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過去の後始末
義母が死んだから、借りていた機材の回収に来てほしいと連絡が入ったのは先日のことだった。
鈴木京子の金の出し方はものすごく、運んでいた機材の質も数も俺が今まで担当した個人客の中では群を抜いていた。流石に法人客とは違って、何往復もしなければならない、というレベルではないが、機材の回収作業はそれなりにしんどくなる。面倒くさいが、商売を始めて以降、最高の太客に対する最後の仕事なのでサボるわけにもいかない。
前の信号が黄色を示していたので減速させ、停止線のやや後ろで止める。斜め横にある公園で少年野球をしているのが見えた。何となく嫌な気持ちになったので、ハンドル横のディスプレイを操作してネットラジオを流してみる。
『リアルで価値ある楽しみを! この夏は一橋高原へ』
再度ディスプレイをタップしてラジオを消した。音は消えた。しかし脳裏をよぎった嫌な記憶は消えてくれなかった。
「夢作師なんか呼ばないで、って言ったでしょう!」
怒鳴り声。昨日俺に電話をかけてきた女の、2年前の発言。クラクションの音。ぼんやりしている内に、信号は青になっていた。後ろを向いて謝りたい気持ちをこらえて、アクセルを軽く踏む。しかし、視界がにじむ。慌てて指で目をこするが、涙は拭っても拭っても止まらなかった。感情を思うようにコントロールできない。危険と判断し、最寄りのコンビニに入って車を駐車させた。
息まで荒くなっているのを感じながら、目をつむる。何で、どうして、お義母さんがぼけたらどうするの。次から次へとかつて鈴木家で話されていた言葉の数々を思い出してしまう。
「大丈夫だ、大丈夫だ…」
顔の古傷を手で押さえながら自分に言い聞かせていると、数分後、ようやく落ち着けたので、再び車を動かし始める。何度も通った道なので、この先にまだ数件コンビニがあることは知っている。また発作的に泣き出したくなったら、そこに入ろうといつものように心に決めておく。
幸いその後は昔の記憶に苛まれることもなかったので、何とか訪問予定時刻に間に合わせることはできた。大きい平屋の玄関前に用意されているスロープをのぼり、インターホンを押す。はい、と男の声がする。
「石川です。機材の回収に伺わせていただきました」
そう言って10秒もしないうちに扉は開き、鈴木京子の息子、鈴木久志が応対してくれた。
「お待ちしておりました。御足労をかけてしまい、すみません」
「いえ、とんでもないです。この度はご愁傷様でございます」
ひとしきり挨拶をすませた後、中に入らせてもらう。長い廊下と応接間の一部が視界に入り、相変わらず豪勢な家だと嫉妬混じりに思う。作業を行うべく、2人で機材が置かれている奥の和室へと向かう。襖を開けるとい草のいい香りがした。仏壇の上の方を見てみると、刀を持った軍人の写真が飾られていたりもする数多くの遺影の中に鈴木京子の顔写真が加わっている。相変わらず口は真一文字に結ばれていて、まさに彼女の生き様を表しているかのようだった。
かなり広い和室なのに、VR用の機材、ベッド、仏壇、タンスと大きくて重たいものばかりが詰め込まれているので、動ける範囲はそれほどない。床の間には刀も仰々しく飾られている。これが本物か模造刀か、生前聞けなかったことが何となく悔やまれる。
「あの、お仏壇にご挨拶しても、よろしいでしょうか?」
やや踏み込みすぎているような気はしたが、鈴木久志は、ぜひお願いします、と快諾してくれた。仏壇の前に座り線香をあげ、りんを鳴らす。手を合わせながら、心の中でたくさん仕事をくれてありがとうございました、と礼を言う。
「向こう傷だね、いい面構えだ」
かつて鈴木京子からかけられた言葉を自然と思い出す。進路のことで親と喧嘩して、ついに父親に手をあげられた時についた顔の傷。最初は醜い顔をからかわれているのかと思った。その後、色々話しているうちに、武家の流れを汲むこの家では最高の賛辞であることが分かったわけだが。
(しかし、鈴木様。武家の流れを汲んでいるにしては、発注内容が乙女でしたね)
心中でつぶやくと無性におかしくなって、表情に笑みが出そうになる。意志の力を総動員してその笑みを出さないようにするが、でも正直発注初期から割と違和感は覚えていたので、笑いそうになること自体は仕方がなかった。
『運命のふたり』
訪問初日に鈴木京子が俺に渡してきたプランのタイトル。応接間のテーブルの上にそのタイトルが書かれた紙が出された時には、驚くのを隠すのに大分苦労した。
