最終話の前に:もうひとつの親子の会話

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「よかったわねえ。いい人じゃない。それを聞いて私も安心した」 「彼と出会わなかったら、この先ずっと自分をごまかし続けてたと思う。自分のこんな面も……誰にも言えなかったけど、彼になら言える。それが嬉しくて」 「素敵ね。周は文幸さんのどこが好き?」 「……それは無理。教えない」 「いいじゃない、冥途のみやげに教えなさいよ」 「……」  周はむくれた顔で黙ったが、やがて思い直したようにぼそぼそとつぶやくように教えてくれた。 「最初は、顔がいいと思った」 「たしかに彼、かっこいいわね」 「うん。でも……いいなと思ったのは、航太くんがうちでうっかりクルミを食べて、アレルギーが出たことがあっただろ。あのときかな」 「私も、冷静でしっかりしたお父さんだなって思ったわ」 「いつもおとなしくて自信がなさそうだったのにさ。あのとき、悠のこともフォローしてくれたの、覚えてる? あれで俺、……ああ、若いのにしっかりしてるな、強い人だなって思った」 「そうね、うん。私もそう思う」  そこで会話が途切れた。ふたりのロックグラスはいつの間にか氷だけになっている。マリばあは細いタンブラーに冷たいミネラルウォーターを注いで出してやった。  そのついでのふりをして、息子の手に触れてみた。軽く握って、それから、励ますようにギュッギュッと何度か握りしめた。  こうして周の手に触れるのは何十年ぶりだろう。それはもう幼い子の小さな手ではない。自分の手よりずっと大きな、ごつごつと節だった男の手。それでもかわいい息子の手だ。 「幸せに、なんなさいよ」 「……うん」  周はうつむいて、小さな声でうなずいた。  黙っていると思ったら、ぐいっと目もとを拭う。  マリばあは気づかないふりをして周の前を離れた。流し台に残していた洗い物の続きを片づける。  また昔のことを思い出した。  そうだった。周は小さいころから泣き虫だった。  ちょっとしたことで感情をたかぶらせては、ぽろぽろと涙をこぼしてたっけ。今も変わらないのね。  しばらくして気持ちが落ち着いたらしい周が、大きく息を吐いた。「じゃ、帰るわ」とカウンタースツールから立ち上がる。その顔はさっぱりとあかるかった。 「おやすみ、周」 「うん、おやすみ。……あのさ」  周はドアの前でもういちど振り返る。 「こんなふうに受け入れてもらえるなら、もっと早くカミングアウトすればよかった」 「今だから、よかったのかもよ」 「……そっか。そうだね」  静かにカウベルが鳴って扉が閉まった。  マリばあはそれを笑顔で見送る。そのあとでなぜか鼻の奥がツンと痛くなった。それを振り払うように、もう一度ぎゅっと口角を上げて笑顔をつくる。  食器用スポンジに盛大に泡をたててグラスを洗った。いつの間にか機嫌のいい鼻歌が出てくる。フンフンと歌いながら泡を洗い流し、ゆっくりと時間をかけてきれいに片付けた。 最終章「誓う:音楽会」につづく
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