文庫パンの彼女

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 文庫パンの彼女と不思議な遭遇をしてから一ヶ月が経った。年末、僕は上京して初めて熊本の実家に帰った。  相変わらず痩せ気味で青白い僕を見るなり、母親は、「ちゃんと食べてる?」と、口癖みたいになっている言葉をかけた。基本無口な父親は、夕食の時、少しほろ酔い気分で、「小説、まだ書いてるのか?」と珍しく聞いてきた。僕は「うん」と頷くだけで、土産話を何も報告できないのが歯痒かった。  夕食を終え、上京する前のままになっている自分の部屋に入った。僕はスマホのメモ帳を開き、寝転がって書きかけの小説の続きを考えた。以前は、書いてるうちに登場人物たちが勝手に動き出して、物語が創られていく感覚になることがあったけれど、最近はさっぱりで、筆の進みも遅かった。    ふと、机の下の段ボール箱が目に入り、気になって引っ張り出した。数冊の漫画や雑誌の下に、昔書いたプリントアウトした原稿の束がいくつも埋まっていた。中には、まだ書き始めたばかりの中学生の頃の、小説と呼ぶには拙すぎる原稿もあった。パラパラ捲っていると、あるタイトルが目にとまった。 『パラレルな曲がり角』  曲がり角なのにパラレルって、どういうこと?  中学の時に書いたものらしかった。どんな物語だったか、すっかり忘れてしまっている。冒頭から読んでいくと、クラスで一番の美少女に、主人公の男子生徒が、偶然出会った曲がり角で何度も告白する話だった。いわゆるタイムリープの能力が備わったらしい主人公が、過去に遡って、失敗を繰り返しながら告白を成功させようとするのだ。実は主人公はタイムリープしていたのではなく、幾つものパラレルワールドを渡り歩いた末に、ようやく告白が成功する世界にたどり着いたのだった。けれども、その世界は主人公と少女と曲がり角以外は全くの別世界で、すべての恋愛が法律で処罰されるディストピアだった……。  なんだかややこしくて暗いストーリーだけれど、読み返してみると、登場人物は生き生きと描かれていて、大学生の自分が今書いている小説より、よっぽど読み応えがあった。  物語の終盤に、動揺する主人公を気にかける同級生が登場した。丸メガネをかけた読書好きな女の子だ。彼女は休み時間、いつも何かしらのパンをくわえている。本と同じくらいパンが好きなのだ。そして元気のない主人公にこんな言葉をかける場面が書かれていた。 「大丈夫、本とパンさえあれば生きてゆけるから」    僕はようやく、自分が小説を書いている本当の理由を思い出した。それは、僕が僕なりにこの世界を生き抜くために見つけ出した手段だった。生き生きとした登場人物を書き続けていれば、いつかどこかで彼らの中の誰かに出会い、言葉を交わせる日がやって来るかもしれない。そんな子供じみた夢を、今でも秘かに心の奥に隠し持っていたのだ。  あの曲がり角で出会った彼女は、そんな夢を初めて叶えてくれた僕が作り出した登場人物の一人なのだろうか。  真実は誰にも分からない。なぜなら、それを確実に見極める術など、誰も持ち合わせていないのだから。    でも、一つだけはっきり言えることがある。それは夕食を終えたばかりの僕が今、無性にあの文庫パンを食べたくなっているということだ。
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