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モラトリアムの過ごし方
彼の事は、何も知らない。
大きく揺れた。
いつの間に、眠ってしまっていたのだろうか。流れゆく景色を見やる。未だ、頭には倦怠感が残っている。また、車体が揺れる。先刻ほど大きいものではなかった。けれど、否応なく不快感は増す。もう一度眠ってしまえば楽になるかもしれない、と目を閉じかけたところで、今度は泣き声が狭い車内に響き渡った。声の主はまだ幼い。赤子のようだった、後方から聞こえてきた。母親のあやす声も微かに聞こえる。眠る前には居なかったはずだ。泣き声は止むどころか力強く甲高くなり、乗客全員の鼓膜を震わせる。それに呼応するかのように頭痛も益々酷くなる。不快感が喉奥からせり上がってくる。吐き気を誤魔化す為にガラス窓の奥に目を向ける、交差点を曲がった、また少し揺れる。窓ガラスの向こう側、白黒に見える。モノクロの点々で埋め尽くされている。世間様は休日だから。
モノクロの人の波で、交差点の美しい線はあっという間に見えなくなる。きっと今日も店は忙しくなるだろう。バイト先の最寄りに着くのはもう少し時間がかかる。いっその事、休んでしまえばよかった。何もかもが億劫だ。この痛みの元凶にも会いたくなんかない。赤ん坊はまだすすり泣いている、子供の声というのは騒音に混ざることなく明瞭にこちらに届く。不思議で不愉快だ、私は子供が嫌いだった、子供と言う生き物が嫌いなのではなく、それに付随する自分の感情が嫌いだった、可愛いと思わなければいけない、不快感を顔に出してはいけない、自分も子供だったのだから、いずれは産むことになるのかもしれないのだから、子供には優しく、優しく。馬鹿々々しい。いずれ自分が子供を産むことになれば、子供がいかに可愛らしいか、子育てがいかに大変か周りの人間に語るようになるのだろう、その想像すら不快だった。でも近くにいるとつい想像してしまうから、私は子供が嫌いだ。大きくバスが揺れて、隣に座っていた同世代くらいの男性の太ももが僅かに私の太ももと擦れ合う、一瞬で離れる。衣服越しとはいえ僅かに嫌悪感を覚えずにはいられない。気づいてしまえば異様に他人を近くに感じてしまうこの距離感も苦手だ。
苦手なものが多すぎる。好ましいものだけ思っていたい。バスの揺れを頭蓋骨に感じながら瞼を閉じる。その時、脳裏に浮かんでいたのはあの青色だった。
それは、綺麗な青色をしていた。店を閉めた後に、彼が作ってくれたものだ。「修行してるんで。」と言ったその男はおどけたように笑った。彼はそういう表情がよく似合う。
気楽なバイトの私とは違い、正社員の彼は朝から晩まで働いていた。高卒だ、と聞いたのはいつだったか。彼から直接話されたことではなかった。どのバイト先にも噂好きの人間はいるもので、その情報もどこからか回ってきたのだ。彼は率先して自分の事を他人に話すことはしなかったし、仕事の愚痴ですら言うところを聞いたことはなかった。ただ、稀に疲れた顔をしていた。それは他の人には気取られないようなほんの少しの、本当に些細な変化ではあったが、私はすぐそれに気づくことができた。それを指摘すると、彼はいつも照れ臭そうに笑うのだった。その時だけ彼は年相応の若者に見えた。
若いながらも、彼は社会人として精一杯務めを果たしていて、この仕事に対しての熱意もあった。それは後輩への指導の仕方からも感じられた。堅苦しいのは好まず、常にフランクな態度で接した。しかし彼は誰に対しても一線を引いていた、他人を踏み込ませるのは好まない様だった。プライベートな話を率先して話すタイプではなかった。
私はたまに「丸谷君、私学生のままがいい~。」とふざけて言った。彼はいつも「ねぇやんなら大丈夫だよ。」と返してくれた。彼はいつの間にか私の事を、変なあだ名で呼ぶようになっていた。親しみのこもった口調で。
しかし、働き始めて二か月経っても、彼から本名で呼ばれたことはなかった、忘れているのかもしれなかった。彼にはそういうところがあった、でもなぜか憎めなかった、そういう人だった。
私がここ『corner』 というカジュアルなバーで働き始めたのは、三か月前だった。大学四年の十月。暇を持て余していた。単位は殆ど取り終えていたし、卒論の終着点は大体見えていた、さらに言えば就職先も決まっていた。めぼしいバイトを探していたところで、ここの求人を見つけたのだ。初心者歓迎、大学生歓迎のタブにまんまとつられた。応募した当日に、すぐ店から連絡があった。面接は四十代半ばの筋肉質な男性だった。彼の役職は店長だった。彼の話を要約すると、小さいお店だけれど最近妙に忙しくなってきて猫の手でも借りたいのだ、とまぁそんなところだった。訥々と、自らのスキンヘッドを撫でながら語るさまに親しみを覚えた。
幸運にも、とんとん拍子で話が進み、翌日から私はそこで働くことになった。そして店長から私の教育係を任されたのが、彼だった。彼の名前は丸谷樹といった。
