一、夢を見る

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「ごめん!」  突然の叫びで岡崎玲(おかざき・れい)ははっと我に返り、それから初めて、自分がずぶ濡れになっていることに気がついた。  今日は雲ひとつない晴天だった。今はもう夕暮れどきで、その空も綺麗なオレンジ色に染まっている。そんな空を呆然と確認してから、玲はずぶ濡れの自分の体に改めて目を落とした。着ていた制服は水を含んで重たくなっている。そこから滴る水滴がローファーをも湿らせていた。これは決して雨のせいではない。それから玲は、こうなるに至った経緯を思い出す。  今はちょうど高校からの帰宅途中だった。ただ常と違ったのは、寄るところがあったためにいつもとは違う道を歩いていたということだ。違う道とは言っても、普段はあまり通らないというだけでよく知った道ではある。ここは人通りの少ない住宅街で、気をつけるべき自転車や自動車は滅多と通らないことも玲は知っていた。だから玲は、安心してぼうっとしていたのだ。それがいけなかったようだ。  突然、水が降ってきた。それも、雨のような雫ではない。大量の水の塊が、目の前から突如飛んできたのだ。あまりにも唐突のことでそれが「水」だと気がついたのすら少し遅れてからだったが、とにもかくにも、なにか冷たくて勢いのある塊が顔面目がけて飛んできたわけである。  そんなことをぽつぽつと思い起こしながら足元のアスファルトに広がっていく水たまりを眺めていると、また唐突に、後頭部からばさりとなにかがかぶせられた。それと同時に視界が暗くなる。 「本当にごめんね」  そう声をかけられながら被せられたもので髪の水滴を拭われ、それが大きなタオルであることに気がついた。はっとして顔を上げれば、目の前には情けなく眉尻を下げて玲のことを伺うように見つめてくる男がいる。 「ごめん。まわりをちゃんと見ないで水を撒いちゃった。本当にごめん」  そんなふうに何度も謝罪を口にするその男は、二十五、六歳といったところだろうか。高校二年生の玲よりは断然年上ではあるが、若そうに見えた。肩まである緩いウェーブのかかった髪は金色に染められ、風で時たま揺れるその隙間から覗く耳にはいくつものピアスが光っている。そして、とても背が高い。玲は確かにクラスでも背が低いほうではあるが、そうでなくても、学校にこれだけの背丈の男が何人いるだろうか、というほど男はすらりとした上背をしていた。  とにもかくにも、今目の前にいるのは、そこそこに校則が厳しい進学校に通う玲にとってはあまり馴染みのない風体の男だった。それでも「怖い」という感情が出てこないのは、ひとえに、男が申し訳なさそうに眉尻を垂らしてぺこぺこと何度も頭を下げてくるからだろう。その顔つきにも、彼の人柄が滲み出ているような気がした。 「ね、店に入って。中で髪と服を乾かさなくちゃ」  と、ぼんやりとしている玲に、男はそう言葉をかけてくる。 「店」  玲は呆けたようにそう繰り返し、それから、男の腰に黒いエプロンが巻かれていることに気がついた。そんな玲に、男は「うん」と頷く。そして、ちょうど男の背後にある建物を目で示した。 「ここ、僕の店なんだ。なにか温かいものも出すから」  玲も男の視線を追うように、その建物に目をやる。そこにあったのは、レンガ造りの家を模した二階建ての一軒家だった。一階部分がカフェになっているらしい。ただ、そう言われないと店だとは気がつかないような見かけだった。よく言えば、「隠れ家風」というやつだろうか。初めて通る道ではないのにこの店の存在にはまったく気がつかなかったのも頷ける。 「ねえ、大丈夫?」  と、あまりにも玲が反応を返さなかったからだろう、男はより一層心配そうな顔つきになり、玲の顔を覗き込んできた。間近で目と目が合い、玲は思わず息を呑む。先ほど「優しい人柄が滲み出ている」などと思っていたその顔は、よくよく見ればとても整っていた。スタイルといい顔つきといい、実は芸能人なのだと言われても納得してしまいそうである。 「だ、大丈夫、です」  どうにかこうにかそう応えれば、男はほっとしたように目尻を下げた。 「よかった」  男はそう言うと、促すように優しく玲の背に手を置く。そして、何気ない仕草で玲の持っていた学生鞄も攫っていった。 「寒いでしょ。風邪を引くといけないから、早く中に入って。ね」  優しくそう言われて、玲は男の柔らかい表情に半ば見惚れるようにしながら、のろのろと頷いてしまった。本当であれば、警戒すべきところなのかもしれない。知らない男、金髪、ピアス、あまりにも手慣れたように鞄を攫う仕草。それから、玲の背に添えられた優しい手。  玲はぶるり、と体を大きく震わせた。それが濡れそぼった故の寒さからなのか、それとも他のなにかなのか、玲には判断がつかなかった。けれど玲は、それを寒さのせいにした。桜は散ってしまったと言えど、まだ暖かい日々には少し遠い。だから、これは寒さのせいだ、と。 「コーヒー、飲める?」  男の手が玲の背を押す。 「……はい」  玲は頷き、男の誘導に従う。そして、男が開いてくれた扉をくぐり、カフェに足を踏み入れた。  *  *  今日は、おそらく学生にとってはとても重要な日だ。学校で過ごす一年間の最初の日。今日という日を境に、玲は高校二年生という新たな一年をスタートさせた。  そして玲は、この初めの一日が大嫌いでもあった。「この日」と言うよりも、「この儀式」と言うほうが正しいかもしれない。だって、一年かけて築き上げ、ようやっと慣れてきたはずの「クラス」というひとつの世界が呆気なく解消されてしまうのだ。そしてまた、新しいメンバーに囲まれて互いに様子を伺い合い、自分のポジションと役割を探り合う日々が始まるわけである。この日を楽しみにしている人がいるということも重々承知はしているが、それでもやっぱり、玲はこの儀式が嫌いだった。理不尽だ、とすら思っていた。
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