六、『憧憬』

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 一馬が玲に「好きだ」と言ったあの日のことを思い出す。あの日の一馬は、聖の店へ行こうとする玲を必死にも見える様子で問いただしてきた。どこへ行くの。誰と会うの。なにをするの。あれは、玲の隣に自分以外の誰かが立とうとしていると勘違いしたからこその焦りだったのではないか。『幼馴染み』という隣に立つ理由が別の誰かに負け、その権利を奪われてしまうと思ったからではないか。 (だと、したら……)  玲は薄い腹をするりとまた撫でた。先ほどの黒い澱とは別のものが、そこで疼き始めていた。忘れ始めていた熱もぶり返してくる。 (一馬も、これが嫌であんなふうに告白してきたんだとしたら、)  だとしたら。 (俺も、同じじゃんか……)  むずり、と唇が無意識に蠢く。意味もなく、眉間に皺を寄せてしまう。 「あっつ」  玲は熱を持ったため息を吐き出した。自分の中にあった感情に名前がつく、というのはなんとも不思議な感覚だ。けれど、嫌な感じではない。ストン、とくる。まるで、難解だったパズルのピースがやっと綺麗に嵌まったような感覚だった。不完全だった自分が、これで完成したような、そんな感覚。嫌な感じではないけれど、なんだか気恥ずかしい。玲は堪らず目を閉じる。夜風を肌に感じてほっと息をつく。  一馬を月か太陽かでたとえるなら、きっと端から見たら、月みたいだと答える人が多いだろう。むしろ、全員が全員「月だ」と言うのでは、と思う。一馬はきっと、静かで穏やかなイメージだろうから。  でも、玲からしたら一馬は圧倒的に太陽だ。向かうべき方向を教えてくれるような、そしてぐいぐいと背中を押してくれるような、強く照らし出してくれる人なのだ。一馬は玲にとっての光だ。  夕日を背負った一馬の姿が瞼に浮かぶ。ほら、と玲は思う。一馬はこんなにも太陽が似合う。  それからもうひとつ、頭によぎるものがあった。以前に見た絵だ。一馬に連れて行ってもらったギャラリーにある、壁いっぱいの絵。白んだ朝の空気の中に凜と立つ枝木。それらに両の手を伸ばす赤髪の妖精。 (あの妖精が太陽なのかもしれない)  そんなことを思ったのだ。後ろ姿の赤髪の妖精は腰から上が描かれていた。それは今まさに地上に姿を現した太陽のようにも見える。  だとしたら両の手を伸ばしているあの姿は、もしかしたら、来る朝を受け入れようとしているのではないのかもしれない。その姿は、どちらかと言うならば。 (……憧れてたのかもな)  自分が地上に現れれば掻き消えてしまう夜闇。どう足掻いても隣には立てない。絶対に手には入らない。  一度そう考えたら、もうそうとしか思えなくなってきた。玲ははっと目を開く。空がぼんやりと白んでいた。あの絵と同じ時間帯に差しかかろうとしている。  あの絵をもう一度見たいと思った。絵だけではない。あの日はあの絵をぼんやりと眺めるばかりだったけれど、もしかしたらあの絵のタイトルや解説が書かれたものがどこかにあったのかもしれない。それも見たい、と思った。あるいは、たとえそれがなかったとしても、一馬ならなにか知っているだろうと思えた。  そう思ったら、いても立ってもいられなくなった。  玲は窓から離れると、枕元に置いていた携帯電話を手に取った。時刻は五時を回った頃である。太陽は昇り始めているとは言え、あまりにも早朝だ。けれど、玲に躊躇いはなかった。玲は一馬に電話をかけた。  ただ、そうは言ってもこんな早朝である。躊躇いは確かになかったけれど、寝ているであろう一馬が電話に出ることはあまり期待はしていなかった。出なければ、メッセージを送っておこうと思っていた。だから、そう待たずして一馬が電話を出たとき、玲は驚いてしまった。 「……玲?」  しかもその声は、寝起き特有の掠れた声ではあったものの、怒りだとか不機嫌さは感じない。むしろ、玲を心配するような色が滲んでいた。 「どうしたの。なにかあった?」  そして重ねるように、一馬はそう尋ねてくる。玲は電話をしたことをやっと後悔した。こんな早朝に電話をしたら一馬も心配するに決まっている。  でもそれと同時に、玲は胸がきゅうっと苦しくなるような、息が詰まるような感覚も覚えた。知れず、瞳に涙の膜が張る。腹の底が熱い。堪らない気持ちになる。 「玲? 大丈夫?」  言葉を発さない玲に、一馬の声が真剣味を帯びて低くなる。玲はやっと口を開いた。
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