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1 神谷の運命 ※
「う、運命だなんて言うのなら……」
神谷はすぐに自分の唇で、か細く吐く言葉ごと唇を塞いだので、その言葉の先を聞かなかった。後にそれを知らずに、後悔することになるのだが、その時は運命に欲情する可愛いオメガを前に、止まらなかった。
「ん、んん」
「やっと見つけた、僕の運命」
キスに慣れないのか、口を堅く閉ざす運命のオメガを見て、神谷はまた喜びに浸った。
――全くというほど慣れていない。キスも初めてなら、この先も僕が初めての、いや……最初で最後の男になる!
「口、開いて……」
「ん、んん!」
目を開けて涙を流し、顔を少し横に振る。
神谷が唇をがっつりとガードしている。顔を横に振ることも、ダメだと言う表現もできないその姿が、また庇護欲を増し、神谷は笑う。唇は頑なに開かない、それでもこの唇の柔らかさに、感じた事の無いほどの高揚感を得ていた。
***
さかのぼること数分前、いつものように講演会を終えると、オメガや女性たちが群がってきていた。
「今日はありがとう。僕はこれから警視庁に戻らなければいけないから、そこを通してくれないかな?」
アルファのフェロモンを使って、オメガやベータたちを誘導する。対応が悪いなどとマスコミに変なことを言われては困るので、神谷はフェロモンで離れてというような命令を出すと、自然に女性たちはその場を去っていく。
強すぎるアルファフェロモンは、時に武器にもなるが神谷は滅多に使わない。
たまに女性の対応が面倒な時だけ、効かす程度だった。警察という職業柄、フェロモンで人を支配したなどと言われては困るので、周りに不審に思われない程度の微量のフェロモンを出して女性の目を見る。すると、すんなりとその場を離れてくれる。
その時、ふととんでもなく魅力的な香りが鼻腔をくすぐる。
神谷は職業柄もあるが、特にオメガが多く来る講演会のある日は、強めのアルファ抑制剤を飲用している。たまに自分こそ番にと、オメガがヒートをわざと起こして近づくことがあるからだ。
普段からも間違いが絶対に起きないように薬は飲んでいるため、オメガの香りに欲情することは滅多になかった。もちろん体の付き合い時には欲情するが、それでもうなじを噛むリスクを避けるために、恋人と体を重ねる時でも、番になる約束をしない限りは、抑制剤を使用するか、オメガ側に首輪の着用を促していた。
人一倍、オメガのヒートには敏感になっていた神谷が、その時はその香りの方へと体が勝手に向かっていた。
――もしかして、この香りは、ついに探していた人に出会えるのかもしれない。
歓喜しながらも、確実に獲物をしとめる動物のような衝動で動いた。今まで何度もニアミスを繰り返すのに、いつもたどり着かない。今度こそ慎重に、そう思って足音をひそやかにして、香りのする方へと導かれた。
そこで、うずくまる一人の男を見た。
「はぁ、ぁ、はぁ」
「えっ?」
――男性オメガ?
神谷はどちらかというと男よりも女の方が好きだった。体の関係を持つのは女性の方が断然に経験が多い。フェロモンに左右されにくい体質だったからか、オメガというくくりよりも、女性が自分の性対象であると思っていた。しかし、今その場で苦しそうに胸を押さえている、顔も見えない男に、自分はあきらかに性的な目を向けていた。
――見つけた。
「君、大丈夫?」
「はっ、あっ、いや、こないで」
神谷を見た瞬間、その子は驚いた顔をした。
「ヒートだね? 抑制剤は?」
「やっ、だめ。お願い、僕から逃げて……」
「なんだって?」
近づこうとすると、その子は無い力を振り絞って必死に、その場から去ろうとする。
――逃がさない。
アルファの本能が、このオメガを逃がしてはいけないと言った。これは、これこそが運命だと、神谷は悟り歓喜した。
「君は、僕の運命だ。ここから逃がして、誰かの番になんてさせない」
「え!?」
改めてその子は神谷を見上げると、目が合った。神谷の顔を見て、驚いた表情をしたそのオメガを瞳が捉える。そして次の瞬間、電流が体を走ったような感覚に陥った神谷は、言葉よりも先に体が動いていた。
「あ、ああ!」
「もう、離さない」
逃がさないというくらいの力でその子の腕を取った。互いの腕に電流でも流れたかのような刺激。そして、そのオメガからは一層強く、神谷へとフェロモンが流れ出てきた。それはまるで、唯一の存在という奇跡を物語るかのように、神谷の心を、体を、すべてを突き動かした。
生まれて初めて知る感覚、自分の中の何かが一気に溢れ出す。喜び、悲しみ、憎しみすらも感じる。全ての感情は、このオメガのためだけに存在している。どうして彼がいない世界で、自分は生きてこられたのだろうとすら思う。まるでもう一つの魂かのような、初めから同じ魂が二つに離れてしまった、それが今融合した。不思議な感覚だった。
「この香り、僕のだ!」
「あっ、だめ、だめ、僕なんかじゃ、ダメ」
お互い運命に引き寄せられた、それなのに否定する男に神谷は強く言い放った。
「ダメじゃない。君が、君こそが僕の運命だよ」
「う、うんめい」
目を見つめてそう伝えると、オメガは涙を流した。真っ赤な顔で、でも恥ずかしそうに言った。そして冒頭の言葉に戻る。
「そう、運命だ」
「う、運命だなんて言うのなら……んん」
神谷は唇でその言葉を塞いだ。
その日、神谷は長いこと忘れていたアルファの本能を思い出した。そして邂逅が果たされた。
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