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ヒグラシ
「君、僕の声が聞こえる?」
空はどこまでも高くオレンジ色をした羊雲が東に向かってゆっくりと進んでゆく。黒く塗り潰した杉林のてっぺんは夕陽が落ちる瞬間に輝いていた。
僕の名前は、日暮 結、小学校6年生。この度、大人たちの勝手な都合によりこの町で1ヶ月暮らす事になった。
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナ
ススキの穂が茂る草むらで、鈴虫やコオロギが夏の終わりを奏でている。それに負けじとばかりに降り注ぐヒグラシの鳴き声。
稲荷神社の赤い鳥居には、口に巻物を咥えた石の狐がちょこんとお座りをして見下ろしている。
その片隅で僕は膝を抱えて地面の一片を見つめる女の子に声を掛けていた。
暗がりで顔はよく見えないが黒い前髪は眉の上で一直線にカットされ、今時には珍しく肘辺りまでの三つ編みを垂らしている。白い丸襟のブラウスに紺か黒のボックスプリーツのスカート、細く白い足首、素足に赤い鼻緒の下駄を履いていた。まるで世界大戦中の女の子みたいだな、というのが第一印象だ。
「ねぇ、きみ。何を見ているの?それ、なに?」
そこには群がった小さな黒いアリに何処かに連れて行かれそうな焦茶色をした大きめの落花生が転がっていた。やがてその背中には一筋の線がメリメリと入り、その中で白い花びらの様な物がひらりひらりと動いた。
「ねぇ。もう暗くなるよ?お家の人が心配するんじゃないかな?」
声を掛けても何の反応もないその女の子の隣で一緒に膝を抱え、どれくらいの時間が経っただろう。両側を山に囲まれたこの小さな町はあっという間に日暮れを迎え、
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナ
つがいを探す雄のヒグラシの声が今度は僕たちにおおい被さってきた。カラスが群れになって寝ぐらに帰って行く。
ふと降り仰いだ僕の真上にキラリと輝く点が見えた。
昨日まで住んでいた街には赤いテールランプと白のライトの川がどこまでも続き、高層ビルの群れはいつまでもこうこうと輝いてLEDの電飾で彩られた街路樹が等間隔で並んでいた。毎日通った塾の帰り道、見上げた夜空は真っ白く煙り、そこに星など一つも見えなかった。
「あ、あれ!いちばん星かな!?」
思わず立ち上がり嬉しげに叫んだ僕の感動に、
「・・・あれは・・・国際宇宙ステーション。」
ぽつりと消え入りそうなヒヨドリのみたいな声が水を差した。
「・・・・え、そうなの?」
「そう・・・・動いてる。すーって動いてる。」
目を凝らすと確かにわずかだが”僕のいちばん星”は右へ右へと移動している。
「いちばん星はあっち。」
その女の子が指差す赤い鳥居の先にはひときわ輝く金色の星。人工衛星とは比べ物にならないその光のきらめきに僕の心は波立った。
「すごいね!すごい!綺麗だね!本物のいちばん星は初めて見たよ!」
「・・・・・うん。」
「図鑑やYouTubeでしか見たことない!あれ、金星なんだよね!?」
「そう・・・・宵の明星。」
「よ・・い?良いの何?何が良いの?」
「・・・・それ違う。」
彼女の口元がふっと夜を吸い込んで、ほっと吐いた。
僕はポケットからiPhoneを取り出して”よいのみようじよう」を検索してみた。ウィキペディアはすぐに{一番星、1番星、いちばん星(いちばんぼし)は、夕方に最初に輝いて見え始める星。一般的には宵の明星(金星)を指すことが多い。}そう教えてくれた。僕がその事を知らなかったから笑われてしまったのかも知れない。
「宵の明星、素敵な言葉だね。そんな難しいこと良く知ってるね。」
「イネ婆が教えてくれた・・・。」
「え、う、うわっつ!」
そんな”モノ”がこの世に居るはずはないのに、一瞬、妖怪が立っているのかと思った僕は、見苦しく素っ頓狂声を出して後ずさってしまった。女の子が指差した先には、頭に白い布巾を被った着物にモンペ姿の年配の女性がいつの間にか赤い鳥居の下でこちらを見て、ニヤリと笑みを浮かべながら骨ばったしわくちゃの手でおいでおいでした。どこか遠くに連れて行かれそうな気がしてゾッとしていると、
「おおーい!おおい、ヒグラシくーん!」
