を結ぶ。人間の幸せを考えていると力説していたが、本当のところ、ギャンブルのようなスリルを味わいたいだけなのだと思う。  一方のシロタさんは、システムが導いたカップリングを信じず、自らの調査分析によって、一件一件時間をかけてカップリングする。  私から見たら、ふたりとも実に非効率的なやり方をしている。ふたりの年間カップリング実績数は、局内で群を抜いて最下位だ。 「まあまあ、おふたりとも落ち着いて。人間界は今、晩婚化が進んでいます。我々にできることは、若者を効率よくカップリングし、子孫を……」  私がふたりの間に入ると、アオノさんから強烈なビンタを食らった。 「なあに馬鹿なことを抜かすか、この青二才!」  今度はシロタさんから強烈なにらみを喰らった。 「そうですよ。指一本、ぽんとクリックするだけでカップリングするなんて職務怠慢です!」  はあ……また始まった。ふたりは息が合っていないようで、そうでもない。特に後輩である私を叱るときなんて、結託したように息がぴったりである。  私は話題をそらすべく、まだ見つめ合っているモニターの中のふたりに注意を向けた。 「それにしたってアオノさん。この花屋の男、相当危険ですよ。外向きは落ち着いた紳士ですが、化けの皮が剥がれたら、とんでもない俺様気質の男です」  私が花屋の男のデータを読み上げると、シロタさんの顔が真っ赤になった。 「なんとっ! アオノさん、今すぐこのふたりの赤い糸を切ってください! 優子に俺様男は合いません」 「嫌だね。わざわざ、わざわざ天気操作事務局に掛け合って、雨まで降らせた出会いだぞ!」  そう、もし偶然が重なって出会ったふたりが、それを『運命』と思っているなら……残念ながら、その偶然は我々が演出したものである。  15年前、優子の目覚まし時計がならなかったことも、人にぶつかってカバンの中身が散乱したことも。当時の担当者であるシロタさんが仕組んだことだ。  今回で言えば、和希が急に娘を迎えに行ったことも、あの男がいる花屋の近くで雨が降り始めたことも。アオノさんのいたずらによるもの……確かに天気操作事務局の局員は頭が固いから、雨を降らせるのは大変だっただろう。  なにはともあれ、これらの出来事の偶然は、すべて我々『赤い糸結ぶ事務局』の担当者が仕組んだことである。    出会いに運命など存在しない。  しかし、出会った先は我々の知るところではない。我々の職務によって出会ったふたりが、その後も惹かれ合うことができたなら、それは真の『運命』なのかもしれない。  そうそう。  出会いがないと嘆く人間界のあなたへ――  システムも我々も気まぐれである。気を落とさずに待っていれば、きっと運命と誤解する出会いが死ぬまでにあるだろう。  それでもないと言うのなら、あなたがあまりにも鈍感で、我々が用意した演出に気づかずに素通りしているだけだろう。  最後に。  アオノさんのような担当者に当たってしまったあなた、きっと波瀾万丈な人生が待受けているでしょう。  もし、あなたが平穏無事な人生を望んでいたのであれば、アオノさんの同僚として、心より謝罪申し上げます――  *** end ***
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