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5年間付き合っていた彼氏に別れを告げた。何度も浮気をされて、その度に別れようとしたけれど、結局俺のところに戻って来てもう二度としないと謝ってくるから絆されて関係を続けてきた。でも、もう限界だった。俺の中であんなにも熱く燃えていた炎はもう消えてしまった。
ぼんやりと歩いているといつの間にか夜景が見える人気のない場所に来ていた。せっかくの美しい夜景が涙で霞む。
好きだった。いつか俺だけを見てくれると思っていた。それなのに……。
「浮気すんなら分からないようにしろよ。詰めが甘いんだよ。何回裏切れば気が済むんだよ。俺はお前の何だったんだよ……」
涙が次から次へと溢れてくる。
「くそー、俺の5年間返せー」
人がいないことをいいことに泣きながら思いっきり叫んでやった。グズグズと鼻を捩る。叫んだら少しスッキリした気がする。
「あのー、うるさいんですけど」
突如聞こえてきた声に驚いて「うわ」と声を上げてしまった。あたりを見回すと、後ろのベンチからのそりと人が立ち上がった。
えっ、いつの間に?さっきからいた?もしかして見えてはいけないもの……!?心臓が早鐘を打ち、背筋が凍る。男がゆっくりと俺に近づいてきた。怖くて後退りすると「大の大人が何叫んでるんですか?頭痛いんすけど」と言われた。
「ここ人いないですもんね。酔い覚ましてたら急に声が聞こえてビビりました」
「すみませんでした……」
「めちゃくちゃ泣いてましたね」
穴があったら入りたいというのはこういう時に言うのだろう。本当に恥ずかしい。
「あー、お恥ずかしい」
「5年ですか。何度も浮気されたんですか?」
「すみません、忘れてもらっていいですか」
傷口に塩を塗るのやめてほしい……。
「忘れらないです。酷いですね」
距離を詰められて顔をじっと見つめられた。驚くほどに整った顔立ちをしている。
「俺、お兄さんの顔めちゃくちゃ好みだな」
「はぁ?」
「慰めてあげましょうか?」
「いや、間に合ってます」
踵を返して全速力で走った。あんなこっ恥ずかしい姿を見られて、しかも見ず知らずの若者に「はい、お願いします」と言うと思うのか!?何なんだ、あの男は。どうやったらあんなセリフが出てくるのか……意味がわからない。
立ち止まって後ろを振り返る。大丈夫、誰もいない。おかげで涙は引っ込んでしまった。「帰ろう……」一人呟いて家路についた。
しばらく経って引っ越しをした。前の家には彼と過ごした思い出が多すぎて辛くなったのだ。ついでにいろいろ処分して買い替えたりもした。新居を見回してごろりと床に寝転んだ。連絡先も消したし、引っ越しもした。もう彼と繋がるものは何もない。
「なんかスッキリしたな」
沈んでいた気持ちが少しだけ上を向いた気がした。
さて、挨拶でもしようかな。そう思って部屋を出たけれど見事に誰もいなくてすぐに部屋に戻ってきた。まぁこんなものなのかな。
気を取り直して蕎麦の準備をし、一人で啜る。
そういえば明日新しい人が入ってくると言っていたな。部長肝いりの人らしく宜しく頼むよと背中を叩かれた事を思い出してげんなりする。
「おはようございまーす」
いつもよりオフィスがざわついている。何となく耳を傾けると、新人を見たという子達が超イケメンだったと騒いでいる。なるほど、そりゃあざわつくよね。
コーヒーを淹れてデスクに戻った。熱くてすぐに飲めず、フーフーと息を吹きかけていると部長の声が聞こえた。あぁ、イケメン様のお出ましか。
立ち上がって部長の隣に立っている男を見る。確かに女子が騒ぎたくなるような男だ。何故か俺の方を凝視してきた。その視線に熱がこもっているような気がするのは気のせいだろうか。挨拶を終えると部長に連れられて俺のところに来た。やっぱり俺かー。
