六、『憧憬』

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「あ、あのね……」  息苦しさ故か、変な声が出た。か細く、震えていて、掠れてもいる。そんな玲の声を聞いて、一馬は飛び起きるように体を起こしたらしい、シーツの擦れる音がした。それから、ベッドから出て、洋服ダンスを開く音がする。 「あ、待って。違う。大丈夫だから」  一馬の今にも駆けつけそうな雰囲気に、玲は慌てて声を上げた。今度は、先ほどのような情けない声ではなくて、いつもの玲の声が出た。そんな玲に、一馬はまだ疑ってはいるようだったけれど、家を飛び出そうとする動きは止めてくれた。そして、玲の話を聞くために耳を澄ましているのがわかる。玲はまた、「あのね」と言った。 「あの絵を、もう一度見たくて」 「……は?」  玲の言葉に、一馬は少しの間を空けてから、そんな気の抜けた感嘆を返してきた。それはそうだ。そういう反応になるだろう。玲は吐き出したいため息をすんでで呑み込んだ。ため息をつきたいのは一馬のほうだろうから。  でも、電話をしてしまって、一馬も出てくれて、そしてその電話の要件を伝えてしまったのだから言葉を続けるしかない。玲はまた口を開いた。 「ほら。この前連れて行ってもらった画廊にあった絵だよ。壁に描いてあるやつ。あれがどうしてもまた見たくなって。だから、その……」  が、どうしても罪悪感は拭えなかった。玲の言葉尻は空気に溶けるように消えていく。訪れた沈黙の中、一馬がベッドに腰を下ろしたのだろう、スプリングが軋む音がした。 「ご、ごめん……」  玲は堪えきれなくなって、そう謝罪の言葉を口にした。そんな玲になにかを考えるように一馬は少しの間黙り込んだあと、静かに口を開く。 「……考えごとでもしてて、眠れなかったんだろ」  玲ははっとする。唇を小さく噛んでから、電話越しだから見えるはずもないのに、「うん」と頷いてそれに応えた。けれど一馬は、頷く玲が見えているかのようにくすりと笑う。 「いいよ。それで、電話をかけてくる相手が俺なら別にいい。他の誰かを頼るんじゃなくて、俺なら」  一馬はそう言ってから、自分の言葉に照れるように「んん」と喉を鳴らした。それから、「ごめん」と言う。 「たぶん、寝れなくなるほどの考えごとって、俺のことだよな。こういう言葉も、きっと、玲を悩ませる」 「ううん」  玲は、今度は首を横に振った。そうではない。確かに一馬のことが玲を悩ませはするけれど、それは決して嫌なことではないから。一馬の先ほどの言葉も、玲は、嬉しかったのだ。 「ううん。違う。大丈夫。そんなことない」  募るように一馬の言葉を否定すれば、一馬は小さく笑いを零す。 「そんなに力一杯否定されるのも、なんか複雑だな」 「え、あ、ごめん」 「はは。いや、いいよ」  それから、一馬はまた言葉を次ぐ。 「あの絵、玲も気に入ってくれたんだ」  それに玲は頷く。 「うん。なんか、頭から離れなくて」 「俺もあの絵がすごく好きで、だから、あの画廊に通ってる」 「無理やりにでも連れて行ってもらえてよかった」 「ふふ。無理やり連れて行った甲斐があった。ほらな。食わず嫌いはするもんじゃないだろ」 「時と場合によるけどね」 「素直に認めろ」  そして一馬は、「ちなみに」と続ける。 「今何時か知ってるか?」  玲は部屋の時計をちらりと見る。見ずとも、電話をかける前に時計は見ていたからだいたいの時間はわかっていたので、無駄な足掻きである。
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