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最終話の前に:もうひとつの親子の会話
十一月の平日の夜。
午後七時をまわったころ、スーツ姿の周がひとりで「スナック・マリ」に現れた。カウンターのなかで洗い物をしていたマリばあは、仕事帰りの足で立ち寄った息子を迎え入れる。「スナック・マリ」は宵の口には看板をしまう昼スナックだ。長居しようとする常連客をいつものように追い立てて帰したところだった。
「おかえり」
「……ただいま」
「悠ちゃんは、うちの人が学童まで迎えに行ってくれたかしら」
「うん。父ちゃんからメールが来たから大丈夫。ごはんも食べたって」
「あんたは? 何か食べる?」
「ううん、いらねえ」
「ビールでいい?」
「……いや、オン・ザ・ロックちょうだい。響の」
「高いわよ?」
「いいって」
周はカウンターの席に腰をおろして「はぁっ」とため息をつき、ぐいぐいっとネクタイを緩める。それから熱いおしぼりで気持ちよさそうに顔を拭った。いつのまにか、人並みにくたびれたサラリーマンになっちゃったのねえ。マリばあは思わず「おっさんくさいわねえ」と笑い声をあげて、周に軽く睨まれた。
周の前にロックグラスを置くと、ぶっきらぼうに「母ちゃんも一杯飲んだら」と言う。あら、どんな風の吹き回しかしら。マリばあは心の中で驚く。しかし顔には出さない。「いいの? じゃあ遠慮なく」と澄ました顔でもうひとつオン・ザ・ロックをつくった。親子で「乾杯」とグラスを掲げあう。
「周が『父ちゃん母ちゃん』なんて呼んでくれるの、久しぶりじゃない」
「そうだっけ」
「いつも『あのさー』とか『ねえ』とかなんだもの」
「……ごめん」
周はそう言ってちょっとすねたような顔をした。マリばあは懐かしく思い出す。叱られたときや図星をさされてきまりが悪いとき、子どものころの周はよくこんな顔をしたものだ。かわいかったなあ、と、すっかり大人の顔になった息子を眺めた。
「仕事帰りにひとりで寄るから店を開けとけ、なんて電話をよこすからびっくりしたわよ」
「……うん」
「何か困りごと?」
「……」
周は何か迷っているようだった。マリばあも急かさずに、グラスに口をつけながら周が話し出すのを待つ。息子の用事は何だろう。周から電話をもらったあとで想像をめぐらせた。借金? 異性問題? 仕事のもめごと? どれもピンとこなかった。
(つづく)
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