「あなたのサイトで書くよう指定していた項目は全て記入済みです。これであたしだけの仮想世界とやらを作ってくれますか?」
そう告げる鈴木京子に探るような鋭い目つきをされたことは、今でも鮮明に覚えている。義理の娘が蛇蝎のごとく嫌っている夢作師とやらと実際に会って、本当に信頼に値するかどうかを確認しようとしていたのだろう。顔の傷がなかったら、彼女は俺との契約をしなかったのだろうか。今となってはもう聞く術もなかった。
「では、これから作業に入らせていただきます。申し訳ありませんが少しうるさくするかもしれません。1時間程度で終わる予定です」
鈴木久志が首肯したのを見て取ってから、俺は作業を開始する。メイン端末の主電源を管理者権限で起動して、初期化作業を行っていく。仮想世界の中で何をしていたか家族に悟られたくない人は年齢層関係なく多い。人の欲は消えない。鈴木京子のために作った世界には別に後ろめたかったり破廉恥な欲望を叶えるようなものは入れていないのだが、それでも彼女は生前ログデータを消すよう何度も何度も俺に念押ししてきた。工場出荷状態に戻すのには10分もかからなかった。
(さぁて、ここからだ…)
気合を入れ、まずは送風ファンから持ち上げる。VR使用者が世界内で行った動作に合わせて風量を調節して、加速の感覚などを再現するためだけのパーツなのでまだ軽い。他にも日差しや気温、匂いの調節器や歩行アシストの機材などを俺は次々と片していく。和室と車の間を5回往復すると、もう腕が辛かった。
自分の加齢を思い知らされつつ、次の機材を持ち上げようとした時だった。
「うわ!」
思わず声が出た。面倒くさがって、しゃがみこまなかったのが災いした。15キロ近い重みに耐えきれず、腰の筋肉が不気味な動き方をした。魔女の一撃が入りそうになるのを感じたので、慌てて機材を手放す。奇跡的に腰は守れた。だが、手放した機材は右足の親指を直撃した。
うめき声をあげながら、畳の上に寝転がる。痛い。折れたかもしれない。爪も割れたかもしれない。痛みが恐怖を呼び起こし、一気に体が動かなくなっていく。仕事中だ、と何度も自分に言い聞かせるが、何の意味もなく畳の上で無様に這いつくばることしかできなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
上の方から声がする。俺の声が聞こえて来てくれたのか、鈴木久志が心配そうに見ていた。違うんです。サボってるわけじゃないんです。そんなことを言ったような気もしたが、痛みのせいで意識まで朦朧としてやや自信がない。鈴木久志の少し待っていてください、という声すらもやけに遠く感じる。痛みの中に羞恥心が混じり始めてきて、別の意味での涙も出そうになる。
「少し休憩しましょう」
何とか痛みが引いてきて頭が現実感を取り戻したところで、鈴木久志が盆に麦茶とコップ、そして救急箱を載せて部屋に入ってくる。俺は何とか体を起こして、恐る恐る靴下を脱ぎ、自分の足を見てみる。思ったよりかは悪くない。痛いことは痛いが、それでも折れていたり割れているようなことはない。偶然強く痛みを感じるところに当たっただけだろう。
鈴木久志が救急箱から取り出したコールドスプレーをかけてくれたら大分すっきりして、ああ、大したことなかったのだ、とほっとする。作業を後日にしてもいいのですが、と心配してくれたが、それは遠慮しておいた。多分しばらく休めば問題ないだろう。
差し出された麦茶を畳に座りながら飲ませてもらう。痛みがもたらす恐怖がなくなってくると、当然心中に占める割合は羞恥心の方が大きくなってくる。自分の年齢が35であるという当たり前すぎる事実を、強烈に意識する。この年になって簡単な仕事すらできないのだから我ながら呆れてしまう。
「結局は虚業。やくざな仕事」
強い羞恥心が10年以上会っていない父親の言葉を呼び起こす。同じくずっと会っていない母の涙も。何でそんな専門学校に願書を出したの、と涙声を出されたことも。
顔の傷に少し触れる。もうとっくの昔に治ったはずなのに、今はほんのり痛む気がした。
仮想世界に没入するよりもリアルな人との付き合いを、というキャンペーンが大量に打ち出され始めた時。
VRクリエイターを育てる専門学校を卒業した後、それでもクリエイターだけでは生きていけず、バイトを始めなければいけないと思い知らされた時。
バイトの後輩に自分がVRを作っていると話して、ああ、夢作師っすねと微妙に馬鹿にしたように言われた時。
