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そこで文幸はふと理不尽に思う。
いやいや、子育ては想像以上に大変だった。
小さな赤ちゃんがひとり増えただけなのに、暮らしは一変した。航太の世話に追われて何もできない。掃除? 洗濯? 炊事? 無理だった。航太の着るもの食べるものを整えるだけで精一杯で、ほかのことに手が回らない。保育園からはしょっちゅう感染症をもらってくる。父子で熱を出して寝込んだこともあった。そんなときは妻も心配そうな顔をしてくれたが、それだけだった。「いま、私は重要なプロジェクトを任されてるの。私にうつさないでね」と言われたときのやるせない気持ちを、文幸は忘れることができない。
妻の関心はいつも、家事や育児より仕事に向いていた。しかし家のなかが汚れ、荒れていくのは許せなかったようだ。彼女の提案でハウスキーパーを雇ってみたこともあったが、妻のこだわりが強すぎて、どんなキーパーも音をあげてしまう。たまの休日に、彼女が不機嫌な顔で大きなため息をつきながら家事をこなす姿を見るうちに、文幸はいつしか妻の顔色をうかがってビクビクするようになってしまった。妻が帰宅する時間が近づくと憂鬱になる。妻が長い海外出張に出るとホッとする自分がいた。
航太はかわいくて仕方ないのに、妻が怖かった。だけど航太の前では笑顔でいるように、自分なりにがんばったのだ。
そのがんばりを恥じてはいけない。
妻が出ていったあと、文幸はギュッと唇を噛んだ。そうして必死に自分で自分を励ました。
◆
子育てと仕事の日々は矢のような速さで過ぎて、文幸がシングルファーザーになって三年が過ぎた。航太も小学一年生になった。
入学式を終えて一週間ほどたったころ、いつものように放課後学童クラブまで航太を迎えにいった文幸は、手をつないで帰る道すがらに唐突に質問を受ける。
「ねえ、とうちゃんとママはりこんしたの?」
「……えっと」
少しの間、文幸は言葉に詰まったが、これまでずっと脳内でシミュレーションしてきた言葉を航太に伝えた。
「そうだね。とうちゃんとママは離婚したんだよ。ふたりで話し合って決めたんだ。でも航太も知ってると思うけど、ママは今でも航太のことが大好きだよ」
「うん、知ってる」
「またママからビデオ通話したいって言われてるんだけど」
「またぁ? げつようびに話したばっかりじゃん。仕事、忙しくないのかな?」
「ママはいつでも航太の顔が見たいんだよ」
「ふーん。べつにいいけど」
「ふふっ、ありがとうな」
文幸は歩きながら航太の表情を観察する。小さな体に大きなランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった航太は、いつもどおり明るく見えた。そっと息子に尋ねてみる。
「でも航太、どうして『離婚』なんて言葉を知ってるの?」
「だって一組にもいるもん、親がりこんした子が」
「へぇ、そっか」
「はぐろゆう君のうちも、りこんして、ママがいないんだって」
「そうなんだ」
文幸はふと興味をひかれた。ひとり親家庭は珍しくもないと思っていたが、航太と同じ一年一組に、うちと同じ父子家庭の子どもがいるのか。
「とうちゃん、今日のご飯、なあに?」
航太のいつもの質問で、文幸は考えるのをやめて笑顔になった。
「えっとね、今夜はなんと、国産牛肉の牛丼です」
「やった! おれ、とうちゃんの牛丼、大好き!」
「引き受けた仕事のギャラがよかったから、いい肉を奮発しました」
「とうちゃんもがんばってるんだね、えらいえらい。おつかれさまです」
「とうちゃんががんばれるのは、航太がいるからだよ」
「うん、知ってる!」
航太にねぎらわれて、ほろっとした。ほんとうにいい子に育ってくれていると、心から愛おしく思う。
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