第15章 わたしの好きな無駄なこと

1/11
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ

第15章 わたしの好きな無駄なこと

高橋くんが運転手に告げた『サンチャ』とは、三軒茶屋のことだった。それならわたしも一応ぼんやりとなら聞き覚えがある。 もっとも東京のどこら辺に当たるのかとか、どういう雰囲気の街なのかとかまではもちろん知らない。だって百年も前にとうに失われたとばっかり思ってた場所が。どんなタイプの人で賑わっててどういう特色があるかなんて、考えてもしょうがないし虚しいとしかそりゃ思ってなかったからさ…。 「そうか、三茶知らないんだ。まあそうだよね、関心なけりゃそんなところまでは…。シモキタとか三茶、割と若い人に人気あるよ。住むと別に結構普通の街だけどね」 神崎さんが元気な声で遠慮なく喋る。わたしがあまりにもものを知らないことがタクシーの運転手さんに不審に思われないかな、と内心はらはらした。今回は高橋さんが助手席で神崎さんが後部座席でわたしの隣だから、前の席からわざわざ振り向いて大声で話しかけられるよりはまだましだけど。 「神崎さんも。そこに一緒に住んでるんですか?」 少し声を落としてそう尋ねると、彼は当然のように頭をぶんぶん横に振ってきっぱりと否定した。 「いやぁまさか。上司と公私ともずっと常に一緒とか、地獄もいいとこでしょ。ちゃんと俺は別んとこ住んでるよ。三茶はちょっと、家賃もいいしね。世田谷線って電車が出てるからその沿線に部屋借りてる」 東京や新宿や渋谷は部屋代高いって言っといて。三軒茶屋も結局高いんだ。 あとで高橋くんの説明を聞いたら、高さのレベルが違う。とは言ってたけど。 あんまりまだぴんと来ないが、東京に限らずだけど土地には値段がついてて、どの電車の路線沿いなのか最寄りの駅はどこかって条件により価値は変動するらしい。そもそもお金で何かを買うとか対価を得るっていう感覚を身につけないと、現代日本の文化に慣れるのはなかなか難しそうだ。 道が空いてたせいもあったらしく(混んでるときはどんな状態なのか、わたしには想像もつかない。見た感じ今日の道路は普通に車でいっぱいで、充分混み合っているように思えた)、タクシーは20分ほどで無事に三軒茶屋駅に到着した。 そこで降りるのかと思ったら、助手席の高橋くんがあれこれと運転手さんに指示を出してさらに車は進む。このために彼が前の席に座ったんだな、とわたしはそこで理解した。 ぴかぴかの見上げるような大きな高い建物の前にタクシーは乗りつけて停車した。自動でくわん、とドアが開いて怯んでるわたしに神崎さんが車から降りるよう促す。 会計を済ませた高橋くんもあとから降り立って、程なくしてタクシーがエンジン音をかけて走り去る。一方でそちらに背を向けて立つわたしはぼうっと建物を見上げ、高橋くんはこんなところに住んでたのか。と心底つくづくと思い知った。 「すごい、立派なおうち。何階あるんだろ…」 「いや言うまでもないけど。この人がここの上から下まで全部借りてるわけじゃないよ?」 神崎さんがちょっと心配そうに口を挟む。そりゃそうだろ。 「さすがにそれはわかってますよ、いくらわたしがもの知らずでも…。つまりこれはマンションというもので、集合住宅の一種でしょ?うちの集落でもちゃんと集合住宅はあったから。この中の一世帯を借りて住んでる、ってことですよね?」 「正確には借りてるのは事務所だけどね。仕事場を借りてそこに住み込んでるって形」 横からひょいと高橋くんが言葉を添える。…なるほどね。 うぃん、と自動ドアが開いてわたしたちは建物の中に足を踏み入れた。 「ふわぁ本当に久しぶりだぁ。…郵便受けどうかな。カンちゃん、郵便物ときどき整理してくれてた?実は結構溜め込んでない?」 そう言いつつずらりと並ぶシルバーの金属製の四角い箱が取り付けられた壁の方へと向かう。自然光が取り入られた天井の高いホールのような空間はエントランスといって、マンションの玄関みたいなものだ。というのはあとで高橋さんから教えてもらった。 わたしはその広々とした空間をため息をついて見回す。 「新しくてきれいでお洒落な建物ですねぇ。こんな素敵なとこに住んでたんだ、高橋くんて…」 彼はまるで自分の棲家になんの感慨もないみたいで、がちがちがちと大きな音を立ててダイヤルを回したあとにぱかんと銀の箱の一つを開け、中をがさがさと漁りながら平然と言い返してきた。 「そうかなぁ?別に全然新しくもないし。実際ここ、築二十年以上の代物だよ。見た目はきれいにしてあっても中身はそこそこがたが来てるけどね。だからこの辺りの物件としてはだいぶ割安なんだよね」 何気なく言われた言葉に価値観の違いの重さを実感する…。 「二十年で古いんだ…。うちの集落なんて、それより新しい建物多分ないよ。みんな戦後しばらくしてから建ってるわけだから。築六十年くらいはまあ普通だもん…」 そこはかとなく落ち込むわたしの方を振り向いて、高橋くんは明るい声ですかさずフォローした。 「集落はこことそもそも哲学が違うから。基本的な考え方が全然違うよ。あの石造りの建物はずっと長い時間、それこそ百年以上も手直ししながら丁寧に使い続けること前提のものでしょ?」
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!