生活が困難であることは高校生の時から分かっているつもりでいたが、実際にそんな風に世間の荒波を感じた時、自分が大きな間違いをしでかしたのでは、という思いにとらわれる。
鈴木久志は麦茶を飲む俺を何となく心配そうな顔で見ている。怪我のことをまだ心配しているのか、それとも自分の表情が相当暗くなっているのか。後者のような気がした。
「京子様は、楽しんでおられましたでしょうか?」
意識を何かに逸らさないといけない気がしたので、ふっと思いついた質問をしてみる。でもすぐに嫌な予感がした。鈴木久志は、嫁、鈴木杏子からVRに対する嫌悪感を日夜聞かされているはずだ。
いいように思われているわけがない、と想像がついた。こんなものに金を払わせるなんて、と面と向かって言われたこともある。死ぬ前に自分が本当にやりたかったクレープ屋で働いているVRを作ってくれ、と90近い女性から依頼された時だ。老婆からは生前ありがとう、と何度も言われたが、遺族からしたら、死にゆくものにとって都合がいいだけの夢を作る俺の存在なんてただの詐欺師みたいなものだったのだろう。
木っ端みじんにプライドを打ち砕かれて、その日は泣きながら住んでいるボロアパートまで帰ることになった。今回もそうなるかもしれない。
歯を食いしばりながら腹の中で覚悟だけは決めておく。だが予想に反して、彼は畳の上できれいに正座しながら、ゆっくりと自分が使っていたコップを盆の上に戻し、軽く頭を下げてきた。
「母はとても楽しんでおりました」
彼はゆっくりと顔を上げて、残された機材の方を見る。
「ご承知の通り、家内はこれに強く反対していました。いえ、実を言うと私もです。母は昔から家柄のこともあってか厳格な人で、父が早くに死んでからはより自分を奮い立たせるように、生活の1つ1つ、何気ない所作に至るまで気を張っていたように思います」
彼は再度コップを手に取り麦茶を飲んだ後、話し続ける。
「息子としてそんな母の姿は頼もしくもあり、しかし、少し可哀想でもありました。私が就職し、結婚してからもまるで何かとずっと対峙しているかのように唇をぎゅっと結んで生活をしていました。人並に遊ばせようと私もお小遣いをあげていましたが、全て貯金に回してしまい、旅行を勧めても老人会を紹介しても頑なに拒み続けました」
俺は何となく仏壇の上の遺影を再度見る。鈴木京子の横に若い男性の写真がある。何度も何度も見た顔だ。『運命のふたり』はこの人と一緒にいられる空間をいくつもいくつも作る仕事だった。
「2年前に母がVRを試してみたいと言った時、それまでそんなものに全く関わろうとしていなかったので、正直私は驚きました。VRにのめり込みすぎると認知症になるとか、現実世界への忌避感が強まるとか色々な噂もあったので、私もそれとなく別の方向に誘導しようとしてみたのですが、どうしてもやりたいということだったので、最後には折れました」
彼は今度は俺の方を真っ直ぐ見る。あまりに真っ直ぐ見てきたので、顔に穴が開くかと思ったぐらいで、こういうところは母親によく似ていた。
「母の表情はVRの中に入って確かに変わりました。中で何をしているかは決して教えてくれませんでしたが、出てくるといつもあの真っ直ぐになっていた口元が緩んでいて、微笑みすら浮かべているときもありました。信じられないかもしれませんが、私は母の笑顔を父が死んだときから一度も見たことがなかったのです。だから、本当に、ありがとうございました」
彼はそこまで言うと再度麦茶を飲む。俺もつられるように飲む。冷たい麦茶を飲んでいるはずなのに、体はわずかに熱くなっていた。
機材を全部片づけ終えられたのは休憩を終えてから30分後だった。帰りの途中に、ガソリンの残量が危なくなっていたのでガソリンスタンドに立ち寄る。セルフのスタンドなので、静電気除去シートに触れた後に、ガソリンキャップを外し、給油口にノズルを差し込む。メーター上、ガソリンが入り始めたのを確認してから待ちの状態に入る。
鈴木杏子が休憩後にやってきて、非常に言いにくそうにしながらも、今まですみませんでした、ありがとうございました、と謝ってきた時には非常に驚いた。元々俺は彼女が仕事で外にいない時間帯を狙って回収に来ていたし、彼女も俺に謝った後、再び職場に向かっていった。忙しい合間を縫って、わざわざ一度家に帰って謝りに来てくれたのだ。狐に化かされているのではないかと思った。
