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僕の声が聞こえる
朝靄の中、一晩考えた竹市は居ても立っても居られなくなり稲荷神社の石段を駆け上がっていた。運動不足が祟ったのか息が上がり、全速力で走っているつもりがなかなか先に進む事が出来ない。石段の灯籠の両脇に生えたシダ植物が早く急げとばかりに風に揺れた。
「はぁはぁはぁはぁ。」
ようやく石段を上りきると社務所が見え、水道の鉄の管に赤いリードで繋がれた太郎がフォン?と目を覚ました。
ワンワンワン!ワンワンワン!
「おはようございます!すみません!イネさん!竹市です!」
社務所にはインターフォンが無い。竹市はこれでもかと言うほどの大声でまだ眠っているだろうイネ婆の名前を呼んだ。社務所のリビングの大きな壁時計がボーンボーンボーンボーンと4:00を報せた。寝巻きを着たイネが眠い目をこすりながらガチャガチャと玄関の鍵を回して開けた。
「あんれまぁ、先生。どうしたね、こんな早くに。」
「すみません!」
竹市の息席切った様子に気押されたイネ婆が目をギョロっとさせた。
「高畑、いや、マイさんは居ますよね!今なら、関越道で行けば間に合います!起こして下さい!」
「どうしたんじゃぁ先生、何のことですじゃぁ?」
「結です!結が乗る飛行機は今日の9:35に成田空港から飛びます!」
「お?」
「結です!日暮くんです!」
イネ婆は手をポン!と叩いて、
「・・・おお。おおおお!そういう事かい。」
頷きながら三和土を良いコラショと上がってマイの名前を呼んだ。
「高畑!起きろ!結を見送ってやろう!僕が空港まで連れて行くから!起きろ!」
竹市は玄関先から奥の部屋に届くようにありったけの声で叫んだ。ざわざわと杉の子が揺れ、ピピピピピピ!辺りに眠っていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
「・・・・先生?何?」
まだパジャマのまま寝ぼけ眼のマイはそろりと襖を開けて顔を覗かせた。
「先生?どうしたんですか?」
「高畑!すぐ支度しろ!顔洗え!早く!」
「え?なに?」
「早く!」
マイは高市のいつに無い強い言葉に尻を叩かれ慌てて洗面所に向かってバシャバシャと顔を洗い、少し適当に歯を磨いた。髪の毛をブラシで梳かそうとすると、
「髪の毛はそのままで良いから!ヘアブラシはカバンに入れて!僕の車の中ですれば良い!着替えて!トイレも!」
マイは大きめのポシェットにヘアブラシとヘアゴムを放り込むと、白い鈴蘭の花みたいなパフスリーブのチュニックにジーンズのショートバンツを履いた。靴は一瞬赤いリボンの付いたサンダルを手に取ったが、動きやすさを考えて赤いスニーカーを選んだ。
「イネさん、高畑をお借りします!」
「お・・・おお。おお!先生、頼んだでぇ。運転、気をつけてな!」
高市は軽くお辞儀をすると踵を返して走り出した。
「早く!転ばない様に気をつけて!」
日頃から稲荷神社の石段を歩き慣れているマイはまるで狐の様に駆け降りて行った。片や竹市は一歩一歩恐る恐る降りるという為体で面目次第も無かった。
「先生、早く!早く!」
赤い鳥居を駆け抜けたマイは軽トラックの助手席に飛び乗りシートベルトを手際よく閉めた。
「・・・お、お待たせ。申し訳ない。」
ドゥるん、ドゥるん。ブルルルルル。
いつもより高らかな音を立てて竹市の軽トラックは発進した。凸凹した道を上下左右に弾けながら吉田酒店の前を通り過ぎ、赤い逆三角形で一旦停止した。車は右左右の安全確認をして右折、東京方面の高速道路を目指した。
「・・・先生、ありがとう。」
マイはほつれた髪をブラシで梳かしながら竹市の横顔に話し掛けた。
「いや、こちらこそありがとう。無理に連れ出して済まなかったね。結が最後まで君のことを気に掛けていたみたいだったから・・・イギリスは遠いよ。今日会っておかないと2人はきっと後悔すると思う。」
マイは肘までの髪の毛を三つ編みにしながら白い靄に包まれた海岸線を眺めた。潮の香りが身にまとわり付く。
「・・・日暮くんは君がクラスに馴染んで楽しげにする姿に嫉妬したんだよ。」
「嫉妬?」
「そう。」
「だから機嫌が悪くなっちゃったの?何で?」
「これから高畑はみんなと一緒に中学生になる。楽しい思い出も、友だちも増えるだろう。その時、結はこの町に居られないからね。」
「・・・。」
「高畑の事が好きだったんだよ。」
「そんな事ない。」
「本当にそう思う?」
「・・・。」
暗いトンネルを走る軽トラックのサイドミラーにオレンジ色のライトがぽつ、ポツと蛍のように浮かんでは消えた。それは長い長いトンネルで、マイは少し不安になった。
(ここを抜けるとどんな景色が見えるの?)