いろいろ説明してやってほしいと言われて、めちゃくちゃ面倒くさい気持ちを押し隠し笑顔を貼り付けた顔で「はい」と答える。
「山本です。宜しくお願いします」
「伊藤です」
「んー、とりあえずオフィスの中案内しましょうか」
「お願いします」
説明を終えて、最後に給湯室へ案内した。
「自分のものには名前を書いてね。あと……」
「俺の5年間返せーでしたっけ?」
「はい?」
「あの時大声で叫んでた言葉」
あの時……。
霞んだ夜景と若者の姿がフラッシュバックする。にこやかに言う彼の顔があのときの若者と重なった。
「あああ……あのときの!?」
「まさかこんなところで再会できるなんて思わなかったなー」
ジリジリと壁に追い詰められる。顔は笑ってるけど目が笑ってなくてめちゃくちゃ怖い。
「分からなかったですか?俺はすぐに分かりましたよ?ずっと会いたかったんで」
「ごめん、雰囲気が違ってて全然分からなかった」
「まぁ、いいです」
「そろそろ戻りましょうか」
一刻も早くこの場から立ち去りたいのに彼がそれを許さない。
「慰めるっていうの諦めてませんからね?」
「いや、ほんとに俺はもう元気なので。大丈夫です」
「今日飲みに行きましょうよ。親睦を深めたいです」
「いやー、今日はちょっと……」
「じゃあ明日」
「あぁ、明日もねー」
「明後日は部の飲み会でしたね」
「そうですね……」
「楽しみですね」
「ハハハ」
全然楽しみじゃない。あの時の事をうっかり漏らされでもしたらと思うと気が気でない。
と思っていたけれど、職場内でも普通だし飲み会でも話のネタにされることはなかった。
よかったと安堵して、二次会へ行くメンバーと別れた。
隣には浮かれた顔をした彼、伊藤くんがいる。方向が同じだという事で仕方なく一緒に帰る事になったのだ。
「方向が同じだなんてラッキーだな」
「二次会行かなくてよかったの?」
「山本さんがいないなら行く意味ないんで」
「あっそ」
電車に揺られている間もニコニコと俺の顔を見てくる。
「はぁ、やっぱり好きな顔だな。かっこいいなー」
うっとりとした表情で見つめてくる彼を一瞥する。
「そりゃどうも。俺、次の駅なんで」
「俺もです」
最寄り駅も一緒かよ……。嬉しそうな顔がさらに輝きを増す。
「俺、こっちなんで」
「俺もです」
「ほんとに?」
「ほんとですよ。ご近所さんだったんですね」
声が弾んでいる彼と仕方なく一緒に歩く。家に着く前に彼と別れることができますように。
「俺、ここなんです」
彼が立ち止まったマンションは俺のマンションで……嘘でしょ?
「どうしました?」
「……いや、何でもない」
どうしよう、とりあえずここじゃないふりをしよう。
「じゃあ、俺はここで」
「あれ、ここじゃないんですか?」
「ん?」
「あっ、いやあの……」
「何?」
「なんでもないです。おやすみなさい」
彼を見送ってため息をつく。まさか同じマンションだったとは。ちょっと時間潰して帰るか。
近くのコンビニに行き、お菓子を買って来た道を戻る。
マンションのエントランスに入ったところで「やっぱりここじゃないですか」と言う声が聞こえた。振り返るとニッコリ笑う彼がいてギョッとする。
「何してんの?」
「確認です。待っててよかった」
「確認って……」
「山本さんには運命的なものを感じるので」
「はい?」
「山本さん、もし部屋が隣同士だったら俺と付き合ってくれませんか?」
何を言い出すんだこの男は。まぁ、でもそんな事あるわけがないよな。何戸あると思っているんだ。
「いいよ」
「言いましたね?」
「男に二言はない。違ったら付き合うとか運命とか二度と言うなよ?」
「分かりました。楽しみですね」
エレベーターに乗り込んで階数ボタンを押す。同じ階……いやいや、隣同士なんてことありえないだろう。
「おぉー、隣同士でしたね」
隣のドアの前で立ち止まり嬉しそうに笑う。
