この町

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この町

涙に濡れたマイの枕元に眠れない夜が過ぎ、やがて朝が来た。イネ婆の作る朝食の味噌汁の匂いがした。きっと具は豆腐と油揚げ、小松菜。 =僕が世界中を旅して静かな場所を探すから、マイもおいでよ= そう笑った結がもう居なくなる。けれど昨日の帰り道の結は機嫌が悪くて何かに怒っている様だった。走って行ってしまった結を追いかけて理由を尋ねていれば、ちゃんと言葉にして伝えていれば・・・また私は何も出来ないまま後悔ばかりしている。 「マイ、朝だぞ。学校遅れるぞ、起きなされ。」 襖の向こうからイネ婆が声を掛けて来た。 「・・・まさかお前、ずる休みするつもりじゃ無かろうな?」 マイは頭から布団をかぶってカタツムリの様になって叫んだ。 「知らない!もう放っておいて!私、熱があるの!」 「なぁに言っとるんじゃぁ、学校行かんとあかん。開けるで!」 イネが襖を開けると布団のこんもりとした山が出来上がっていた。 「こりゃ!良い加減にせえ!」 思い切りマイの掛け布団を剥いだイネ婆は、ギョロっとした目をもっとギョロっとさせて驚いた。 「なんじゃ、どうしたんじゃ!」 マイの(まぶた)はパンパンに腫れ上がりまるで別人のようになっている。 「お前、泣いとったんか・・・・それにしても、まぁ。よくそれだけ腫れたもんじゃなぁ。マイ、起きて鏡見てみぃ。」 マイは恐る恐る洗面所に行き電気のスイッチを押した。パチパチパチンと音がして白い灯りの中、そこに映ったマイの(まぶた)は目の上を蚊に刺されたかの様に腫れ上がって酷い事になっていた。 (・・・これじゃ結に会う事なんて出来ない。) 「こりゃあ結も腰抜かすわ。」 あまりのショックに声も出せずにいるマイの背中でカッツカッツカッツと奥歯まで見せてイネ婆が笑った。 「そんな事、分かってる!イネ婆の馬鹿!」 「なんじゃトォ!」 ピシャ!勢いよく襖を閉めたマイはまた布団にこもってしまった。大きな溜息をついたイネはやれやれ仕方のない子じゃと言った顔で、 「今日だけじゃぞ、マイ。学校には風邪だと電話しておく。家から出るんじゃないぞ?」 社務所の屋根の上では可愛らしいスズメの鳴き声が、もう雨は上がったと教えていた。どれくらいウトウトしていたのだろう、流石にお腹が空いたマイはこっそり布団を抜け出してキッチンを覗いた。イネ婆の姿は無いが外から箒で杉の落ち葉を掃く音が聞こえて来る。テーブルの上にはラップが掛けられたおにぎりが二つ皿に並べられ、赤い片手鍋には冷えた味噌汁があった。 (・・・食べても良いって事ね。) パジャマの格好のまま椅子に座っておにぎりを頬張っていると、青空の下、先生の軽トラックの荷台の上でマイが作った不恰好な梅のおにぎりを「美味しい。」と食べてくれた結を思い出してまた泣けた。柱時計がボーンボーンボーンと15:00を告げた。 (明日の今頃、結はもう東京に居るのかな。) 本当にこのまま別れても良いのかマイの心は揺れ動いていた。けれど急に機嫌が悪くなってしまった結の変化に戸惑い、何より泣き腫らしたこの醜い顔で結に会いに行く勇気が持てなかった。 「じゃあね。浩一、色々とありがとう。助かったわ。」 青い屋根の竹市の家の前には黒いタクシーが一台停まり、その運転手がいくつかの段ボールを手際よくトランクに運び込んでいる。カラカラと玄関の引き戸が開きおでこに冷却シートを貼った結がNIKEのスニーカーを履いて出て来た。 「結、あなたこんなに大きいのに、やっぱり中身は小学生なのよねぇ。おでこに冷却シートなんて貼っちゃって。」 「・・・。」 「日暮くん、もう大丈夫かい?」 何やら不貞腐れた結を見上げた悦子はふふふと笑いながら黒いハンドバックを手に持ちキョロキョロと周囲を見回した。 「忘れ物はない?」 (・・・・・・・忘れ物・・・。) 「・・・結?」 ふとマイの顔を思い浮かべたが、あの雨の日の子どもじみた自分の行動が恥ずかしくて合わせる顔が無かった。 (・・・それにどうせもう二度と会う事もないし。) 考え込み迷っている結の顔を見ていた竹市が、タクシーの運転手に何かを耳打ちした。 「さぁ、行きましょう。乗るわよ、結。」 青い屋根に白い壁の周りをドウダンツツジの小さな垣根がぐるりと取り囲むこの家、日陰になった木の窓枠からはどこまでも青い空と白い入道雲が見えた。土埃が酷い畦道、小学校の4階の角にある6年1組。喉の奥が熱くなった。 「日暮くん、イギリスに行っても元気でいて下さい。お友だちもきっと沢山出来ます。頑張って、負けないでください。」 「こうちゃん・・・・ありがとう。」 「何を泣いているんですか、笑顔で出発ですよ。また・・・いつかこの町に遊びに来て下さい。絶対ですよ?約束です。」 いつの間にか僕の頬には涙が流れていたが、こうちゃんとしっかりと指切りげんまんをする時にはそれは一筋を残して消えた。 「元気で。」 「こうちゃんも元気で、みんなにも6年1組のみんなにもありがとうって伝えて。」 「分かったよ。伝えておくよ。」 「ほら、行くわよ。運転手さん、お願いします。」 「元気で!日暮くん、元気で!」 黒いタクシーは僕の1ヶ月の思い出を乗せて青い屋根のこうちゃんの家を出発した。僕は窓から身を乗り出してこうちゃんに手を振った。こうちゃんはどんどん小さくなってお地蔵さんが並んだカーブを過ぎるとすっかり見えなくなってしまった。そしてプロの運転手さんが運転するタクシーも、やっぱりこうちゃんの軽トラックみたいに上下左右に弾みながら畦道を走った。両側に迫る東と西にある杉林の山、青々と茂っていた背の高い草はすっかりススキの穂になり後ろ後ろへと流れては消えた。少し先に赤い鳥居の稲荷神社が見えて来た。 「あら、どうしたんですか?」 急にタクシーはスピードを落とした。母が不思議そうな顔で運転手さんに尋ねている。きっとこうちゃんが気を利かせてここでゆっくり車を走らせるようにお願いしたのだろう。この場所で僕たちは出会った。いつまでも地面を見つめている女の子にきっと僕は一目惚れしたんだ。 =この町にはマイがいるから。もし、もしマイがこの町に居なかったとしても、その時僕はマイを探しに行きたい。= カナカナカナ カナカナカナカナカナ カナカナカナ 口に巻物を咥えた石の狐を見送った時、僕はヒグラシの鳴き声を聞いたような気がした。
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