文庫パンの彼女

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 一人暮らしのアパートから徒歩10分、昼下がりの下北沢の駅前広場は、買い物客でそこそこ賑わっていた。チェーンのカフェの店内は満席で、僕はカフェオレをテイクアウトして、広場から少し離れた緑道にあるベンチに腰掛けた。  なんとなく視線を感じてそちらへ目をやると、電信柱の陰にさっと何かが隠れた。しばらく見ていると、丸メガネがほんの少し現れ、こちらを覗いた。 「あっ」と僕が気づいて指をさすと、彼女は観念して、罰が悪そうに姿を現した。さきほどパンをくわえていた女子中学生だ。駅とは逆方向にすれ違ったのに、ここにいるということは、あとをつけてきたのだろうか。 「あの、何か?」  僕は極力冷静を装って、彼女に尋ねた。すると彼女は逆に尋ねてきた。 「もしかして、小説家さんですか?」 「えっ?」 「違いますか?」 「しょ、小説家と名乗るほどの者ではないけれど、一応小説は書いてますが……」  意外な問いかけに動揺した僕は、中学生相手に敬語になりながら答えた。 「やっぱり、そうだったんだ」  女子中学生はにっこり笑って、いつの間にか隣に座っていた。 「でも、どうしてわかったの?僕が小説を書いているって」 「これに反応してましたよね?」  彼女は、ターコイズブルーの紙袋から先ほどの文庫パンを取り出した。小麦の香りがふわっと広がり鼻腔をくすぐった。間近で見ると、そのパンは益々文庫本に見えた。しかも、凄く美味しそうな文庫本。具材を層状に重ねた本体を、別の生地で焼き上げた表紙カバーがくるんでいた。表紙には何やら文字や図柄が焼き印してあった。やはり意図的に本に似せて作られたパンだったのだ。 「ペンギンブレッド文庫?」  僕は焼き印の一部を声に出して読んだ。 「そうなんです。ペンギンブレッドっていうパン屋さんの人気商品です。さっき原宿のお店で買いました。パンの味は小説のジャンルみたいに色々ありますよ。私が買ったのは、アップルとカスタードクリームが入った恋愛物と、鯖と海苔をサンドした時代小説、あと中身は食べてみてのお楽しみのミステリーです」  女子中学生が時代小説を読むのか。渋いな。  いやいや、今はそこではない。 「文庫本みたいなパンに興味を持ったからといって、小説を書く人とは限らないよ。単に読書好きな人かもしれないし」 「読み専の読書好きさんなら、本を見たらもっと楽しそうな顔をします。自分で書いてる人の表情は、ちょっと複雑というか……」 「ちょっと暗くてつらそうな感じだったんだね。僕の場合は……」  僕は自虐的に彼女の言葉の後を続けた。実際、彼女の言うとおりだった。何年間も書き続けているうちに、僕は自分の才能の無さを嫌と言うほど自覚させられ、誰かが書いた小説を純粋に楽しむことが出来なくなっていたのだ。
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