1319人が本棚に入れています
本棚に追加
2 エル
抱かれるという繰り返しを数日していた気がすると思った。というのも途中の記憶が曖昧過ぎて、本人さえもよくわかっていなかったのだ。
途中に無理やり食事をとらされたり、トイレに連れてかれたり、風呂も入れられた。男と会話をした時、少し頭が働いたのが嘘のように、全ての時間この男に支配され、全ての面倒を任せた。それほどまでに全くというほど判断能力も何もかもが機能していなかった。
思考は、ただこの男に抱かれることしか考えられなかった。
羞恥心など全てがなくなり、トイレの世話をされるがまま。相当強い麻薬を使われたのだろう……。このままセックスのとりこになって廃人になるのだろうかという感覚に陥った。
そしてある朝、すっきりとした思考が戻る。案の定、後ろにはあの男がいる。腹の前では逞しい男の腕が交差されて、肩には男の顔が乗っているようだった。寝息が聞こえてくるので、眠っているのだろう。そっと離れようとした時、体に違和感を覚えた。
――あっ、な、なんだよ、これっ。
男根が自分の尻の中に、ぴったりとはまったままであった。そんな状況で二人は寝ていたらしい。急いでそれを外そうと体を前に動かした瞬間、後ろの男の目が覚める。
「ん、起きた?」
「あっ、離せっ、ってかそれ、抜けっ!」
「ずっと挿れていてって、そう言ったのは君なのに」
「いいから! もう、あっ」
男が出ていく時も快感は続いていた。抜けきった後には、男の出した精液がたらっと、自分の後孔から出ていく気持ち悪さがあった。起きた瞬間から疲弊しきったが、もう以前のように曖昧な感じではなく、意識がしっかりと戻ったようだった。
「ふふ、もう口調しっかりしているね。運命とのヒートだから突発的だったのかな? 三日で終わったのか」
「……み、みっか?」
「うん。いつもはヒート何日あるの? 抑制剤だと、どれくらいで終わっていた?」
――さっきからヒートって、なんだよ? こいつはマジでやばい。
処女、ヒート、抑制剤……また不明な単語が増えた。三日も持続する麻薬を投与されていたのかもしれない。ここで急におびえたり、暴れたりしたら、そのまま殺される可能性がある。そう思い、様子を見ることにした。
「……ここは?」
「僕の家だよ。ねえ、愛しい人、名前を教えて?」
「な、まえ……」
そう言われて初めて、この男に犯されて危ない状況にあるということしかわからなかった。そう、名前がわからないし、自分のすべてがわからない。これは犯罪にあってあまりの恐怖にすべてを忘れてしまったという、アレか? そう瞬時に思ったが、それをこの男に知らせてやる必要はない。
とにかくここから逃げ出して警察に行こう。そうすれば自分の身元がわかるかもしれない。それまでこの男に話を合わせて抜け出す、そう心に決めた。そしてふと部屋の隅に某有名ブランドの紙袋を見つけた。あれは確か、エル……、メスだ。それを使わせてもらおう。
「……エル」
「エル? かわいいね。苗字は?」
「苗字は……メスダ」
「メスダ、エルね。それでいくつ? 学生さん? どこに住んでいるの?」
合間を開けずにずけずけと聞いてくる男に、エルと名乗った男は戸惑う。
「えっと……」
「ごめん、いろいろ聞きすぎちゃったね。ふふっ、本当に可愛いな。僕の名前は覚えてる?」
「……」
その男は微笑みながら、優しく言う。
「その顔だとヒート中のことも覚えてなさそうだね。僕は神谷恭一、君の運命の男だよ」
「……」
――やはり、ヤバイ奴だったぁ!
エルは聞かなかったことにした。
「俺、トイレいきたい……です」
「僕の出したモノでお腹タプタプみたいだしね。お風呂で出してあげるよ」
「うわっ!」
急にその男、神谷に抱き上げられた。
男一人の体を身軽に持ち上げるその腕力に驚いた。驚いているうちにバスルームに連れていかれ、もちろん二人とも裸のままなのでそのままシャワーを体にあてられた。当たり前のように神谷はエルの体を丁寧に洗い出している。戸惑う時間もないまま、二人の体は神谷によって清められたのだった。
「神谷さん、俺、ちょっとひとりで入りたい」
「恭一って呼んでくれないか?」
「恭一さん」
「キョウイチ、呼び捨てで呼んで。敬語もいらない」
とにかく一人にしてほしかったので、エルは神谷の言うように従った。
「わかった、恭一。ちょっと一人にしてくれない? 色々戸惑っているから。ダメかな?」
「ふふ、いいよ。じゃあ僕は先に出て何かごはん用意するね」
神谷は楽しそうにバスルームを出て行った。そこで一人になったエルは、そこにある大きな鏡に驚愕した。まず体があり得ないくらいあざだらけ、もといキスマークだらけで首周りには噛み後もいくつかある。胸はぼってりと腫れあがり、乳首周りが女の子のような膨らみを持っていた。最後に顔を恐る恐る見ると、やはり自分が誰なのかわからなかった。
鏡の前には、華奢で可憐な男の子が映っていた。
目がぱっちりとしていて、まっすぐな黒い髪が長めに顔を隠してやぼったく見えるが、髪をかき上げると相当可愛い。一般的な男というより細見で、柔らかい肌はまるで女の子だった。
キチンと男の象徴はあるが、たぶん小さいと思う。まるで女の子みたいな赤い唇、小さ目な口と鼻。シミ一つない白い肌。だからこそ余計に男がつけたであろう痕がひどく目立ち、卑猥な状態だった。
