六、『憧憬』

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「……い、玲! 起きろってば!」  そんな声とともに体を揺すられる感覚で、玲ははっと目を覚ました。目の前には一馬の顔がある。一馬は心配そうに眉を寄せて、玲の顔を覗き込んできていた。  と、そんな一馬が、玲のほうへと手を伸ばしてくる。何事かと玲が身を竦ませれば、一馬はその手を玲の頬にそっと添えた。一馬の手は玲の手のひらよりもかさついていて、少し堅い。頬に手を添えたまま、その親指で一馬は玲の目の下をそっと撫でた。 「泣いてた」  そして、ぽつり、と言う。 「うなされてる感じはなかったけど、泣いてたから無理やり起こした」  一馬の指が涙を拭っているのだとやっと理解し、玲も、自分の頬に手をやる。確かにそこは濡れていて、玲は手の甲で荒く拭った。そんな玲に一馬は眉を顰めると、斜めにかけていたボディバッグからタオルハンカチを取り出した。それを玲の顔に押し当てる。玲はありがたくそれを受け取った。それとともに、一馬の手が頬から離れていく。 「変な夢でも見てた?」  一馬の問いに、玲は少し考えてから首を横に振った。 「たぶん違う。いい夢だったと思う。覚えてないんだけど。嫌な感じはしない」 「そうか」  玲の返事に一馬は安心したように頷き、それから、「ていうか」と器用に片眉を上げてみせる。そんな表情もできたのか、と思わずまじまじと一馬を見てしまった玲に、一馬は言葉を続けた。 「あんなに朝早くに電話してきて、こうやって迎えに来てみればまだ爆睡してたとか。あの電話で随分とすっきりしたわけだ」 「あ」  一馬の言葉でようやっと、玲は壁にかかった時計に目をやる。時刻は十時半を回っていて、画廊に行くために一馬が迎えに来たのだと理解した。 「ごめん。すごくよく寝た」  玲が慌ててベッドから飛び降りると、一馬は苦笑する。そして、玲と入れ違いにベッドに腰を下ろした。そこで玲の支度が済むのを待つつもりらしい。手持ち無沙汰に、その辺りに転がっていた漫画雑誌を拾い上げると、それを開いて目を落とし始める。  そんな一馬の様子を横目に、玲はクローゼットから適当な洋服を引っ張り出した。そしてそれに袖を通すために着ていた部屋着を脱ごうとして、はた、とする。横目で一馬を盗み見た。一馬は相変わらず膝に置いた漫画に目を落とし、それをパラパラと捲っている。  着替えるのに、こんなふうに一馬の存在を気にしたことなど、今までに一度もなかった。なのに、どうしてだろう。今は、一馬の存在が気になってしようがない。 (こいつは俺が好きなわけで) (その好きは、つまりは恋愛感情なわけで) (恋愛感情には、要は、キスやら、夜のあれそれやらも伴うわけで……)  そんなことをぐるぐると考えながら一馬を見つめていたら、一馬も、その視線に気がついたらしい。漫画から顔を上げると、Tシャツを脱ごうとしたまま固まって動かない玲を不思議そうな顔で見つめ返してきた。 「なに。どうしたの」  そして、そう尋ねてくる。  カッと顔に熱が昇ってくるのを感じた。なんてことを自分は考えているのだろう。確かに一馬は玲を好きだと言った。でも、玲がそれに返事をしていない以上、ふたりの関係はまだただの幼馴染みでしかない。それなのに、ひとりでぐるぐると先のことを考えてしまった。そのくせ告白してきた一馬のほうは、そんなことは一切考えていないような顔をする。 「……出てって」  玲は赤い顔を隠すように一馬から目を逸らし、俯いた。そして小さく言う。が、一馬には声は届かなかったらしい。 「え? なに?」  のんきに聞き返してきた一馬に、玲は唇を尖らせると、叫ぶように言った。 「出てってってば! リビングで待ってて! それ持って行っていいから!」 「ええ?」  一馬は戸惑ったように声を上げたが、玲の気迫に押されるように立ち上がる。そんな一馬の背をぐいぐいと押して、玲は部屋から一馬を追い出したのだった。
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