六、『憧憬』

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「……五時」 「そ。朝の五時。こんな時間に、あの画廊は開いてると思う?」 「開いてない、です……」 「そう」  一馬は、くっくと喉を鳴らして笑った。 「あの絵を気に入ってくれたのは嬉しいけど、まだ見れる時間じゃない。あそこが開くのは十一時」 「十一時」 「そう。だから、一旦寝ろ。寝てないんだろ? 十時半くらいにこっちを出れば、開館と同時に入れるから。な?」  言葉とは裏腹な一馬の優しい声音に、玲は素直に「うん」と頷いた。そんな玲に、一馬はほっとしたように息をつく。 「十時半頃におまえん家に迎えに行く」  いつもだったら、おそらく拒否していたはずの言葉だ。互いの家で待ち合わせだなんて、もう随分としていない。ここ最近の常はあの十字路での待ち合わせだったから。  だけど、「わかった」と頷いてしまったのは、一馬の優しい声に背中を押されたからか、それとも、やっと訪れようとしている眠気のせいか。  そう。一馬と話をして安心したせいか、今まで忘れていたはずの眠気が急激に襲ってきたのである。先ほどまで冴えきっていたのが嘘のように、脳にぼやぼやと霞がかかり始めていた。 「……じゃあ、あとで」  なにより、一馬の低い声が耳に心地よい。 「うん」 「おやすみ、玲」 「うん。おやすみ、一馬」  その言葉を最後に、玲は静かに目を閉じた。  *  *  そこは夜だった。ぽっかりと浮かんだ、まあるい大きな月。そのまわりに、散らばった宝石のように輝く無数の星々。それらのおかげか、夜だというのに、ここは真っ暗闇ではなかった。  そんな中で、ただただ、立ち尽くしている。動けないのだ。ここから一歩も、動くことは叶わない。ただ、それは至極当然のことで、それに対して悲しいとも無慈悲だとも思わない。もうずっと、どれほどに前かもわからないほど昔から、当たり前のように、ここに立ち尽くしているのだから。  そして、そうやって立ち尽くし、待っている。  ――なにを?  訪れを、だ。大切なものの訪れを待っている。切望している。  そして今日も、それはやってくる。白んだ光を伴って、地の底から這い上がるように、それはやって来る。  待っている間も月や星々が輝いていたから寂しさは感じなかった。でもそれは、「あなたがいない寂しさ」とはまったく別物だ。  ああ、やっと会えた。喜びで胸が高鳴り、瞳は自然と潤む。会いたかった。とても、会いたかった。  やってきたそれを抱き留めたくて手を伸ばしたいのに、しかし、体は動かない。ああ、と思う。そうだった。それは至極当然のことだった。自分は動けないのだった、と。  このとき初めて、それを悲しいと、無慈悲だと思った。こんなにも訪れを待っていて、やってきたことがとても嬉しいのに、それを表現する術がないなんて。そして自分は、それの訪れを待つことしかできないなんて。自分から会いに行けないなんて。  だけど。  だけど、それでも、その悲しみは今感じている喜びを打ち消すほどのものではない。  嬉しい。会えて嬉しい。やっと会えた! このときをどれだけ待ち望んだことか。  やってくる光を全身に浴びながら、ただただ、喜びの涙を流すのだ。  それとともに、懐かしい香りが鼻を擽った気がした。  *  *
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