――これが、俺? ってか、俺は誰だ。
エルと偽名を名乗ったが、自分の全身を眺めるも全く何も思い出せないでいた。年も名前も。呆然としていたが、元来この体の持ち主は楽観主義者なのだろうか。全く焦ることもなく、ただこの場所から早く逃げ出しておかしな言葉ばかりを言うあの男――犯罪者から逃れ警察へ行かなければ。
そればかりが先にきた。
風呂からあがると、そこに用意してあった着替えに身を包んだ。それはまるでオーダーメイドかのように、なぜか体にぴったりとはまった。バスルームを出ると神谷が待機して、当たり前のように抱き上げられリビングへと連れていかれる。バスルームへ連れていかれた時の抵抗も全く意味をなさなかったのでそれは諦めて、落ちないようにしがみつくのが精一杯だった。
「エル、いい匂い。まだ少しフェロモンが出ているけど許容範囲かな」
「んっ、そこで、しゃべ、んな……」
「感じちゃった? エルはいやらしいな。そこも可愛いけどね」
神谷は首回りをくんくんと嗅ぎながら、ソファへと先程つけたばかりの名前を呼ばれた男――エルをそっとおろした。
「エル、順番がかなり変わっちゃったけど、結婚しよう。わかるよね? 僕たちは運命同士だから、エルのヒートで番になるのは当然だって。いきなり噛んで怒っている?」
「……」
結婚、運命、番、その単語にどう反応していいか困っていると、神谷はまだ続けた。
「ううん。もしエルが怒っていても、もう離さないよ。愛しているんだ、運命だもん。エルも僕を受け入れてくれているよね?」
「……」
「エル、なんか言ってよ」
「……」
――困った。非常に困った。
神谷は凶悪犯ではなく、どうしようもないストーカーなのかもしれない。知らない内にストーカーされていて、なにかショックなことがあり記憶を失った? 人間は防衛本能が働くことがある。エルの場合は、記憶を封じることだったのかもしれない。そういう結論に行きついた。
――こういうヤバイ人種の対処法は、とにかく怒らせないこと。
「俺……」
「うん」
「あの……」
「ゆっくりでいいよ」
ソファに男同士が真横に座ることに、そしてその距離感にエルは言葉をつなげずにいた。一言話すごとに、神谷は髪を撫で、頬を触るというアクションを起こしてくる。
また言葉が止まると、今度は自然に唇にキスを落とす。あまりに自然すぎて、そのまま受け止めるのはおかしいことではないとさえ、エルは妙に納得してしまうが、慌てて唇を外した。
「いや、もうそういうのやめろ。というか、ここってどの辺なの?」
「ここは、麻布だよ」
「……俺たち、どこで会ったっけ?」
地名は知っている。記憶がないなりに、エルの知る土地だとわかりホッとした。
「エルと出会ったのは渋谷。忘れちゃった? ちょうど僕は仕事で使っていたビルの裏口にエルがいたんだ」
「渋谷……」
エルはさりげなく神谷から状況を聞き出そうとしていた。その中で、地名などは頭の中にあることはわかった。それならば忘れているのは、自分自身のことだけなのだろうと察する。
「俺はビルの裏口で、あんたと出会った?」
「恭一、そう呼んでって言ったでしょ」
神谷はまたふいにキスをしてきた。
「んっ、んん。わかったから、それすぐにするのやめろ!」
「そうだね、エルが話すごとにキスしていたらいつまでたってもお互いの自己紹介もできないね。ははっ」
「……」
楽しそうに笑う神谷に、エルは苛立ちを覚える。
「怒らないで? エルはあの日、ヒートを起こしかけていた。僕は大勢の人と会う仕事をしていたから、アルファ用のかなり強めの抑制剤を飲んでいたんだ。でもエルの匂いは半端なかったよ。あの薬を飲んでいる時は、たとえオメガが発情していても反応する事なんてなかったし、僕の周りのアルファはエルにそこまでの反応を示してなかった。僕だけがエルの特別だった――エルが僕の運命だから」
「……」
――やばい。マジで言っていることが一つも理解できない。これは日本語なのか?
エルは神谷が淡々と話すことに恐怖を覚えた。
当たり前のように、エルと神谷が結ばれるのだという内容を話していることはなんとなくわかってしまった。だが、それだけだ。頭のおかしい犯罪者が、この現代で全く訳のわからない妄想の世界の話をしている。エルがそう認識するにはおかしくないくらいの材料がそろった。
アルファだとかオメガだとか、発情だとか。それはもうゲームかアニメの見過ぎなのではないだろうか。妄想の社会を現実としてみなしてしまった、精神病の一種なのだろう。
「エルもそうでしょ。僕と目が合った瞬間、凄いヒートに入って耐えきれず失神した。そんなところに僕の運命をほっておけないし、急いで連れて帰ったんだよ。一応、同意だよ?」
同意については、どの部分だ? 連れて帰ったところか、同衾したことか? エルは疑問しかなかった。
「あ、のさ。とりあえず何か食わない? 俺、腹減ったから……」
「ふふ、そうだね。ヒート中はまともなごはん食べる余裕なかったもんね。今用意してくるから少し待ってね」
神谷はそう言うと、エルの頭をポンっと撫でてからその場を去った。そのすきにエルはこっそりと玄関に向かって歩き、そっとカギを開けて外に出ることに成功した。エレベーターで階下まで押し、豪華なエントランスのマンションをそそくさと出て、急いで交番を探すことにした。
最初のコメントを投稿しよう!