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今日もまた仕事に追われた。
程よい疲れと満足感を得ながら、私は会社を後にした。
時刻は20時を回っていて、まぁ、丁度良い時間だった。
通勤に使っている駅前の牛丼屋で安くて旨い夕食を食べ終えると、私は雑居ビルの薄暗い階段を一歩一歩と降りていく。
BAR こころ
薄暗い階段の先に小さなランプで照らされた真鍮製の看板の下に、小さな生け花がさり気なく添えられている。重厚で年季の入ったドアを開けると、程よい音量のジャズが流れていてカウンターに数席と4人席が4つの小さな店内が目に入った。
「いらっしゃいませ」
バーテンダーの装いがピタリと合うショートヘアの素敵な女性がこちらへと向いた。
手に持っていたグラスを医師の白衣のような純白の布で磨きながら、私へとそのグラスを見せるように少し上に掲げる。
「うん」
そう言って頷いた私はそのまま彼女の目の前にあるカウンター席に腰を下ろした。
彼女の後ろには数多くの酒瓶が色とりどりの薬のように並んでいる。
もちろん、その効き目は十分だ。数多くの一種の病を治療してきたのだから。
「何になさいますか?」
敢えて聞いてくれるのが嬉しい、もちろん、いつも通りのそれが出てきたとしても、私は構わないけれど。
「ハーフ・ロックをお願いします」
「畏まりました」
素敵な笑みを浮かべて彼女が微笑んだ。
棚から私の好きな銘柄を取り出してから、彼女は透明で少し角のある純氷を、手元下に置かれている小さな冷凍庫から取り出して透明なグラスへと移した。素敵な電球色の明かりが氷とグラスの狭間から光を反射して煌めく。
喉がざわつくがしばらくの我慢だ。
琥珀色のウイスキーが注がれてゆくとグラスがその色に染まっていく。やがて銀でできた小さなマドラーがぐるりぐるりとグラスを何周か回り、程よい混ざりを得たそこに、天然水の瓶から同量の水が注がれる。琥珀色が薄く染まってゆくのを眺めながら最後にマドラーが液を撫でるようにくるりと回転して踊ってり終えると、グラスを後にして主役にその座を譲った。
「お待たせしました」
珪藻土で作られた純白のコースターの上に載せられ、目の前に差し出されたグラスを一瞥してから、手に取ると目の近くまで持ってゆく、透明な氷の先に幻想の門のような輝きが見えた。
「いただきます」
両手を合わせるかのように言いながら、グラスを口へとつけてゆっくりと注ぐ。
ストレートの濃さではない、柔らかな香りと味が広がってゆき、そのまま喉へと流れ落ちてゆく。
「ふぅ」
グラスを離してから一息つく、ホッとした私の顔を見て彼女のがくすりと笑みを溢した。
「お疲れかな?」
「ほどよい、くらいだけどね」
気の置けない仲だからこそ、その言葉だけで通じるものもある。
彼女とは結婚を控えた間柄だ。会社の先輩だった彼女と知り合い、そして付き合ってゆく中で夢を知り全力で応援した。
今はその夢を叶えて素敵なこの店を構えている。
ただ、それだけのことだけれど。
離れたカウンターに中年のお客さんが彼女に手を向けている。追加でも頼むのだろう。
「じゃぁ、ごゆっくり、いつも通りに帰るから、先に寝ててね」
「ありがとう」
視線だけで恋人同士の愛を交わして、私は視線を落として琥珀色のグラスを眺めた。
全力で応援して叶えた夢は今では二人の大切な場所になって、私は日々の疲れを時より癒す。
酒は百薬の長ともいう。
薬には適量があって、飲みすぎてしまえば、数多くの醜態と二日酔いという副作用をも思い知った。
今では適量を知っている、そしてそこに私を満たしてくれる彼女が入れてくれたグラスの一杯。
世界で一番疲れに効く、最高のおくすりとなっている。
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