あの土曜日からはじめよう

6/8
前へ
/8ページ
次へ
泣き疲れてベッドに座り込んだまま、窓から射し込む光を見つめていた。 あの場所に行けば彼に会えることはわかっている。 だけど、この姿で行く気にはなれなかった。 元の自分に戻ってしまったのだ。 彼に近づけたと思ったのに。 彼に受け入れてもらえると思ったのに。 (よど)んだ空気のせいで思考に(もや)がかかる。息苦しさを振り払うために窓を開けた。 降り注ぐようだった蝉の声も、(まば)らになってきていた。夕焼けにはまだ間があるが、日中の暑さはもう和らいでいて、明日から月が変わることがはっきりと感じられる。 このまま9月になっても また前と同じ毎日が待っていて 私はずっと 何も前に進めないままで 「…そんなの、嫌だ」 思わず呟いた。 『会いたい』 私の深いところからあふれてきた気持ち。 それが、たったひとつの私の願いだった。 だけど─ 彼に相応(ふさわ)しい魅力的な女性の姿になっても、彼は私を選んではくれなかった。 私には もう何も残っていない 『僕は君をずっと待ってるから』 健太朗の言葉を思い出した。 確信がゆっくり私の中に降りてきた。 …行かなきゃ 彼の大切な話を聞きたい この気持ちを伝えたい 彼はきっと、私を待っていてくれる。 私は立ち上がって、また走り出した。 公園の木陰に彼が佇んでいる。 私を見つけて笑顔で手を振った。 よかった 私が見えるんだ 私も小さく手を挙げて応えると、彼のそばへ行った。 「遅くなってごめん」 「来てくれたからいいよ」 「…私、また元に戻っちゃった」 穏やかな微笑みに、私も両手を広げて力なく笑って見せた。 「うん。でも…」 腕を伸ばして彼が私を抱きしめた。 愛おしそうに、ぎゅっと強く。 「この姿の君に、会いたかった」 彼の声が耳元で囁くように伝える。 「な、んで…」 (かす)れる声で私は尋ねた。 「やっと気づいたんだ。そのままの陽向(ひなた)が好きなんだってことに」 私は思わず彼のシャツを握りしめた。 彼は自分に言い聞かせるようにゆっくり私に告げた。 「君がどんな姿でも愛おしいと思うよ。だけど、やっぱり陽向は陽向でなきゃ」 「健ちゃん…」 「ごめんな。時間かかって…」 私は黙ってかぶりを振った。 嬉しくて久しぶりに笑みがこぼれた。 彼は優しく私を抱きしめて、キスをしてくれた。 腕の中で、私は目を閉じて彼の胸に頬を(うず)めた。 ありのままの自分の姿で彼といられることに、この上ない幸せを感じながら。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加