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『遅くなってごめん』
彼がまたこちらを見た。
だけど、やっぱりその視線は私を通りすぎていく。
「遅いな…」
彼の呟きが聞こえた。
スマホを忘れてきたことに気づいて、どうしようもないほどの無力感に泣き出したくなった。
いつも見守ってくれた彼が私を見失ったら、いったいどうしていいのかわからない。
他に何か 知らせる方法は…
待ちくたびれた彼が、木の幹に寄りかかった。
梢のてっぺんの影が先週よりも長く伸びている。夕方の涼しくなった風にその影が揺れて、地面に踊る。
彼のすぐそばでは、キャッチボールをしている親子がいた。
父親に付き合わされているみたいだが、グローブでボールを受ける小気味良い音が辺りに響いている。少年も父親との時間を楽しんでいるようだ。
自分の小さい頃を思い出した。
私は今よりずっと活発で、いつも暗くなるまで近所の子どもたちと、サッカーボールを追いかけていた。もちろん健太朗とも一緒だった。汗と泥にまみれた格好で帰るたびに、母親に呆れた顔をされたものだ。
あの頃は健太朗のことも自分のことも大好きで、悩みなんて何もなかった。
いつからこうなってしまったんだろう。
少年が父親の返球を取り損ねて、ボールが健太朗の足元に転がった。
「すみませーん」
彼は笑ってボールを拾うと、少年に投げ返した。
パシッ
気持ちのいい音がして、ボールがグローブに収まった。少年は被っていた野球帽を少しだけ掲げてお礼を言うと、笑顔の彼に手を振った。
父親にまたボールを投げると、それがグローブにすうっと消えるように飲み込まれ、立ち込める霧で辺りも真っ白になった。
健太朗の姿も見えない。
遠くから目覚まし時計のアラーム音が聞こえてくる。
朝…?
私は手を伸ばし、アラームを止めた。
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