海に来ていた

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海に来ていた

「そうだ 海へ行こう」 どこかで聞いたことがあるフレーズを、私は時々使ってしまう。 理由は様々。 仕事でミスをしたら 海へ行こう。 新発売の商品が売り切れていたら 海へ行こう。 恋人が別の人と一緒になったら 海へ行こう。 孤独に押しつぶされそうになったら 海へ行こう。 消えてしまいたくなったら 海へ行こう。 海 海 海 多かれ少なかれ 人生のあらゆる場面に散りばめられたイベントに遭遇する度、私はここへ来ている気がする。 特別海が好きなわけではない。 むしろ、今の海は日中の客たちが置いていったペットボトルやら、花火の燃えカスやらが転がった砂浜が興ざめだ。無限にそびえたつビルからの光で、星なんて見えやしない。 海 海 海 きっと私は、海に取り憑かれているのだろう。 暗い空に照らされた海は、どこまでも漆黒で、果てることがない。 もしも私に鱗とヒレがついていたのなら、ここから飛び込んで、どこまでもどこまでも深く潜ってしまう・・・そんな想像まで簡単にできてしまうのだ。 「こんな夜中に珍しいですね。お嬢さん。」 水が跳ねる音と共に、足元に人影が現れる。お嬢さん、と言っても、貫禄のある紳士には程遠い声なのだが。 「・・・どうも。」 ミュールを脱いだままの足をブラブラさせたまま、私はいつものように答える。彼は、下の方でピチャピチャと弧を描き、ネオンの光と混ぜて模様を作った。 「ずいぶん上手になったでしょう?」 彼は見上げて笑う。その顔は、塗りつぶされた私の目には眩しすぎた。 「うん・・・」 「また振られた?」 「ううん。暫く一人。ただ何となく来ただけ。」 「何となくかぁ~・・・」 彼は、器用に背泳ぎをしながら私の近くに寄ってくる。 「ね、怖くないの?」 「何が?」 「いろんなこと」 彼は、私の右足に指を添える。ほんのり磯の匂いがする、ぬるっとした感覚だ。 「こうやって、僕はいつでも君を引きずり込むことができる。」 「そしたら、私は海の中でも生きられる?」 「多分ね。知ってる?人魚に口づけされると、海の中でも息ができるんだって。」 「そうして、もう人間の世界に戻らなくて良いのね。」 「多分ね。」 彼は、私の足に頬を優しく当てる。きっと自分にないものが羨ましいのだろう。 「ねぇ 君はどうして人間が好きなの?」 今度は、私から質問する。 「ん?」 彼は、私の足から手を離す。 「だって面白いから。僕の知らないことをたくさん知ってる。」 「そういうもの?」 「君は、海の底を眺めているだろう?海に沈んでしまいたいって思うだろう?それと同じさ。」 「・・・ふぅん・・・」 私は、さっきまで彼に触れられていた足を見る。 こんなに近くまで来ておきながら、どうして私には彼のような鱗とヒレがないのだろう。それだけがもどかしかった。 「ねぇ もしも人魚になれるならさ、なってみたい?」 彼は尾びれをたなびかせながら聞いてきた。 「んーーー・・・」 私は、少し間を置いて 「今は、まだいいかな。」 と答える。 彼は、尾びれの動きをシュンとおさめる。 「君とずっといっしょにいられたら、もっと楽しいのに。」 「ありがとう・・・でも、こうやって時々海に来れるのがいいから。」 「・・・そっか」 「君は?人間になりたいって思う?」 「うーん・・・僕もまだいいかな。君から色々な話を聞くのが好きなんだ。」 「・・・そっかぁ」 私は、ポツンと呟く。 「・・・もし私が、ここから本当に飛び降りちゃっても、また君が助けてくれちゃったりするのかな。」 「・・・今度はそのまま連れてっちゃうかも。」 「そしたら、人間だった時の記憶は消えちゃう?」 「・・・分からない。僕もよく覚えていないんだ。」 「私からキスをすれば、思い出しそう?」 「・・・分からない。でも、僕には使わないで。」 「どうして?」 「・・・本当に好きな人に使うべきだと思うから。」 フワフワと波に揺れる体と、潮風に揺れる足。 解決したわけではないけれど、妙に納得できる答えを見つけたような感覚だ。 「そろそろ月が傾く時間だ。」 「どこで眠るの?」 「貝殻の布団で」 彼はヒレを翻すと、私に振り返る。 「・・・ねぇ また来てくれる?」 「・・・多分ね。」 「・・・そっか」 彼は寂しく笑うと、手を振って底へ帰っていった。 『君から色々な話を聞くのが好きなんだ』 きっと彼は、人間に恋をしている。 人魚に恋をして、人魚になりたいわけではない、そんな私も例外ではないのだ。 波が穏やかに行き来する海を眺める。 果たして私は、いつまで人間でいられるだろう。 彼の寂しそうな笑顔を思い出しながら、今日もこのまま帰るのだ。
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