「嘘だろ!?ほんとに?」
鍵を差し込んで扉を開けて見せられた。あぁ、間違いない……。
「いやー、まさかの展開でした」
「知ってたのか?」
「知りませんよ」
「知ってただろう?」
「社内恋愛って初めてだから緊張するな」
「人の話聞いてんのか?」
再び扉を閉めてこちらへやってきた。
「あっ、立ち話もなんですし、お邪魔してもいいですか?」
「いやいやいや……」
「大丈夫、何もしないから」
「いや、顔が怖い。目がギラギラして怖いって」
「おっといけない。山本さん見てるとつい……」
つい何だよ、怖いよ。
「今日のところはご遠慮頂いて。じゃあまた明日」
そう言いながらドアを開けて急いで入ったのだが、彼が閉まりかけたドアを掴んで体を滑り込ませてきた。
「ヒィッ」
「すみません、驚かせてしまって。どうしても俺の気持ちちゃんと言いたくて」
頷かないと一生出ていってくれそうにない。
「分かった。聞くよ」
「あの日、最初はうるさいなって思ったんです。でも、涙を流すあなたを見て雷に撃たれたような衝撃が走りました。一目惚れというやつです。この人を泣かせるなんて許せないと思ったんです。だから慰めてあげたかったのに、あなたは逃げた。すごくショックでした」
「いや、だってあんな姿見られたら誰でも逃げるでしょ」
「ずっとあなたに会いたくて。職場であなたを見たとき本当に驚きました。想いが強すぎて幻覚を見てるのかと思いました。でも、本物だった」
「そんなに?ここに住んでるのは本当に知らなかった?」
「このマンションに住んでるのは知ってました。昨日の朝偶然マンションから出ていく姿を見かけて。でも、どの部屋に住んでるかは知りませんでした」
「そうなんだ」
「最近隣に引っ越ししてきた人がいるのは知っていたのでもしかしたらと思って賭けに出ました。ごめんなさい」
「いや、なんかすごいね。あの日偶然会った君と職場が同じで家も隣同士なんて」
「運命感じちゃうでしょう?」
「うーん……?」
「俺は感じました。出会ってまだ日が浅いのにどうしようもなくあなたに惹かれてしまうんです。あの日俺の心にあなたが火をつけた。山本さんの事を泣かせたりしない。だから……」
真剣な眼差しに少しだけ心臓が高鳴った。
「付き合うよ。約束だし。好きってわけじゃないからそれでもいいなら」
「本当に?いいんですか?絶対に落としてみせますから」
「それは楽しみだ」
「じゃあ、早速体の方から」
「調子に乗るな」
「えー、もう準備万端なんですけど……」
「近い。ちょ……当ててくんな。家に帰って一人で抜け」
「恋人になってくれたじゃないですかー?」
「それを言ったらなんでも許されると思うなよ?」
「じゃあキスだけ。ほっぺにおやすみのチューさせてくれたら帰ります」
「はぁ、しょうがないな」
まあ、ほっぺにキスぐらいなら許してやるか。
「ありがとうございます!」
そう言って俺の唇に自身の唇を重ねた。
えっ、口!?唇を離そうとする俺の頭をがっしり掴んで離さない。
「ンッ……」
思わず少し口を開けてしまった。彼はそれを見逃さずに舌を挿入してきた。激しく舌を絡ませるキスをされて背筋がゾクゾクとしてくる。
「ハァ……」
ようやく離されて荒い息を吐いた。彼の情欲に濡れた瞳が一瞬見えたけれど、すぐに微笑みに変わった。
「じゃあ、おやすみなさい」
軽く額にキスをして、彼は部屋を出ていった。
あんなキスしておいて帰るのか?へたり込んで唇に触れた。気持ちよかった……。このまま抱かれてもいいと思った俺は、既に彼の術中に嵌ってしまったのかもしれない。
「ヤバい、トイレ行こう」
その後、彼から執拗に愛されて、その彼にズブズブと嵌っていくようになることをこの時の俺はまだ知らない。
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