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2.
「あ……いいえ。まだ」
彼女とは大学の四年間を通し、同じサークルでつきあっていた仲だった。何度もデートもしたし、彼女の部屋に泊まり込んだことも一度や二度ではない。
仲が急に冷え込んだと感じたのは今年のゴールデンウィーク辺りからだった。
彼女は大学を卒業と同時に大手メーカーに就職し、一般職として働き始め、どうやら、先輩社員に見初められたらしかった。最初はもちろん、わたしもそんなことに気付かず、普通に彼女と付き合いを続けていた。それが、段々と、距離を感じるようになったのは、二人で食事に行く店の格式が上がり、飲みに行くときのお酒も学生時代のビールに焼酎から背伸びして高級ワインに変わり出したのを実感したときだった。
単純なわたしは、彼女が社会人になり給料がもらえるようになったからだと、ただ漠然と考えていた。が、その考えが甘かったのに気付くのに時間は掛からなかった。
六月のある日曜日の夜、彼女からわたしの携帯電話にメールが入ったのだ。
――別れて欲しい。
ただそれだけの文面だった。
わたしはうろたえ、すぐに彼女の携帯に電話を入れたが、取ってもらえず、メールも無視された。直接会って真意を確かめたいと思い、彼女の勤め先の近所まで行ったこともあったのだが、その直後、警察から「ストーカー規制法」に基づく警告を文書で受けてしまったのだ。もう救いようがない事態だった。
そして、共通の女性の友人を通して、彼女が会社の先輩と付き合っているということを知らされた。
「だって、奈実が付き合っている相手は幹部候補生なんだよ。二十八歳にして年収六百万もあるみたいだよ。片や月五万円のアルバイトをしている大学院生。勝負になんないわよ。あきらめたら?」
友人はそう言った。わたしは一言も反論できなかった。
研究だって順調とは言えない。このまま続けていたって、学会発表できるかどうかすら怪しいのだ。学会発表できなければ、修士の学位論文すら通らない可能性があるのだ。とにかく、今のわたしはあらゆる面でやばかったのだ。
――アルバイト削ったら?
と、指導役の先輩からも言われていたくらいだ。実験をやっても思った通りの結果が出ない。焦る。余計に訳がわからなくなる。基礎となる理論さえもが揺らいでくる。そんな研究地獄のまっただ中にいた。
このとき、唯一の支えは恋人である奈実の存在だけだった。その彼女すらわたしの元から遠ざかって行ってしまったのだ。その晩、わたしは、やけ酒に安い焼酎をがぶ飲みし、次の日、大学を欠席し、下宿でげえげえ吐いた。
そんな顔色で学食に顔を出したら、おばちゃんに見とがめられた。
「ちょっと、どうしたのよ? 顔色悪いわよ。二日酔い?」
「え、ええ、まあ」
「何かあったの?」
わたしは、正直に自分の置かれた状況を説明した。おばちゃんは水を持ってきてくれ、時間を掛けてわたしの話を聞いてくれた。学食は昼休み以外には暇なのだ。研究の合間を縫って頭を切り換えに来る大学院生しかいない。
その中で、おばちゃんが高松出身だと聞いた。かの国にはお遍路さんなるものがあって、弘法大師空海の修行した跡をたどりながらお寺を詣って回ると功徳があるという。悩みなんかも癒やされるという。
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