3 脱走したそのさき

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3 脱走したそのさき

 外を歩いていると、何か違和感を覚えた。  今は昼時くらいなのだろう。スーツを着た人が多くいるが、商業施設があるのでデート中の学生や親子、いろんな人種が歩いている。ただそれだけのはずなのに、なのになぜ同性同士で手を繋いだりしている人が多いのだろうと首を傾げた。  エルが知らないだけで、この辺はそういう人たちが多くいる土地だったのだろうか。男同士もだか、女同士もいる。女性はもともと同性同士距離が近いので、不思議ではない。しかしエルが見ていた女性二人は、ベンチに座りキスを始めた。思わず顔を赤くして目を外したが、さらに外した先の視線には、男同士のカップルがベビーカーをひきながら手を繋いでいた。  ――ここはどうなっているんだ!?  世の中、こんなにマイノリティーがあふれる場所があっていいのか? もう今時では同性を好きになることをマイノリティーとは言わないが、それであっても大多数ではないから、そういう人は普通自分の性癖を隠したがるはず。そう思うエルだった。  神谷といい、この町のカップルたちといい、一体なにが起きているのか。とにかく人のことを考える余裕はない。今は自分の身元を確認するのが先決だと、がむしゃらに歩いた。ちょうど見えた大きめの警察署に駆け込み、エルは入り口付近にいる人に声をかけた。 「お巡りさんですか?」 「ん、どうした? 迷子って年でもないな」  スーツを着ていたが、なんとなくデカっぽいと思い話しかると、やはり警察官だった。 「いや、俺、今困っていて、本気なので真面目に聞いてもらえますか」 「おう、可愛い子の話は真面目に聞けって俺の上司からの言葉もあるからな、君はオメガだろう。安心しろ、俺は(つがい)持ちのアルファだから、ヒート開けのオメガの対応ができる」  ヒート開けのオメガ…‥神谷と同じようなセリフを聞き、エルは驚いた。 「えっ」 「だから、今ヒート開けだろう。(つがい)にでも虐待されたのか? そういう悩みなら専門機関を紹介できるから、とにかくこっちに入ってこい。遠慮するな」  ここでもあの神谷と同じような用語を使われたことに、エルは不信感よりも自分がなにか異質なのかもしれないという思いに馳せられた。 「お巡りさん。俺、実は記憶を失くしたみたいで。持ち物も何もなくてどうしていいかわからなくて、助けてください」 「なんだって!? その前に今までアルファと一緒にいたんじゃないのか? 君からはアルファの匂いがビンビン感じられる。そのアルファに殴られて記憶が飛んだのか?」  今度はアルファの匂いと言われる。  自分からは何か匂いが出ているらしいが、それもまた言葉の意味と匂いというのがわからず、ますますエルを悩ませた。 「だから、アルファって何ですか? 俺さっきまでヤバイホモに囲われて、無理矢理いろいろ、その……わかるだろ。色々されて、逃げてきたんだ」 「やばいホモって……。今時そんな差別用語使ったらだめだろう。今は昔と違って男同士のベータだって同性で夫夫(ふうふ)になれる時代だから。とにかく、君はレイプされたってことで合っている?」  ベータ、同性でフウフ。  時代はいつの間に同性婚が許されるようになったのだろう? エルが知らないだけで法改正が進んでいたのかもしれないと瞬時に思った。それにしてもベータという言葉も、エルの脳内には浮かばない新たな単語である。今はそんなことよりも、あの男から襲われたことに焦点を当てた方がいいとわかっているが、男が男に襲われたなどと戸惑ってしまった。 「レイプ……」 「違うのか?」  ぼそっと呟くエルに、警察官が聞く。 「俺、男だけど、レイプっていうの? もう忘れたいから何でもいいよ。それより、俺はどうやって自分の身元を知ったらいいのかな。本当に何も覚えてないんだ」  目の前の警察官は二十代くらいに、エルの目には映る。それにしてもあの神谷といい、この警察官といい、なぜこんなに顔がいい男がホイホイといるのだろうと不思議に思う。すがる思いで助けを求めたその人は警察官というだけあって逞しい体で、頼りがいのある爽やかなお兄さんという見た目だった。その警察官は困った顔で真剣にエルに聞いてきた。 「君の名前は? それも覚えてない?」 「うん。名前も年も、なんならさっき自分の顔を見たけどそれすらも覚えがない。でもここが麻布だっていうのは知っているし、日本の地名もわかる。だから俺自身のことを忘れているだけだと思う。