緋色の大樹 ――平安今物語③――

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 私は此処よ――彼女は夢のなかだけでなく白昼の現にも呼びかけるようになり,今ではすっかり僕の脳内を占拠しているのです。  妻子を愛する気持ちは消えていませんが,彼女を求める思いを押しとどめることなどできません。運命の相手に出逢ってしまったのです。僕たちは結ばれる宿世にあったのです――  正気づいた重色(えしき)は一頻り同じ話を繰り返したのち,決まって何ものかに憑かれたみたいに暴れだし,結局は鎮静剤をうたれて幾日も眠りこむのだ。  しかしその日は重色の扱いに慣れた担当医の祖父が不在だった。  重色は大勢の医師や看護師,事務員や守衛を振りきって病棟を逃亡し,裏山の樹海に身を隠した。そうなると如何せん誰も手を出せない。何故ってそこは地元の人間でさえ足を踏みいれない自然の迷宮なのだ。一応警察にも届けでたが,曖昧な対応が為されるだけで,捜索という言葉さえ話題にのぼらなかった。  俺は柱時計の午前2時を刻んだ拍子にベッドを抜けだし,窓から戸外へと飛びおりた。  特異なにおいが裏山へと繫がっている。それは砂糖を煮詰めたような,とても甘くて濃密な――自殺をはかった某国の伯爵が運ばれてきたとき嗅いだ,高貴な血にも似ているにおいだ。そして俺だけが嗅ぎわけられる重色の体臭にもほかならないのだった。  ヘッドライトを点灯し,においを辿って山道の奥へと進んだ。首つりの腐敗体や摑みあう白骨体の脇を擦りぬけながら,一時ほど経ったころ梢の折れる音を聞く。振りかえる――と,熊が仁王立ちしている。4メートルほどはある大熊だ。近頃里に出没している人食いのOHK4かもしれない……  熊が両眼を潤ませるなり尻を見せて走り去った。撓りあう樹木の枝葉に潜りこみ一瞬で姿を消す。  気づけば背後に道はない。鬱蒼と生いしげる樹海が押し黙っているばかりだ。  帰れるだろうか……  でも何故だろう。さほど恐れは感じない。先を急ごうとする気が勝っているせいだ。次第に強烈になるにおいが背を押した。  泥濘に足をとられて幾度も転倒し,斜面を滑落しつつも山道をのぼりつめた――  なだらかに広がる窪みを満たす濁水が脂っぽい蒸気をわかせる絶え間に,緋色の大樹が垣間見えた。八方の天を貫く無数の枝に葉はなく,喇叭状の大輪が密に咲き誇る。その蠟質の花弁が時折爆発するように全開して八枚の緋片が散れば,例のにおいが一際強く鼻孔を突いた。花をなくした枝は萎びつつ垂れさがり幹に巻きつくが,所々に瘤をつくり膨張と収縮を繰り返したのち,赤々と照り映えながら再び空高くのびていく。  嗚呼いと嬉しくなむはべる――  やっと一緒なれたね,僕たちは結ばれるべき運命のふたりなのさ……  男女の睦みあう声を耳にした。  影が揺らめく――目を凝らす――  幹に絡まる枝々のうち,精気を戻した数本が幹を離れてのびたあと,残された隙間に人らしきものが蠢いているのだ。  重色だった――恍惚とした表情で幹を抱擁している。花のない枝がしなだれかかり,重色もろとも幹に纏わりつく。鮮血が飛びちった。  この木は肉食植物だ! 人を誘いよせ食らっているのだ!  ヘッドライトを消して一目散に逃げだした。何処をどう走ったか記憶にないが,無我夢中で駆けつづけ病院に辿りついた途端,失神した。  意識の回復したのは八十八日後の早朝だ。人払いをしてから,普段は孫など眼中にない厳格な祖父が,声色をかえて俺の頭や腹を撫でながら顔面を近づけ笑みをつくった――「裏山で何か見たかい?」  眼前の笑顔に今にも卒倒しそうな俺は黙りこくっていた。 「……そうかい? うん? うん,うん,よかった。それでいい,何も見ないでよかったよ……」孫の鳥肌のたつ手足をさすりながら笑いかける。だが両眼は恐ろしく尖っているのだ。 「ごめんなさい――言いつけを破ってしまって。もう二度と裏山には行きません」 「二度と行かない?……好奇心の強いおまえが?……」斜に構えた言い方をして突如真顔になる。「あすこにいるのは化け物だよ。平安時代の色情狂が千年経った今でも男を呼んで彷徨(さまよ)っておるのさ」  時は寛弘――『源氏物語』の読まれはじめたころである。不都合な情念に駆られ数々の浮き名を流した高貴な女人がこの地に送られたが,幽閉後にも不祥事は絶えず,秘密裏に命まで奪われたという……。 「女の幽閉されたのが,この裏山さ」祖父は肩越しの窓にむかって親指をさした。「成仏できない女の霊は裏山に棲みついて,たくさんの男をとり殺してきた。気にいった男が現れないなら荒ぶって悪さをする。この里が自殺や犯罪の場所に選ばれるのも化け物の仕業だよ。だがな――」祖父が表情を緩めた。その笑みに偽りはないように思われた。「賢い者は化け物だって利用するのさ。我らの御先祖さまは化け物に祟られた里を生業の場として選んだ。おかげで病人や負傷者が毎日担ぎこまれて食いっ逸れがないってわけさ。化け物だって,大病院頼みに集まってくる人間どもから選りどり見どりに餌を確保できるのだから,我らには感謝しているだろう――謂わば我ら一族と化け物は持ちつ持たれつの関係――運命共同体にあると言えるだろうよ」祖父が白衣を翻しベッドを離れていく。 「おじいさま!――」  祖父が煩わしげに立ちどまる。 「あの――化け物を見てしまったらどうなるのですか」  祖父が顔面の片側だけを傾けて横目を送った。「そりゃ,おまえ――餌食にされるさ」 「餌食!?――にされるのですか?」 「心配しなさんな。化け物も好いた相手にしか姿は見せないらしい。魅いられなければ,見なくて済むさ」 「見てしまったならば?……」 「……もう魅いられているのだろうよ。魅いられた奴は体臭が出るらしい。と言っても,人間には嗅ぎわけられないにおいだが。何でも化け物が魅いった相手に印として自分のにおいをつけるとかで,それをされたら独特なにおいを発散する体質になるそうだ」  祖父が部屋を出るなり,執事を呼びつけ叱責していた。  俺は日本を遠く離れた南海の孤島に送られ,軟禁生活におかれた。緋色の大樹を見てから二十数年も過ぎるが,身の危険を覚えたことはない。  ただ近頃自分の体臭が気にかかる。甘くて濃厚な例のにおいが全身に纏わりついているのだ。  それに,塔の一室で,たった独り,寝て食べるだけの毎日を送っているせいか,人恋しさが募り,打ちよせる波濤の音が女の声に聞こえる――いざいざ参らん。結ばるる宿世こそありけめ。  精神的に弱っている症状かもしれない。気をとりなおし,遮るもののない海原を眺める。今日は,月に1度の配達人が来る日なのだ。  地平線に太陽光線を浴びながらフォルムの滲む物体が浮かんだ。あれは……きっと白昼夢か陽炎の類だ。両眼をこする。  腔腸動物の触手を想わせる活発な動きで海面を搔いているのは根もとの部分らしい。存在の認知されたことを欣喜するように,無数の枝に咲き揃う喇叭状の大輪が爆散し,緋色の花弁で天空を埋めつくした。
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