ガソリンスタンドの天井にある照明に虫がたかっているのをぼんやりと見る。国道を走っている車の音が耳に届く。ああ、昔、ここでガソリンキャップを外したまま出発させようとしたことがあったな、しかも鈴木京子を乗せて、と不意に思い出す。VRを作る時に鈴木京子と亡くなった旦那に関わる思い出の地の精巧な写真が欲しくなったので、鈴木京子を同乗させていたのだ。
今でこそ笑い話だが、実際、鈴木京子が指摘してくれていなかったら俺はそのまま発進させていたことだろう。下手をすると引火していたかもしれないと考えると、本当に人生は細い綱を渡っていく曲芸のようなものなのだな、と思い知らされる。
「何かしてあげたい、と思ったときには大抵その人がいなくなっているのが人生よ」
そんな言葉が鈴木京子の口から出てきたのは、ガソリンスタンドを出てから数分ぐらいのことだった。
「子供は作ってあげられていたから、最低限の幸せは与えられていたのかもしれないけど、それでもやっぱりもう少し成長した姿を見たかったはずだよ。伝えたかったこともいっぱいあるはずだろうよ」
「…そうですか」
気の利いたことを言えなかったこの時のことを今でも悔やんでしまうことがある。でも多分そんな器用なことを求められていたわけではないのだ、と自分を慰める。不意にぽそっといった感じで、文脈も前置きもないわりに内容は重い一言。はっきりと言葉にはできず、それでいて、これから自分が入るであろう世界に盛り込んでほしい何かを、俺に伝えたかったのかもしれない。
「VRってのに入ると、そこに用意されているあの人は何ができるんだい?」
「追加でご提案いただければ、ある程度、簡単な動作をさせることはできます。歩行や握手、一緒に走ることなども、少し時間はいただきますができます。音声データがあれば、AIを使って、仮想世界上の旦那様に会話をさせることも出来ます。動作一覧の資料をご用意しますか?」
「…いや、やっぱりいいわ。ただ、笑って迎えてくれてるだけでいい」
「かしこまりました。笑顔については個人差が大きい部分ではありますため、少し見ながら決めていただく必要はありますが」
「ええ。けど別に完璧なものでなくても構わないね。本物そのものを作れるとは思っちゃいないよ。ただ、自分からあの人に話しかけられる場があればそれでいい」
そう言うと、鈴木京子は黙りこくった。赤信号で停車した時、左手の薬指にはめている指輪を右手の人差し指でなぞっているのが少しだけ見えた。
ガソリンの給油が終わる。キャップをしっかりとはめ込んだ後、表示されているリッター数と金額を確認して現金で支払う。またガソリンが高くなった、とため息をつきながら、車に乗り込む。帰り道に危なくなったら休めそうなところはあるかな、と頭の中でコンビニやコインパーキングの位置を整理していると、スマホがポンと通知音を鳴らした。
緊急の連絡かもしれないので、若干マナー違反ではあるけど、他に客がいないことを確認してからスマホを起動させる。通知で鈴木杏子からの連絡だと分かり、背筋が自然とピンと伸びる。何だろう。作業中にどこか家の中を傷つけてしまっただろうか、それともやはり何か言っておきたい悪口でもあったのだろうか。
気は進まなかったが本当に何か問題を起こした可能性もあるので、メッセージを確認する。義母の写真です、という一文とともに写真データが送られてきていた。
満面の笑みで写っている3人の写真が画面上表示される。鈴木京子はもう立ち上がる元気もないのか、あの和室のベッドにがりがりに痩せた姿で横になっている。それでも顔はしっかりと笑顔になっていて、旦那の遺影を胸に抱いていた。
また、ポン、という音がする。重ね重ね、本当にありがとうございました、というメッセージが表示される。メッセージに対して軽く返信を書きながら、何となく右足の親指を靴の中で動かしてみる。もうほとんど痛くない。やっぱり大げさに考えすぎていただけだ。人はそんな簡単に立ち上がれなくなるほどの大怪我を負うことはないということだろう。
メッセージを打ち終えた後、俺はスマホをポケットに入れて、エンジンスタートのボタンを押す。ガソリンが燃え、しょっちゅう不甲斐なくなる乗り手を𠮟りつけるかのように車体全体が震える。
ブレーキから足を放すと、それだけでゆっくりと車が前に進む。若干アクセルを踏みながら、ハンドルを回転させ、車道へと向かわせる。タイミングを見計らって、車を車道に出して、速度を上げる。顔の傷が少しだけ痛んだ気がしたが、構わずに俺はアクセルを踏み続けた。少なくとも今日の帰り道だけは無駄な休息を入れなくて済む。そんな気がした。
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