第44話

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第44話

 離れで出された夕食はカレーで唾液を絞り出すような匂いだったが、昼食も食べなかったにも関わらず京哉はまるで手をつけなかった。  そんな京哉の前で日が暮れてから戻ってきた安里は黙々と食事をし、食後の煙草タイムとなって紫煙混じりの溜息をついた。 「婚姻の儀を済ませていない貴殿に託宣は無理、神事だけやるしかないだろう」 「分かってるけど、その前に忍さんを解放して下さい」 「悪いが俺にその権限はない。だが会わせてやるくらいはできるかも知れない」  そう言って安里は煙草を消して腰を上げる。 「本家に行ってくる。透夜は二十一時からの神事の準備をしていてくれ」  黙って京哉は頷いた。そこに着替え係二人がやってくる。つれて行かれたのは昨夜も使ったバスルームで結構広い檜風呂だ。だがそんな風情を愉しむ余裕はなかった。  まとった着物と袴を引っぺがされたと思ったら、真冬だというのに長襦袢の上から風呂桶に溜められた水を頭からザバザバとぶっかけられたのである。神事の前の(みそぎ)ということらしかったが、本当に歯が鳴り出すほどの冷たさだった。  そのあとシャワーを許され、羞恥を感じる余裕もなく着ていたものを脱ぎ捨てた。  バスルームから出ると身を拭い、ドライヤーで髪を乾かすなり裾よけと肌襦袢、白絹の単衣と緋袴に千早を着せられる。  すぐにでも神事を行える格好で着替え係に時計を見せて貰うと二十時過ぎだった。神事まであと一時間もない緊張と、霧島がどのような扱いを受けているのか分からない恐怖で心臓が喉元までせり上がってきたような気までする。  気付けば冷や汗をかいた手指まで震えていて、強く握り締めるも止まらない。  あれから何もできないまま無為に約半日が経ってしまった訳だが、しかし霧島が命を奪われているとは考えていなかった。衆人環視で有名人の『霧島カンパニー次期本社社長と名高い霧島忍』を朱美は連れ出させたのだ。  おまけにこれも皆、霧島が『自社にまで踏み込む正義漢で警察官の鑑』だと知っている。  これで霧島が行方不明になったり、最悪の事態として遺体で発見されたりすれば、真っ先に疑われるのは朱美だ。他人を貶めて自分を高みに押し上げる嫌なタイプの女性ではあるが、まず霧島の身に害を加えはしまい。そういう損得は働くだろう。  それでも他人を貶めたがる人種だ。プライドの高い霧島がどんな目に遭っているのか。それを考えると居ても立っても居られない。これは京哉と霧島の関係を察知したかのように効果的すぎる嫌がらせだった。  嫌がらせである以上、やはり霧島が丁重にもてなされているとは思えず、また思考はループに陥って心配と恐怖が胸で膨れ上がる。  感情が伝染したのか着替え係たちは京哉に白布を巻いた神剣を持たせると、憂い顔で消えた。独りになった京哉は二階に与えられた自室に戻ってみる。そして置きっ放しだった携帯を手にして霧島の携帯に連絡を入れるも、当然ながら返事はない。  不安で堪らなくなって霧島の替えのスーツの入ったガーメントバッグを開けてみたりした。霧島の匂いの残滓を求めて暫くスーツを抱き締めていたが、それで心配が薄らぐ訳もない。仕方なくキッチンに戻ってみる。するといつ帰ってきたのか安里がまた煙草を吸っていた。京哉を見るなり煙草を消して立ち上がる。 「霧島さんに会いたいんだろう、本家に行こう」  神剣を持った京哉は玄関で素足に草履を履いて安里に従った。隣に建つ本家も二階建てだが規模が違った。四畳はある玄関を上がると幅が二メートル以上ある欅の階段を上って二階に向かう。廊下を歩いている間、何度も使用人らしい着物の女性とすれ違った。  延々と廊下を進み、一番奥まった部屋のふすまを安里が開ける。そこは十畳ほどの和室で真ん中に大きな漆塗りの黒い座卓があった。座卓の上には霧島の携帯とシグ・ザウエルP226が二丁にスペアマガジンパウチがふたつ置かれていた。  思わず飛びついて手にしたかったが、座卓と京哉の間に男が四人、あぐらをかいて阻んでいる。四人は霧島を連れ去った男たちだった。  だからといって男らを撃ち殺したい訳ではなく、単純に霧島のものを本人に返してやりたいだけだったのだが、このシチュエーションで京哉が銃を手にすることが許される筈もない。じっと京哉が銃を見つめていると溜息に載せて安里が男らに言った。 「霧島さんに会わせてやってくれるか?」  男二人が軽快に立ち上がって室内にあるふすまを左右にスライドさせる。すると廊下からも入れない小部屋が現れて、その中を見た京哉は息を呑んで目を瞠った。  そこには異様な光景が展開されていた。六畳の小部屋には鋼鉄の檻があったのだ。 「忍さん……まさか、忍さん!」  二畳ほどもある巨大な鋼鉄の檻の中にいたのは霧島だった。思わず駆け寄ると神剣も放り出して檻に縋る。こちらもあぐらをかいていた霧島が押し殺したような溜息をついて移動し、檻の隙間から京哉に手を差し出した。  誰よりもプライドの高い霧島を座敷牢に押し込められ、京哉は本気で眩暈がするほどの怒りに駆られ、耐えきれずに涙を零す。 「忍さん、すみません……こんな、こんなことまで」 「お前が悪い訳ではあるまい。透夜、もう謝るな、泣くな」  そう言いつつも霧島本人が揺らめくような怒りのオーラを立ち上らせていた。灰色の目を煌かせ、細胞のひとつひとつから絞り出すかのような怒りの波動が伝わってくる。躰は無傷でもプライドを傷つけられた霧島の心の痛みを感じて京哉の涙は止まらない。  そこに新たな気配が近づいてきて、京哉は手の甲で乱暴に目を擦ると振り向いた。やってきたのは朱美とその夫に宮司だった。朱美は余裕の笑みで手を握り合った二人を見下ろしていたが、夫と宮司は目を瞬かせ落ち着きがない。  それはそうだろう。単なるSPではなく霧島カンパニー会長御曹司をこのような目に遭わせていると自覚しているのだから。  こちらも怒りが閾値を超えてしまった京哉は却って平坦な口調で言った。 「忍さんをここから出して下さい」 「それはあんたが神事と託宣をするって約束してからよ」 「僕に神通力は戻ってません。千里眼は失ったまま……それでも良ければやります」 「あら、皆の前で恥をかいて御劔神社の最期を飾ってくれる訳ね?」 「そんなもの、どうでもいい! 今すぐ忍さんを出して! そうでないと……」 「な、何よ?」 「千里眼が戻った暁には、貴女がたのことを真っ先に占います」  誰かは笑いだすかと思ったが誰も笑わなかった。ただ明らかに腰の引けた宮司と夫の陽一に苦々しい表情を向けながら、朱美が着ていた巫女装束の胸の合わせから赤い薬包紙の包みを出して京哉の足元に投げた。そして更に棒鍵を出して振って見せる。 「神事に必要でしょう、その薬。飲みなさい。そうしたら檻の鍵を開けてあげるわ」
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