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二人が帰った後、美咲さんがグラスに冷たい麦茶を注ぐ。
「日が見えたら店を出ましょう」
「美咲さん、ありがとうございます」
美咲さんがカウンター席で、私の隣にゆっくり腰を下ろした。
「成仁さん、松濤に帰っていないんだって?」
美咲さんが私の目を真っ直ぐ見据える。どこか憂いを秘めた瞳が、女の私でも惚れそうになる。
「はい。お仕事で忙しいんだと思います」
「私ね、はじめさんからちょっと聞いてるのよ。果穂ちゃん、この一年で恋をしたんじゃないのかしら」
私の頬に手を当てる美咲さん。
「・・・え。と」
「したたかに生きなさい」
美咲さんがすっと目を細める。
「一人の人間に肩入れするのは、破滅の始まりよ。経営者を目指すなら、柳川家から金を搾り取って去りなさい」
私の頬に触れる美咲さんの手は、しとやかで柔らかい。光の遮断された瞳が、私の心の奥まで覗かれている気がする。美咲さんの背後に、濃いピンクの牡丹が咲く錯覚が見えた。
朝日が昇り始めた頃、美咲さんと一緒に電車に乗り、柳川家に帰ってくる。
門の前に立つと、美咲さんが背後を振り返り見渡した。
「特に視線は感じないわ。視線が気のせいじゃなければ、きっと果穂ちゃんは関係ない。柳川家を見つめていたんじゃないのかしら」
美咲さんの唇が弧を描く。
「じゃあね、果穂ちゃん。あと少しの辛抱よ」
「送ってくださり、本当にありがとうございました」
美咲さんが私と成仁さんのことをどこまで聞いていたのかは分からないけれど、私が成仁さんを好きで、付き合っていたことを知っているような気がした。
美咲さんは綺麗で、艶やかで、ちょっぴり怖い。
怖い、と感じたのは初めてのことだった。
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