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第36話
どうでも良さそうな話で時間を潰す。そうして二時間半程が経過した頃だった。
「あら、鳴海さんじゃない」
ふいに声を掛けられて京哉が目を上げると、そこには柏仁会会長の愛人である深山綾香が立って笑っていた。この瞬間、京哉は張り込み失敗を悟って溜息を洩らす。柏仁会サイドの綾香は京哉が警察官だと知っているのだ。
その綾香はイブニングドレスではなく、白に金糸で縁取りした襟ぐりの広いタイトなスカートスーツを身に着けている。ボディラインも大胆な格好でためらいなく京哉と小田切の間に座り、綾香は細巻きを咥えて華奢なガスライターで火を点けた。ふうっと紫煙を吐く。
そんな綾香から目を移して京哉は周囲を見回したが、お付きの手下は見当たらない。綾香が声を上げて笑った。
「誰もいないわ。いい加減に窮屈だから抜け出してきたんだもの」
「それって何号室ですか……って、訊くのはアリですか?」
「ナシよ。あたしだって命は惜しいですもの」
「そこを何とか」
「だーめ。でも、そうね。あたしと一晩付き合ってくれるなら考えてあげるわ」
「あ、じゃあパスです」
「迷うふりすらせずに即答するなんて、割と貴方、失礼よね」
指定暴力団の愛人を怒らせたかと京哉は綾香の表情を窺ったが、綾香は口ほどに機嫌を損ねてはいないようだ。だが僅かずつ距離を詰め、京哉に凭れるように接近してくる。退きつつも京哉はずっと疑問だったことを綾香にぶつけた。
「あのう、そういや以前にお会いした時、僕のコーヒーに九天を入れましたよね?」
「半分残すとは思わなくて、その気にさせようと思ったのに失敗したわ」
「なるほど。でも僕だって命は惜しいですから」
「だから前も言ったじゃない、槙原はあたしの浮気心なんか慣れてるって」
「それは貴女が事後、関心を持たないからでしょう」
「そうね、冬の海は冷たそうですものね」
何食わぬ顔をして確信犯だから怖い。それにこんなことをしていたら売人が綾香に気付くのは時間の問題だ。一緒にいる男二人にも関心を向けた売人が槙原省吾と連絡を取り、京哉たちがサツカンだと知ってしまう可能性は高かった。
もし売人が気付かなくても綾香自身が槙原に連絡するなり、部屋に帰って告げるなりすれば同じことである。その前に一旦撤退するか否か京哉は迷った。
迷う間に二十一時過ぎになり、ホテル側がナイトサーヴィスと称してコーヒーを配り始めると綾香は細巻きを吸うのを止め、あっさり腰を上げた。
そのままゆっくり歩いて京哉たちから離れたかと思うと、随分向こうのソファに腰掛けたソフトスーツの若い男と会話し、エレベーターホールへと歩き去る。
京哉と小田切は若い男を注視した。かなり遠いが二人共にスナイパーで視力は抜群だ。じっと観察する。綾香が売人に自分たちの存在を告げ口したかと思ったのだ。だが男はこちらを一瞥もしない。どうやら綾香は二人のことを内密にしてくれたらしかった。
京哉は小田切と一緒に安堵の溜息をついて吸いかけの煙草を捨てた。
それにしても綾香が話しかけた男は結構な優男で、クスリの売人という風情ではない。それなりに上物のソフトスーツを着こなして見事にセレブに溶け込んでいる。
「けど、あれが売人で間違いないんだろ?」
「おそらくは。僕ら、深山綾香に塩を送られちゃったみたいですね」
「うーん、深山綾香は売人を俺たちサツカンに売った……いったい綾香に何の得があるんだろうねえ?」
「さあ。それはともかくあの男が柏仁会の関係者なのは確かでしょう」
そこで京哉の携帯に着信が入った。すぐに切れたそれは霧島からの合図で【確保する】というものだ。エントランス方向に小田切が、エレベーターホール側に京哉が足早に移動する。カフェテリアから霧島が出てきた。
三方から囲まれたとソフトスーツの男が気付いて立ち上がった時には、既に霧島が男のみぞおちに膝蹴りを食らわせている。苦痛に声も出せない男を抱き留めるようにしながら携帯を取り上げた。
