第1話・冴島文幸の場合

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第1話・冴島文幸の場合

「離婚してください」  文幸が妻からそのように切り出されたのは、いまから三年前のことだった。平日の夜十時過ぎ。残業を終えて帰宅した妻は、風呂から上がってくるなり「ふみくん、話したいことがある」と言って文幸を呼んだ。ひとり息子の航太はリビング奥の和室で眠っている。いつものように文幸が寝かしつけた。 「仕事で大きなチャンスが巡ってきたの。身軽になりたいから、離婚してほしい」  小さなダイニングテーブルで文幸と向かい合った妻は、簡潔にそう言い放った。話し合いどころか相談という雰囲気すらない。しかし文幸は、自分でも驚くほど落ち着いていた。「あ、これで楽になる」とさえ思ったほとだ。  五歳年上で有能で、何事にもビジネスライクな妻は、立てた板に水を流すようにスラスラと話した。離婚したいと思った理由につづいて、今後の生活費や養育費については何も心配いらないこと、離婚手続きのこと、息子の親権は文幸にもってほしいこと。文幸が口をはさむ余地はなかった。そして異論もなかった。話し終えてスッキリした様子の彼女をみて、「いつも会社でこんな立派なプレゼンをしているんだろう」などと思う。ぼんやりしていたら、あきれたように笑われた。 「ふみくん、私が一方的に離婚したいって言っても怒らないんだね。何か言いたいことはないの?」 「あっ、ごめん。わかりやすい話だったから特に疑問はないし、……言いたいことも、特にないよ」  慌てて言いつくろったが、すぐに後悔した。これまでもしょっちゅう「ふみくんはおとなしすぎる」「自分の意見はないの? ちゃんと自己主張しないと、航太に示しがつかないよ」などと言われていたから、また叱られると思ったのだ。しかし今夜の妻は、寂しそうな笑みを浮かべただけだった。 「そういう優しいところが好きだったんだけど。ふみくんといると、私の自己肯定感がどんどん下がっちゃう。やっぱり私には良妻賢母は無理だった。航太も……家にいないママより、いつもお世話してくれるパパのほうが好きみたいだし」 「えっ、もう航太に何か話したの? 俺に何の相談もなく?」  文幸は驚いて、初めて妻に抗議した。航太はどう思っただろう。いきなり「ママは離婚して家を出ていく」などと言われてショックを受けなかっただろうか。頭のなかで素早く、ここ数日の航太の様子を思い返してみる。特に変わった様子はなかったと思うが――。険しい顔をした文幸を見て、妻は笑って首を横に振った。 「ううん、まだ何も言ってないよ。でも航太は明らかに私よりふみくんになついてるから、そう思っただけ」  そりゃそうだろうな、と言いかけて文幸は言葉を飲みこんだ。会社勤めで忙しい妻の代わりに、文幸が航太の世話を一手に引き受けるようになったのはいつごろからだっただろう。  妻は休みの日も仕事のことで頭がいっぱいのようだった。いつだったか、まだよちよち歩きだった航太が「ママぁ」と足元にまつわりついたのを迷惑そうに振り払っているのを目にしたことがある。そのとき初めて妻に対して「許せない」と思った。そんなことを思い出して、ようやく怒りがわいてくる。文幸は気持ちを落ち着けるために大きく息をついた。そして今、妻に伝えるべき言葉を探した。
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