黄色いライトが上下左右に跳ねながら土埃を上げてこちらに向かってきた。あれはこうちゃんの軽トラックだ。こうちゃんは母の弟で僕の叔父、竹市 浩一28歳独身。これから通う小学校6年の担任を兼ねた理科の先生だ。
「日暮くん、遅いから心配したよ!携帯のアラームちゃんとセットしたのかい?」
「あっ!ごめんなさい!忘れてました!」
電車の中はマナーモード。いつもの癖でiPhoneの左側の”ツメ”をオレンジ色にしたままだった。
「お、高畑お前もこんなに暗くまで外で何やってるんだ。早く家に入りなさい。危ないぞ。それに・・・イネさんを困らせちゃ駄目だろう?」
すると少女は立ち上がり消え入るような声で「・・・大丈夫。」とだけ答えた。するとさっきの妖怪が前掛けで手を拭きながらカラコロとこちらに向かって歩いて来た。
「あんれま、竹市先生こんばんは。何ね、マイがどうしてもこれを見たいて言うてきかんので待っとんたんや。お陰でほれ、こんなに虫に喰われてしまったわ。」
棒切れのような腕を差し出してカッカッカッと笑った。奥歯が見えそうだった。「どれどれ。なんだい?」こうちゃんが女の子の足元に座り込む。僕もそれを覗き込み、よく目を凝らして見ると焦茶色をした大きめの落花生の上には、全体が薄く透けるように白く薄緑の丸いビーズが2個付いた二等辺三角形がうごめいていた。
「うわっつ!何、こうちゃん何これ!」
また僕が素っ頓狂な声を上げてこうちゃんの半袖シャツの袖をぎゅっと掴んで脚をバタつかせるものだから、その滑稽な姿を見た女の子の口元がふっと解けたように見えた。そして3人は僕の顔を見てこう言った。
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナ
「ヒグラシだよ。」
「ヒグラシ。」
「ヒグラシだぁ。」
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナ
(・・・・そうなのか、これがヒグラシ。白いんだ。)
こうちゃんとイネ婆が立ち話している横で、僕は始終無言の彼女を前に少し戸惑っていた。
「ヒグラシって白いんだね。図鑑で見たのはもっと黒かったよ。」
「・・・・。」
「僕の名前も日暮って言うんだよ。日暮 結。結ぶって書いてゆい。」
「君の名前はなんて言うの?」
「・・・・。」
「聞いちゃダメだった?」
「大丈夫。」
「何ていうの?」
「マイ。高畑マイ。」
「まい、まいってどんな漢字?」
「カタカナのマイ。」
「へえ!マイ、素敵だね!」
「・・・・。」
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナ
また彼女は黙ってしまった。人見知りなのかな。それにしても、僕は小さい頃から英会話教室や塾に通っていたのに、こうして一歩外に踏み出すと図鑑や参考書では知り得ない体験、そして分からない事だらけだ。これはみんな母の言う”微分積分”の計算式には何の役にもたたない事だと思うけれど、僕がまだ小さくて一人で眠れなかった夜、ベッドの脇に座った父がストーンヘンジの巨大石群の写真を見せながらその不思議さを話して聞かせてくれた。それと同じ様に、この足元に這いつくばる蝉にも何かしら存在する意味が有るのかも知れない。そんな余韻に浸っていたが、ふとこのままでは少しばかり格好がつかないので僕は知っている限りの知識をマイちゃんにひけらかせた。
「ねぇ、マイちゃん、蝉って1週間しか生きられないんでしょう?そんな短い生涯とか寂しいよね。」
すると、
「蝉は1ヶ月は生きる。それにヒグラシは蝉じゃない、ヒグラシは茅蜩、蝉とは分類される。それに地球規模で考えれば人の一生なんて瞬きみたいなものだ。だからヒグラシも1ヶ月でも精一杯生きれば問題ない。寂しいと思うのは人間の自己満足だ。」
と、マイちゃんにバッサリと一刀両断されてしまった。これにはこうちゃんも笑いを堪えきれないという風に左の親指と人差し指で眼鏡のフレームを摘んで少し上げ、右指で目尻を拭きながら、
「こりゃ、筑波大学附属駒場の秀才も形無しだな!」
と戯けて僕の顔を見た。
「おお、そうじゃあ。」
イネ婆がふと思いついた様に、
「あんたらヨモギ摘んできたさけ、”ヨモギ餅”作ったで持ってお帰り。」
「いやぁ、いつもありがとうございます。」