ソフトスーツのポケットから大量の赤い薬包紙の包みを、ベルトの腹からは大型拳銃のトカレフを発見・没収して酔った友人を連れ出す風を装い、三人で男を地下駐車場に運び出す。
セレブ相手の売人男は荒事に慣れていないらしく、本人のトカレフを脇腹に突き付けただけで泣きながら柏仁会と楢井ケミカル工業社長の楢井一輝が宿泊している部屋を吐いた。梓映美は知らないという男の手足を手錠で縛め、覆面の後部に放り込む。
「柏仁会が二十一階二一〇二号室と二一〇三号室、楢井が二一〇八号室だ、急げ!」
三人はエレベーターで二十一階に向かおうとしたが、宿泊階には宿泊客しか降りられない。キィを持たない人間はエレベーター係のホテルマンに制止されるシステムだ。
「チクショウ、二十一階まで、階段か。空っ腹に、これは、効くなあ」
「きっと、晩飯が、旨いぞ」
「今更ですが、宿泊客以外も上れる、最上階から下った方が、近くて早かったです」
京哉の言葉に二名の上司はガッカリしすぎて、あとは言葉もなく二十一階まで上った。肩で息をしながら二一〇二号室と二一〇三号室の前を通り過ぎてみる。
すると両方のドアに『Please make up the room』の札が掛かっていた。
「柏仁会は一人や二人じゃない筈だが全員が留守か。拙いぞ、これは」
急いで二一〇八号室も見に行ったがここにも同じ札が掛かっていた。三人は顔を見合わせてから、今度はスムーズにエレベーターで一階に直行する。もし梓映美が拉致されていなくとも誰かがマン・ターゲットにされようとしている可能性があった。
「くそう、間に合うのか?」
歯の隙間から押し出すように低く唸った霧島に京哉が頷いて見せる。
「間に合いますよ、間に合わせなきゃ」
エレベーターが一階に着く。自動ドアが開くのを待つのももどかしく、三人は自動ドアが開くなり弾かれたように飛び出した。エレベーターホールからロビーを駆け抜けフロントマンたちを煌く灰色の目で黙らせて、霧島を先頭に京哉と小田切もエントランスから走り出る。
街灯も眩い中で左方向に進路を取った。目前の通りには車も行き交い、人通りもあった。
全力疾走しワンブロック先を左折する。するともうそこはホテルと古い雑居ビルの間の細い道で途端に人影は途絶えた。更にワンブロック数百メートルを走り抜ける。
三人はホテルの真裏に当たる、廃ビルに囲まれた迷路のような小径に踏み入る前に減速し、様子を窺いながら歩き始めた。ここから右の奥に入ると七発食らった二体の死体発見現場で、警備部の制服組が張り番している筈である。そちらには行かず先を目指した。
「この先は本当に車も通れない小径になっているんだ」
と、報告書を呼んだ小田切が囁く。既に三人とも銃を手にしていた。
辺りは真っ暗に近かったが、時折思い出したようにポツリ、またポツリと自動販売機が設置されていて外灯の役目も果たしている。それ以外は影に覆われ、静けさが耳に痛いくらいだった。三人は散開して密やかに人の気配を求め歩を進めた。
「でもさ、捜一も所轄も差し置いた挙げ句にこれは、あとで揉めるんじゃないか?」
「貴様は腰が引けたのか? 詫びを入れて人命が拾えるのなら、あとで幾らでも詫びれば良かろう」
「鉄面皮で謝って、結局ガチギレする方に一票入れます」
「右の頬を殴られたら、左のこぶしを振り上げろと……おい、聞こえたか?」
差し掛かっていた右側の脇道から明らかな気配がしていた。
「一人じゃありませんね、かなりの大人数ですよ」
三人は抜き身の銃を手に走った。無人の元オフィスビルに挟まれた道はなお暗い。
「あそこ、三十メートル先、自販機三台が並んでる向こうです!」
「分かっている、五人……いや、六人で一人は女だ!」
「拙いぞ、始まっちまってる!」
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