第8話

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第8話

「今から天根(あまね)市なんて遠くまでどうして……ああ、もしかしてあの薬屋さんの情報屋さんに行くんですか?」 「そうだ。少々遠いが我慢してくれ」   白藤市を挟んで真城市と反対側の海側が貝崎(かいざき)市、その南に天根市はあった。 「高速を使えば一時間半と掛からんと思うが、それよりお前、大丈夫か?」 「ん……良く分からないんですけど、たぶん」  何だか茫洋とした京哉は心配だったが、もし自分たちが柏仁会に狙われている事実があるのなら、一刻も早く真相を掴んでおかなければ文字通り命取りになる。  だが京哉は身を寄せるだけでなく霧島の腿を撫で始めていて霧島はもぞもぞした。  それでも何とか予定通り一時間半後には天根市内のオフィス街の裏通りまで辿り着く。外灯も間遠な中、目的の薬屋はシャッターを三分の一だけ上げていて、黄色っぽい明かりが洩れ出していた。タクシー料金を払うと霧島は京哉の左手を握って降車させる。  二人してコートを羽織ると、白い息を吐きながら薬屋に近づいた。 「おーい、邪魔するぞ!」  大声を出しておいて霧島は返事も待たずに勝手にシャッターを上げ、二人して足を踏み入れてシャッターを閉める。店の主は薬のショーケースをテーブル代わりに何やら作業中だったが、二人を見て手を止めた。相変わらず姿を見ても驚いた様子はない。 「おや、霧島の旦那に美人さんじゃありませんか」 「暫くだな。何かネタが入っていないか、寄ってみたんだが」 「最近はこれといって入ってないですねえ」  言いつつ薄汚れた白衣を羽織った親父は作業を再開する。 「ただ、えらく高級なブツが少しばかり流れ込んでいるくらいですかね」  と、手を上げてピストルを撃つふりをし、また作業に戻った。 「それ、何処の組か分かるか?」 「いえ、あたしもそこまではまだ……」 「では柏仁会に動きはないか?」 「何ですか、旦那も人が悪い。知ってるなら知ってると言ってくれてもいいじゃないですか。まあ確たる話じゃありませんが、ブツを流しているのは柏仁会じゃないかってあたしも睨んでたところでしてね。あそこは海外マフィアとの繋がりも深い」  けれど柏仁会が警察官二人を弾こうとしている、などという話は流れていないらしい。無駄足だったことにホッとしながら親父の作業をじっと眺める。  親父は薬瓶に毒々しいような赤い薬包紙の包みを詰め込む作業を続行していた。 「何だ、それは?」 「ああ、これは漢方薬でしてね。一包で十万円を下らない高級品ですよ」 「一包で十万だと? 違法な代物ではないだろうな?」 「違います、真っ当な商売ですよう!」  そう言って親父は包みをひとつ開けて見せる。真っ赤な薬包紙の中身の粉はもっと赤かった。親父は自分の人差し指を舐め、その粉をつけてぺろりと舐めるとニヤリと笑った。 「滅多に流れてこない代物なんですがね、旦那方もどうです?」  一包十万と聞いて舐めてみる気になったのは御曹司といえども健在な、しがない官品根性である。霧島が舐めるのを見て京哉も親父のツバがついてなさそうな所を舐めてみた。  薄甘い味の赤い粉を呑み込んで一呼吸した途端、京哉は己の変調を知る。ずっと感じていた躰の芯の炎が爆発的に燃え上がった気がした。  吐息と共に甘い声を洩らしてしまいそうで思わず霧島の手を握る。その温かさが愛しすぎて切なさに泣き出したくなった。 「どうした、京哉? 京哉!」 「大、丈夫……何でも、ありません」 「そんな目をして何でもない訳がないだろう!」 「おや、美人さんにはかなり効いたみたいですね」 「何なんだ、この薬は! 解毒剤はないのか!」  詰め寄る霧島に親父はたじたじとなり、身を縮めて説明する。 「悪戯が過ぎましたか。これは上流階級者御用達の『九天(くてん)』という媚薬ですよ」 「媚薬だと?」 「そうです。枯れたあたしにも旦那と美人さんが大変美味しそうに見えてますよ。それにしても旦那は効いてないんですか? これが効かないなんて、何て頑固な」 「大きなお世話だ。本当に解毒剤はないのか?」 「毒じゃないですからありませんよ。敢えて言うなら一晩という時間か、旦那ご自身が解毒剤といったところで……ととと、これは下世話なことを申しました」  ニヤニヤ笑う親父を前に、溜息をついた霧島は京哉の手をしっかりと握り直した。 「もういい、分かった。今日は失礼する」 「お気をつけてお帰り下さいね」  まだ笑みを含んだ声を投げる親父に背を向け、霧島は京哉の手を引いてシャッターを上げ、京哉をくぐらせると自分も外に出る。そのままぐいぐいと歩いて表通りに出るとタクシーを捕まえて帰途に就いた。  だが京哉は相当つらいのか、それとも気持ちいいのか知れないが、とにかく我慢しているようで吐息を不規則にしている。その吐息も甘く熱く、つまりは夜の営みを思わせるもので、またしても霧島はもぞもぞするハメになった。  京哉自身も抑えていたのだろうが我慢も限界に来たか、腕を抱かれて頬を擦りつけられ、さらりとした髪を押し付けられて霧島も堪らなくなる。 「京哉、本当に大丈夫か?」 「大丈夫なんかじゃありません、切ない……欲しい、貴方が欲しくて死にそう――」  タクシーのドライバーが前方よりルームミラーに気を取られるに至って霧島は一旦降りることにした。真冬の夜風を浴びたら京哉の熱も多少は冷めるかと思ったのだ。丁度高速を降りて真城市に入りマンションまで歩いてでも何とか帰れる距離である。  住宅街で京哉をゆっくり歩かせながら様子を見た。俯き加減で歩を進める京哉は霧島の手を離さない。その手に力がこもり京哉がぶつかるように霧島に抱きついた。
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