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「航太には俺から話をしておくよ。でも離婚なんて言ってもまだわからないだろうな。ママは仕事で遠くに行くから、一緒には暮らせなくなったって伝えるよ」
「うん。ふみくんに任せる」
「海外出張のときみたいに、航太とはときどきビデオ通話したらいいよ」
「そうだね。ちょうど本社に出向できるチャンスなんだ。来月から本国に行くから、ビデオで定期的に航太に会えたらうれしい」
そうして妻は晴れ晴れとした顔で家を出ていき、文幸はあっけなくシングルファーザーになった。
航太には妻との約束どおりの言葉を伝えた。
「航太、ママは仕事でスイスに行ったから、もううちには帰ってこないんだ。でも航太にはビデオで会いたいんだって」
「そうなの? わかった。ぼくもママとビデオでお話ししたい!」
当時まだ三歳だった航太はそう言って無邪気に笑った。妻は海外出張も多かったから、今回もそれと同じだと思っているのだろう。そのあどけない顔を見て、ふと、自分たち夫婦は取り返しのつかない選択してしまったのではないかと思う。家庭より仕事を優先した妻に今さらのように腹が立ったし、彼女と争いもせず、彼女の言うがまま離婚を受け入れた自分も情けなかった。そして何より、航太に申し訳なくて、ひとりで航太をりっぱに育てていけるか不安で、鼻の奥がツンと痛くなる。
しかし泣いているひまはない。これからは父ひとり子ひとりで生きていくのだ。航太を守るのは自分しかいない。文幸はぐっと目に力を入れて、いろいろな自分の気持ちをこらえた。
◆
文幸は妻のことが嫌いではなかった。
でも、彼女のことが怖かった。
出会いは、文幸がグラフィックデザインの専門学校に通っていたころ。妻が勤務する企業の主催イベントに、文幸たち専門学校生たちがポスターや展示物のデザインを提供したのがきっかけだった。妻は文幸が描いたイラストを手放しで褒めてくれた。
「冴島君の作品、素敵ですね。すごく好きです」
そこから妻のアプローチを受けて交際が始まった。専門学校を卒業すると同時にプロポーズされた。
「ふみくんは絵の勉強をしたらいいよ。好きなことをして。稼ぐのは私にまかせて」
ここまで言われて断る理由はない。とんとんと話が進んで結婚したはずなのに、どうして離婚してしまったんだろう――。
思えば文幸にも反省すべき点はあったと思う。
「好きなことをして」という妻の言葉を、言葉どおりに受け取っていた。いや、言葉どおりにしか受け取っていなかった。結婚してしばらくは気楽なアルバイトをしながらデザインや美術のコンテストに応募していたが、アーティストとしてやっていくには才能もガッツも足りないと思ってすぐにやめてしまった。
結婚後まもなく航太が生まれたら、いよいよ絵の勉強どころではなくなってしまった。妻が産後すぐに仕事に復帰してしまったので、航太の世話は文幸がするしかなかったのだ。
妻からあきれたように「ふみくんは、デザインで身を立てていくのはもうあきらめちゃったの?」と言われたことがある。子育てを引き受けながら、ウェブサイトのデザインなどの仕事はほそぼそと請け負っている。しかし家計は妻の収入に頼りっぱなしだった。「夫として頼りない」。彼女の顔にそう書いてあるような気がした。
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