そしてこれまた驚いた事に、今度はカラコロと突っ掛け草履の音を響かせながらイネ婆とこうちゃんが赤い鳥居の稲荷神社の石段を上って行ったのだ。一体どこへ?と石の狐に見下ろされながら戸惑う僕に、
「大丈夫、ここ、私の家だから。」
そう言われるままに僕も石段に足を掛けた。うっそうと茂る杉の木立にヒグラシの鳴き声がこだまする。その下をマイちゃんの下駄の音と僕のNIKEのスニーカーの靴底がキュッキュと滑る音が後に続いた。ザワザワと風に揺れる黒いシダ植物が、”ここはもう東京都ではないのだ”と、僕に言い聞かせているような気がした。五段上のこうちゃんの背中を目で追いながら、僕とマイちゃんは並んで歩いていた。
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナカナ
カナカナカナカナカナ
「・・・ねぇ、マイちゃんは小学生?中学生?」
仄かな灯篭の明かりに照らされた逆光の中の彼女はとても大人びて見えた。
「・・・・小学校の6年生だよ。」
「そうなんだ!僕も6年生、明日から同じクラスだね、よろしくね!」
この人口6,316人の小さな町の小学校は、1学年に1クラスしかないといった小規模なものだった。ほんの1ヶ月のショートステイとはいえ、余所者の僕にとってマイちゃんとこうして出会えた事は心強かった。
神社の石段を上り切るとお社の隣に平屋建てのこぢんまりとした社務所があった。ワンワン!と、両手で抱きしめたら丁度良さそうな大きさの白い犬が、マイちゃんの顔を見て丸い尻尾をこれでもかと振っている。けれど水道の鉄の管に繋がれた赤いリードが邪魔をして、身動きが取れずもどかしそうに跳ね回っていた。
「ただいま、太郎、やだ、待って、待って!」
激しく尻尾を振りながら二本足で立ち上がった太郎に顔を舐められて、三つ編みを揺らしながら笑うマイちゃんの横顔が無邪気で可愛らしく、先程までの無愛想で無口なイメージとあまりにも掛け離れていたので僕は思わず見惚れてしまった。これがいわゆる”ギャップ萌え”と言う事なのだろう。そして改めて明るい電気の下で見るマイちゃんは、眉の上で横一直線にカットした黒髪にすっとした鼻筋、切れ長の奥二重それでいて黒曜石の大きな瞳、小さくてピンク色のリップクリームを塗ったみたいな桃色の唇。少し日焼けはしていたけれど、まるで日本人形の様だった。素直に可愛いと思った。
「あんた方、はよお入り。」
僕はイネ婆に呼ばれ、我に返った。
「こんばんは、お邪魔します。」
ご両親はまだ家に帰っていない様だった。社務所の格子戸の向こうには意外と現代的なフローリング貼りのリビングが広がっていた。システムキッチンにダイニングテーブルと椅子。本来ならば土間に釜があってそこに薪が焼べられ畳に囲炉裏が有る日本昔ばなしの様な内装を想像していたので僕は少しがっかりした。
「ほら、立ってないでこっちにお座り。」
こうちゃんに呼ばれて三和土に腰掛けると、キッチンの奥から”ヨモギ餅”がぎっしりと入ったタッパーウェアを持ってイネ婆がヨイショと顔を出した。イネ婆は想像していた通りのお婆ちゃんで、日に焼けた頬骨の張った顔には人生の年輪がぎっしりと刻まれ、鼻の横には大きな黒子があった。白い布巾を外した髪は胡麻塩みたいに白と黒が入り混じり頭の天辺でお団子の様に纏められていた。
「さぁさ、砂糖は少なめにしたけど口に合うと良いけどねぇ。」
そう言いながらこちらを向いたイネ婆は、ギョロリとした目を更にギョロッと丸くしてまじまじと僕の顔を見た。その隣でこうちゃんはうんうんと頷いている。
「あれまぁ、竹市先生から聞いとったが本当に、コリャ。別嬪さんだねぇ。コリャ、女子は大騒ぎして授業にならんわ。」
と、また奥歯まで見えそうな口でカッカッカッと笑った。
細く長い手脚、陶器のように白い肌、金色に近い薄茶の髪は前髪で柔らかなカーブを描き襟足は短く刈り上げられている。フワリとした眉、長く豊かなまつ毛の下には碧眼の瞳、少し丸みを帯びた鼻筋の先には小さくぽってりとした唇が横たわり、それはさながら壁画に描かれた天使の様でもあった。
僕の名前は、日暮 結、小学6年生。
東京大学助教授の日本人の母と、写真家のイギリス人の父を持つ、この町に越して来た1ヶ月だけの転校生だ。
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