一瞬、目が眩んだ。真っ白だ。真っ白の向こうには鈍色の空が広がっていた。
「おっ、見えてきた。順調、順調。」
高速道路の防音壁の隙間から玩具みたいに小さくて色とりどりの屋根の家が見え始め、それはどこまでも続いた。マイが後ろを振り返ると山はどんどん小さくなってやがて姿を消してしまった。
「高畑、これから行く所はとても賑やかな場所です。大丈夫ですか?」
マイは三つ編みを指で撫でながらしばらく考え、
「わかりません。でも・・・・・。」
「今ならまだ引き返すことは出来ますよ?帰りますか?」
車の窓の外に船みたいなマンションや背の高いビルがぴょこぴょこと現れるようになりそれはやがて群れになった。ビルの谷間にはぐるぐると曲がる道路が迷路のように幾重にも連なり、途中、竹市が遊園地の入り口みたいな建物の機械にお金を入れていた。
「もう少しで成田空港に着きます。」
頷くマイ。
「憶えていて下さい。日暮くんが乗る飛行機はJAL、赤い丸の中に鶴のマークがあります。東京からロンドンに行く、9:35の便です。」
目の前の道路が大きく二股に分かれて左側の青い看板に”↑成田空港入り口”の白い文字が飛び込んできた。思わずシートベルトをギュッと握る。手に汗が滲む、足が震え耳の中が水の中に居るみたいにボワーっとして視点が合わない。
キィ!ドゥドゥドゥ。
「着きましたよ!しっかりして下さい!」
気がつくと高市の軽トラックは空港近くの駐車スペースに横付けしていた。
「高畑、これから先生、駐車場に車を停めに行きますがどうしますか!?駐車場に行きますか!?」
「・・・先生、今、何時ですか!?」
必死な形相のマイ。竹市がシャツを捲って腕時計を確認する。
「7:50です。大丈夫、まだ間に合います!ここで待ちますか!?」
(7:50、どうする!?どうしたら良い!?)
「高畑!」
するとマイはシートベルトの金具を外し、軽トラックの助手席から飛び降りていた。
「高畑!1人で行くのか!?待て!待て!おい!」
左右を見たマイの動きが一旦止まり、右に向かって走り出した。それを見た竹市は助手席の窓から顔を出して思い切り叫ぶ。
「高畑!そっちじゃない!逆だ逆!反対だ!」
「え!」
竹市の指示に気がついたマイはこくんと頷き、今来た道を走って戻った。横断歩道の向こう側に空港入り口の自動ドアが見えるが足がすくんで動けない。
(・・・・・駄目、こんな事じゃ!)
丁度そこへ大勢の団体利用客が大型のキャリーケースをガラゴロと引いてやって来た。マイはその行列に紛れて横断歩道を渡る事に成功した。
ところがマイは一歩踏み入れたフロアの天井の高さに気押された。そこには”出発はこちら””出発はこちら”と同じ内容で色違いのボードが何枚も吊り下げられている。見上げると黒い電光掲示板は目まぐるしく変わり飛行機の出発時間が表示されている。
(この中で結を探すの!?)
ふと落とした目線の先に、赤いマークに鶴の模様のカウンターが見えた。マイはそこに駆け寄り、
「これくらいの身長の小学生の男の子です!ロンドン行きの飛行機に乗りますか!?」
マイは結の身長が自分よりずっと大きい事を伝えようと、腕をうんと上まで伸ばしてその場所に立っているお姉さんに尋ねた。するとその人は少し困った顔をして、
「総合案内所でなら迷子の呼び出しをして貰えますよ?」
そう言って棚からマーカーペンを取り出すと、行き先までの道順を線で引いて教えてくれた。
「ありがとうございます!」
行き交う人混みを避けて総合案内所のカウンターに飛び込んだマイは必死な声で結の特徴を伝えた。
「男の子なんです、小学六年生で髪は金髪で背が高くて!これからロンドン行きの飛行機に乗るんです!」
「その方のお名前は?」
「結です!日暮 結です!」
次にマイは、フロアのベンチで飲み物を飲んだり、談笑している人の中に金色の髪を見つけるとそこに駆け寄っては顔を確認して回り肩を落とした。
「あ、アイム、ソーリー・・・・。」
カタコトの英語で謝ると「OK、OK!」「ダイジョブネ!」と青い目の人が笑顔でGOODサインを返してくれた。けれど気は焦るばかりだ。大きなガラス窓には色々なマークの大型ジャンボジェット機が飛び立って行く。
(JAL、JAL、赤い、赤い鳥のマークだって先生が言ってた。)
「・・・あ!」
白い機体、尾翼に赤い丸で鶴の模様の大きな飛行機が、スタッフが振るオレンジの板に導かれて滑走路をバックしているのが見える。絶望感がマイを襲う。緊張の糸がぷつりと切れ、飛行機の離発着のアナウンスや乗客の持つキャリーケースの音、天井に吊るされた白くて眩しいライト。全ての音や光、雑沓に突然放り込まれたマイは戸惑い目が回る。限界だった。
(・・・もう駄目、耐えられない。先生、助けて。)
雑踏の音が真っ白になる。マイの両足はその場所に接着剤で貼り付けられた様に動けなくなりその場にしゃがみ込んでしまった。
カナカナカナカナカナ
「東京発ロンドン行きJAL407便9:35ご利用のお客様はご搭乗手続きを開始致します。」
カナカナカナカナカナ
その時の事だ。ジャンボジェット機の飛び立つエンジン音がヒグラシの鳴き声の様に聞こえた。マイは自分の両耳を塞いでいた両の手のひらに温もりを感じ、恐る恐る顔を上げる。
「マイ、僕の声が聞こえる?」
了
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