気づいたら男の家に囲われて、たぶん薬を使われてずっとおかしな気分で。ひたすら……その、ケツに男のモノを突っ込まれていた……」  その警官は不審な顔をした。やっと仕事をする気になったらしいと思い、エルはホッとした。 「薬って、麻薬か何か?」 「そいつおかしなこと言って、子供はまだ早いからアフターピルを飲ませるとか。何度かその薬を飲まされた。男に妊娠がどうのとか、頭のおかしい相当な変態だったんだよ。多分あれ、媚薬じゃないかな……。おかしなくらいの快楽がずっと続いていたから」  あんな変態は早く検挙してもらいたいと思うエルだが、それよりもあの出来事を忘れたくて投げやりに話した。 「媚薬って……。アフターピルなら問題ないし、むしろよかったじゃないか。それに発情期だから快楽が続くのは当たり前だよ。そんなことで恥じらう必要はない。オメガにとって辛いとは思うがヒートは自然な現象だからな」 「お巡りさん、さっきから何言っているの? 俺、あいつに首噛まれて殺されそうにもなったんだ。ほら見てよ!」  そう言って、エルは自分のうなじをその警察官に見せた。  大分傷は治っているが、いまだに歯形がぴったりと残っている。それを見せれば暴力を振るわれた証拠になるだろうと、そう思っただけだった。だが警察官の反応はエルの予想と違い、顔を真っ赤にして慌てていた。 「こら! アルファ相手にうなじを見せるなんてはしたない真似はよしなさい」 「は、はしたない?」 「というか、ヒート中に噛まれたのか。じゃあ君が犯罪者というその男は、君の(つがい)ってことで合っている? 同意なく(つがい)にされたんだな。ピルを飲まされたのは不幸中の幸いだったが、辛かったな」 「は?」  警察官は慌てたりほっとしたりとせわしなかったが、エルはそれどころではない。ピルを飲まされてよかったなどと言うような発言に驚いた。 「ん? ああ、すまない。オメガにとっては妊娠以上に(つがい)はデリケートな問題だ。まだ子供なのに怖かっただろう。もう大丈夫だ。お兄さんが、君をオメガ保護施設で治療の手配も合わせて最後まで面倒見てやるから。それに記憶がないなら病院も連れていかないと」 「ねえ、お巡りさん。そのアルファとか(つがい)って何? あの変態も俺のわからない言葉をたくさん使っていたし。それに俺、男だよ。ケツにアレが入ってきたからって妊娠なんてするかよ! もうあの犯罪者のことはどうでもいいけど、俺の記憶喪失はどうしたらいいかな。病院っていっても俺、金も何も持ってないみたいだし」  先ほどから話が本当に進まないなと、エルは苛立ち始めた。 「……もしかして、君はバースに対する記憶も失くしているのか…そんな、まさかな」 「バース? また新しい言葉かよ。ってか、さっきからなんなの!」  エルは話が先に進まないどころか、わからないことが多くて困り果ててきた。 「そうか、そうなのか。アルファに囚われて(つがい)にされて、それでバース性そのものの記憶を封じ込めたのかもしれないな。もう俺の管轄では迂闊なことは言えない。とりあえず精神科に行って君にとって最善な治療をしよう」 「え……」  エルはこの警察官にとって精神異常者に見えるのだろうか。何を間違えた? 犯罪にあったと言っただけなのに。記憶を失くしたと言った、それがエルの精神異常で片付けられてしまうのだろうか。 「せ、精神科って何? 俺の頭がおかしいって言いたいの? 俺はただ変態に監禁されて、お巡りさんに助けてって言っただけなのに。ひどい……」 「いや、違う。君を精神異常者だと言っているんじゃなくてだね、なんて言っていいかな。当たり前の常識を忘れてしまった君に、この世界の常識を教えたら君はもっと錯乱するかもしれない。だから犯罪にあった子のケアは専門の人に任せた方がいいと判断したんだ」  当たり前の常識……やはりエルが知っている世の中ではないらしい。周りを見ていて自分だけが異質のような感覚があった。 「俺、別にあの変態のことはもうどうでもいいし。犬に噛まれただけだって思うよ。犯罪者だからって、もう関わらなければ関係ないし。精神科なんて……」 「うーん。じゃあ、俺からこの世界の常識を教えるね。受け入れられなかったり気持ち悪くなったりしたら、すぐにやめるからとりあえず聞くだけ聞いてみて」 「……うん」  人の出入りの多い場所で話す内容じゃないと判断した警察官が、奥の部屋へと案内すると小部屋へと通された。
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