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 道に落ちているガラス片が、月の光に照らされて螺鈿の輝きを放っていた。排煙にまみれたこの町も、今夜は珍しく晴れている。  飲み屋街には似たような建物が続いている。来るのは初めてではないが、何度訪れてもそれぞれの店名さえ覚えられなかった。事前に教えられた通りに、端から四番目のドアを開けた。  レモン色の柔らかい光が店内を照らしている。よくは見えないが、客はあまり多くないようだ。カウンター席にはまばらな空きがある。奥にはドアがいくつか見えるが、個室もあるのだろうか。  突っ立っているのが不審に見えたのか、有翼種の店員から「恐れ入りますが」と声をかけられた。用件を告げると、彼女は小走りに店の奥へ向かった。  別の店員からカウンターに促される。作り物ではない三角の耳と尻尾が立っている―獣脚種特有のものだが、警戒させてしまい申し訳なく思う。  しばらくぼうっとしていると、先刻の店員が戻ってきた。眉は下がり、見事な縞模様の翼も力なく垂れている。 「申し訳ありません、お客様。お連れ様ですが……」 「まだ帰る気がないんだろう。迷惑でなければ待たせてもらえるか」  迎えに来ただけだというのに、カウンターに立った一本角を持つ幻想種の店員はコーヒーと菓子を提供してくれた。丁重に礼を言う。  睡魔を感じ始めていた身体にカフェインが沁みる。チョコレートを齧りながら店内を見渡した。会員制と聞いていたが、なるほど高級感がある。目が暗がりに慣れてくると、使用されている家具やカウンター奥に見える食器類は、どれも丁寧に手入れされたものだと気付く。 「お兄さん、誰も付いてないの?」  不意に掛けられた中性的な声に振り向く。  長い黒髪を惜しげもなく垂らし、淡い色の薄布を幾重にも重ねたような衣服を身に付けた店員が、いつの間にか隣の席に座っていた。頭の位置が俺の肩と同じだ。俺も上背がある方ではないが。華奢さも相まって、少年と青年の中間の年齢に見える。  誰も、とは。疑問を返すより早く、黒髪はこちらの手を取り椅子を下りるよう促してくる。かすかに薄荷の香りが漂った。  「私、暇になっちゃったからさ。良いよね?」 「は?」 「一緒に来てよ。せっかくだから」 「あ、その方はお客さんじゃ―おおい、シラー!」  黒髪―シラーは他の店員の静止も聞かず、ぐいぐいと個室へ向かっていく。俺を部屋の中央へあるソファへ投げ込み、後ろ手に鍵をかけた。 「……コーヒーが飲みかけだったんだが」 「ご心配なく。お持ちしました」  シラーの手にはカップが乗っている。いつの間にと目を見張ったが、感心している場合ではなかった。 「生憎、俺は遊びに来たんじゃないんだ。知人から迎えを頼まれただけで」 「え? お客さんじゃないの?」 「さっき別の店員も言っていただろ」 「あちゃー……私の早合点か。まぁいいでしょ! 迎えを頼んだ人にツケて飲んじゃおうよ!」 「だから、クルマなんだよ。そもそも飲めない体質だしな」 「じゃあ私だけ飲んでもいい?」 「勝手にしてくれ」  何なんだこいつは。  胡乱な目を向けるも、シラーは意に介さず踊るような足取りで部屋の隅へ向かう。冷蔵設備が整っているらしく、こちらに向き直ったその手には冷えたグラスとボトルがあった。  テーブルを挟んだ向かいの椅子に座り、シラーは鼻歌を歌いながら準備を進めていく。 「迎え……ってことはジャスパーさんか。今日も閉店までいるだろうね」 「そうならないよう迎えに来い、と言ったのはあいつなのに……」 「酒が入ったら忘れちゃうよ!」  からからと笑いながら、用意した瓶やアイスペールを手際よく操っていく。たくし上げられた袖の下、指や腕にはいくつもの飾りが見えた。派手ではないが、鉱物のカッティングや留め具の処理が丁寧な上等品だ。 「……良いアクセサリーだ」 「これ? ありがと。でも、まずはひとのほうを褒めるもんだよ?」 「……」 「なんてね。お兄さんのピンも素敵だ」  タイピンを指さして微笑まれる。植物の蔓が絡まり合い、端に二輪の小花が咲いている意匠だ。 「どこで買ったの?」 「売っていない。自分で作った。……趣味で」 「すご! ってことは一点ものかぁ」 「……まぁ、そうなるな」  少し冷めたコーヒーを啜る。「サービス」と、シラーは未開封のビスケットを分けて寄越した。 「ありがとう。……時間があるなら、一つ聞いても良いか」  なんでもどうぞ、と、シラーは水色のカクテルが入ったグラスを傾ける。 「このお店のこと? 会員制だけどアヤしい感じでも、偉いひとが悪巧みをしそうな感じでもないな、って思った?」 「……店員はヒトだけじゃないんだな。この町じゃあまりない」  額に角を持つモノ、けものの耳や尻尾を持つモノ。  地方ならいざ知らず、ここのような都市では、ヒトではない種族の身体的特徴は隠すことが推奨されている。  肉体的にも、精神的にも。不要な害を被ることを防ぐために、それが最善策だと見做されている。見做されているだけだ―実際、最善などではないことに誰もが目を瞑っている。 「そ。オーナーがヒトじゃなくって、自分と同じ境遇の子が働ける場所を作りたいって、碌な生活を送ってなかった私たちを雇ってくれたんだ。……お兄さん、驚いちゃった? 嫌な気持ちになったり」 「いいや。俺は北の町の生まれなんだ。向こうではどんな種族も同じように働いたり、過ごしていたから。懐かしい」 「……そっか。じゃあ―お兄さんはウロコの言い伝えってのも、信じてたりする?」  シラーは、つまんだビスケットを団扇のように動かした。 「信じては……いない、かな。聞いたことは、あるにはあるが。御伽噺の一つだ」  むかしむかし、で始まるそれは御伽噺でありながらしかし、歴史を伝承する物語だ。  かつて、リンの民と呼ばれる身体にうろこを持った人々が、この地の山間部を中心に暮らしていたという。うろこは宝石のような強さと美しさを持っていた。リンの民の暮らしはヒトのものと変わらぬものの、彼らはうろこを貨幣のように、他の品々との交換に用いることもあった。周期的に生え変わるそれは彼らにとって、髪や爪のようなものだった。  だが、その美しさに魅せられた人々がこぞってうろこを求め始めたのだ。  うろこを目的とした誘拐事件や殺傷事件が日常となる頃には、彼らは姿を消していた。  遠い土地へ移り住んだとか、生き残りはいないだとか。憶測が飛び交う中でうろこの価値は吊り上がっていった。うろこを加工した装飾品は富と権力の象徴となり、いつしか「持つものに幸福を呼ぶ」などという言説も現れ始め―今や、見ることはできないと言っても過言ではない。博物館の展示さえも限られている状態だ。 「すごいね、お兄さん。ちゃんと知ってるヒトは初めてかも」 「それがどうした…………まさか」 「ん?」 「…………生き残りなのか?」  シラーはこちらの言葉を聞き、にこにことしている。 「種族が異なるというかもはやそれは伝説級の何かだろ、俺の認識が古いのか? もう、リンの民は―」 「だけど私はここにいるよ」  天気の話題を口にするような気安さで。シラーは頷き、ビスケットを満足げに頬張った。 「リンの民は滅びてない。私はうろこと一緒に、ここにいるよ」
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