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12 日常
それからの二人は、まるで夫婦かのように、穏やかに激しく、飽きることなく毎日を過ごしていた。神谷が仕事に出かけると、エルは神谷が帰ってくるまでマンションで一人過ごす。食材はネットで購入したものをコンシェルジュが運んでくれるので、外に出なくても問題もない。夜は神谷に付き合って限界まで体を酷使される。それはそれで適度な運動が家の中で済んでいた。
通いのハウスキーパーが週三回部屋に来て、何食分かの食事を作って冷蔵庫にしまうのと、掃除洗濯をして帰っていく。神谷の実家のお手伝いさんだということで、神谷が彼女を紹介した時、この人なら安心だとエルに言った。
平日の三日間はそうやって、孫がいる年配のベータ女性がエルの話し相手になり、掃除洗濯などの家事一般を教えてくれる。
ほかの二日は、だらだらと過ごして、リビングにある大画面のテレビで動画を見て、この世界の常識を色々と一人で取り入れているが、ほぼだらけているだけだった。そして土日は必ず神谷が家にいるので、二人で熱い週末を過ごす。たまに買い物や食事に行くという感じで、それなりのルーティンが出来上がっていた。
こうやって振り返ると、ただのぐうたら専業主婦のようだなとエルは思う。そして記憶がないことは大した問題ではないと思っているのか、それとも現状に満足しているのか、自ら記憶を取り戻そうと行動を起こすつもりがなかった。
神谷からもエルの素性は一向にわからないと言われていたが、それでも問題ないとのこと。今エルの戸籍を作るために奮闘していて、それが済めば入籍をして、神谷の嫁としての人生をスタートさせる手続きをしているとのことだった。神谷は、エルの過去はむしろいらないとさえ思っているようだと、エルは感じていた。それならそれで、今後は「神谷エル」として生きればいいのだろうと、エルは軽い気持ちで思っていた。
「なぁ、恭一」
「ん?」
「ちょっと、キスやめろ」
「やだ!」
日曜の昼間から、リビングでは大きなソファは椅子ではなくベッドとしての機能を果たしていた。遅めの朝食では、最近覚えたエルの手料理を食べられて大満足な神谷だった。食後のコーヒーは神谷が淹れるというので、エルはいつものようにソファでだらだらと待っていると、コーヒーを持った神谷がエルの隣に座る。そのままキスをしてきたので、エルも最近の条件反射で、キスをかえしていたら、服の下に手が入ってきて、そのままソファに押し倒されてキスが深くなっていった。
「ちょっ、コーヒー冷めるだろ」
「大丈夫、冷めたら淹れなおしてくるから」
「も! お前はさんざん朝から俺を抱いただろ。食後もまたやるのかよ!?」
「うん、やろう!」
からかったのだが、神谷は引き下がるどこか食いついてきた。エルは焦って、最近ドラマで見たセリフを言った。
「やらねぇよ!? 万年発情しっぱなしか? お前こそオメガだろう」
「……それは差別用語だよ、エル。オメガイコール万年発情期だなんて、よそで言ったらだめだ。そんな汚い言葉どこで覚えたの?」
神谷は服の下に入れてきた手をどけて、真面目な顔で向き合った。エッチへの流れは止められたが、怒られているようでなんだか不服なエルだった。
「動画でオメガモノのドラマを見た。それでオメガを罵る言葉としてでてきた」
「じゃあ、それはオメガという性別への性差別の言葉だよね。確かに僕はエルに万年盛っているけど、でも性差別の言葉はだめだよ。特にエルはオメガだ、オメガの気持ちはまだわからないにしても、僕が自分のオメガ……つまりエルが誰かにそう言われたら、僕はどんな権力を使ってでもそいつを刑務所にぶち込む。それほど性差別はしてはいけないこと。些細な言葉もエルには使ってほしくない」
「うん、ごめんなさい」
思いのほか、真剣に、まるで小さい子供に教えるかのように説明されて、エルは自分がいけない言葉を使ったのだと素直に認めた。
神谷はそんなエルを愛おしそうに見て、頭を撫でた。
「ごめんね。僕は性差別やオメガ犯罪についての講演会を沢山してきたから、そういうことを自分の番に言ってほしくないし、オメガが卑屈になるような言葉も使ってほしくないんだ」
「うん、わかった」
「でも、僕もごめん。エルを見ると常に欲情しちゃうのは本当。どうしても触りたくなるしキスしたくなる。ずっと抱いていたい」
しれっといやらしいことを言う神谷を見て、エルは照れた。抱かれるのはもちろん好きだし、キスも好き。だけどそればかりではなんだかイケナイ気がするエルだった。
きっと記憶を失う前のエルは、性に疎い生き方をしていたのだろう。だから日曜の朝からあんなに激しい行為をして、さらには食後にもまたスルなんて……そう思ってしまうエルだった。
「べ、別に触るのもキスもいいけどさ、ずっと抱かれたらそれは疲れるだろう。それになんだか健全じゃない。朝からする行為じゃないだろ?」
「エルのそのまっすぐな常識はどこからきているの? よっぽど天使のような生き方していたんだろうね。ああ、出会った瞬間の天使のエルにも会いたいけど、でも記憶戻して、誰かのところに行ったらと思うとそれも怖いから、やっぱり今のエルのままでいてほしいな」
エルは神谷の言葉にふと疑問を感じた。
「出会った瞬間?」
「うん、そこも覚えてない? 出会った時は自分のことを“僕”って言っていたし、キスも拒んで、とにかく頑ななのに、運命って言われたら赤い顔して喜んでいたんだよ? あの時のエルは多分まだ記憶があるエルだったのかな? なんだかウブ過ぎて可愛かった。だから押し倒しちゃったんだけどね!」
「だけどねって……」
エルとしての自我が目覚める前の自分……。そういえば、エルは神谷に抱かれた瞬間から、自分のことは“俺“だと思って頭の中で「俺」とずっと言っていた。疑問にも思わない一人称だったが、もともとは自分のことを神谷みたいに“僕“と言っていたのかとエルは不思議に思った。
そんな記憶に関わる話は今初めて聞いた。神谷は意図的に黙っていたのか、それとも急に思い出してそう言ったのかはエルにはわからなかった。
しかしそのことは二人にとって些細な問題らしく、神谷に触られることでエルは彼をほしくなってしまった。今度は互いに同意して二人の交わりは始まり、結局食後のコーヒーを飲めたのは一時間後だった。
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