六、『憧憬』

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 そんなふうにして、玲は一馬とまたあのギャラリーに訪れ、そして、あの絵の前にふたりに並んで立っていた。あの日と同様、玲たち以外には人の姿はどこにもなくて、それを言えば、一馬は「みんな食わず嫌いなんだよ」と笑った。  改めて絵の付近を見渡すと、絵の手前に控えめな小さな看板が立っているのを見つけた。あの日は存在に気がつかなかったけれど、やっぱりあったのだ。玲はその看板の前へと移動すると、書いてある文字に目を落とす。そこには『憧憬』とだけ書かれていた。  と、玲の隣におもむろに一馬がやってくる。そして、言う。 「老いた木の憧れを描いた作品なんだって」  玲は静かに、一馬の言葉に耳を傾ける。 「もう何年も何年も、それこそ何百年とひとりで生きてきて、もうその人生に幕を閉じようとしている木」  そして、暗い夜を掻き消すように昇ってくる太陽。途端に、世界は命を吹き込まれたように明るさを取り戻す。活発になる。静かで寂しい夜を覆うようにやって来る太陽に、この木もまた、生かされてきた。命が尽きようとしているというのに、こうして太陽が昇れば、また残された命を燃やしたくなる。まだ、生きていたくなる。 「ほら、見て」  一馬はそう玲を促して、絵の一部を指で示した。 「あ」  玲は驚きの声を上げる。一馬が指で示した先、その枝の先に小さな白い花が咲いている。白んだ朝の色に溶け込んでしまいそうなほどの儚さで、でも確かに、小さな花が綻んでいた。 「ね?」  一馬は玲の顔を覗き込んで、無邪気に笑う。子どもっぽい、嬉しそうな色が浮かんでいる。 「本当だ。気がつかなかった」 「言われないと気がつかないかもね」  一馬はまた絵を見上げる。 「絵ってさ、面白いんだよ。そこにある現実を単純に切り取るだけじゃない。描く側が意味を持たせて、そっと、宝物を隠すことができる。それは描いた人間じゃないと理解できないものかもしれない。だけど、だからこそ、大きな意味がある。いつかそれを理解してくれる人が現れたとき、絵は宝の地図になるんだ。だから、面白い」  それから、一馬は玲を見てにいっと悪戯っぽく笑う。 「隠し方もいろいろだ。こうやって、ちゃんと見ればわかるように隠してるものもあるし、肉眼では見えないようなものもある。たとえば、モナ・リザなんかもそう」 「モナ・リザ?」  随分と有名な絵だ。歴史の授業でも出てきた気がする。けれど、一馬の言うような隠されたものというのは、授業では習わない。玲が思わず繰り返すと、一馬は「うん」と頷いた。一馬は、いつに増して生き生きとして見えた。 「そう。モナ・リザの目の奥にはね、文字が書かれてるんだ。黒目の中に、すごく小さく、それこそ肉眼では見えないくらいにね」 「なにが書かれてるの?」  なんだかどきどきしてしまう。そんな秘密が隠されていることを教えてくれれば、退屈な世界史の授業も何倍も面白く思えるのに。そんな玲の興奮を感じ取ったのだろう、一馬は目を細めて笑う。そして、答えをくれる。 「右目にはLV。作者、ダ・ヴィンチのイニシャルだ。左目の文字は劣化でちゃんとは読めないんだけど、右目が作者のイニシャルなら、左目はモデルのイニシャルだろうって言われてる。でもあの絵のモデルはまだわかってないからね。それが正解かはわからない。そもそもダ・ヴィンチは『瞳は魂への扉』って考えてたって言われてるから、そもそもイニシャルなんかじゃなくて、もっと別の意味が込められてるのかもしれない」 「へえ!」  思わず大きな声が出てしまった。玲ははっとして口に手を当てる。そんな玲を一馬は笑ってから、小さく首を傾げるようにして玲の顔を覗き込んできた。 「玲が興味を持ってくれて嬉しい」  そう言って笑う一馬を見ると、玲の胸はぎゅっと苦しくなる。思わず唇を一文字に結べば、一馬はおかしそうに喉を鳴らした。
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