初対面の印象は、丸眼鏡だった。彼がかけているソレはひどく丸く小さく、彼をバーテンダーではなく研究者の様に見せていた。彼が動くと、銀に縁どられた丸眼鏡も僅かにズレた。煩わしそうに眼鏡を戻すその仕草も、やけに記憶に残った。これまで周りにそんな特徴的な眼鏡をかけている人間がいなかったからかもしれない。その眼鏡のせいかは分からないが、彼は年老いても見えたし、またその逆で酷く幼く見える時もあった。
昔から年下には好かれる性質だった。彼も例外ではなかったらしい。休憩が被ることが多かったからかもしれない。何故だか、私は彼に話しやすい人間として認識されたようだった。彼がバーテンダーの大会に出るというので、応援したのが良かったかもしれない。私は昔から誰に対しても、無責任でかつ過剰な言葉を発してしまう癖があった。さほど思っていなくても、口に出せてしまうから接客業には向いているのかもしれなかった、しかしその特徴は日常生活においては厄介事を引き寄せることはあれど、役に立つことはなかった。
大会が近くなると勉強熱心な彼は、より一層仕事に対して熱意を持って取り組んだ。些細な味の違いにも気づいて、味のブレを無くそうと努めていた。新作の研究も熱心に行っていた。私にまで味の感想を求めることも多々あった。私はその頼みを断ることはなかった、それは仕事終わりに行われることが多かった。
そうだ、思い出した。その練習が始まってからだった、彼が私をあの妙なあだ名で呼ぶようになったのは。彼の頼み事は不定期に開催された。
「なにもバイトの私に頼まなくても。」「ねぇやんはさ、お酒が好きでしょう。」
ほんの数秒、間をおいて、彼はこうも付け加えた。「店長は中々シフト被らないし、なんか気恥ずかしいし。他の子達には頼みづらいし、さ。応援してくれるんでしょう。
…ねぇやん?」
こうも真っ直ぐ頼られると悪い気はしなかった。その男だから、余計、なのかもしれなかった。私はその感情について深く考える事をしなかった。
それはそれは、綺麗な青色だった。ロックグラスに注がれたその青は、海の色よりも彩度が高かった。短いストローが二本添えられている。夏によく頼まれるお酒らしかった。見た目の華やかさが理由だろう。今の時期にはあまり見たことがなかったし、飲んだことはなかった。けれど、名前だけは知っていた。
「ブルーラグーン。」
「今年、三番目によく出たお酒。」
「へぇ。」
「一位はビール。」
「バーっぽくない。」
「二位はなんでしょう。」彼はお得意のおどけた顔をした。
「…ハイボール?」
「居酒屋じゃないんですよ、うちは。これでも。」彼は店内を見渡した。店長は見かけによらずマメな性質で、季節ごとに装飾を変える。ハロウィンの時期だからか、店内にはジャックオーランタンがいくつも吊り下げられている。辛うじて雰囲気は壊れていないが、カジュアル過ぎるし、手間が掛かり過ぎると、彼は店長に意見したことがあったらしい。
「…不満そう。」
「まぁこれはこれで良いんです、そう思えるようになりました。店長が言うように若い方も入りやすいし。カフェ&バーだし。」
「二位はマティーニです。」得意げに丸眼鏡が揺れる。
「定番。カッコつけたい人が飲むイメージ。」
「カッコつけたいものですよ、特に男はね。」
彼はカウンターで何かごそごそと作業をしている。手元は見えない。
「サクランボ、いる?」
「どっちでも。」
「ねぇやんは案外適当だなぁ。」
彼の手がカウンターを飛び越えて、私のグラスに果物を落とした。青色の表面だけが、僅かに揺れた。サクランボと青色の液体は対照的な色なのによく馴染んだ。
「減点。」
「ほら、これは非公式だから。」…非公式、彼の落とした言葉がやけに耳に残った。
その日も彼に散々試飲させられ、気づいたら夜中の三時を回っていた。私は本来お酒に強い方ではなかった。けれど、何故だか彼の前では酔わなかった。歳上である、という意識が根底にあるからかもしれなかった。何度同じ様な夜を繰り返しても、それは変わらなかった。彼は一線を越えてはこない、彼は私の領域を踏み荒らさない。だから、安心していた。
私は人との距離感というものに内心怯えている。心を許した誰かはいつか私を置いていく人になる。孤独だ、只、孤独は当たり前の事だ。私自身も誰かを孤独にさせたことがあった、誰だってそうだ。この底知れぬ孤独を癒すために、誰かとの繋がりを求めずにはいられないのかもしれない、例えそれがどんな模様を描いたとしても。
仮に、丸眼鏡の彼が、私ではない誰かと孤独を癒すことで、傷つく自分が一欠片でも在ってはならなかった。だから常に、その想像をした。先に想像しておいた方が、その不安を常に抱えているよりは、ずっとずっと楽な事に思えた。
練習を終えた後、タクシーの中、彼の事を思い返した。もっと、彼と近づきたかった。けれど、それは出来ない事だった。誰でもいいから、傍に居てほしかった。でも、彼の代わりに誰とも会いたくはなかった。それが、昨晩のことだった。
バスを降りて、数分歩くと店に着く。裏口から中に入った。若干眠ったからか、二日酔いはマシになっていた。体調は万全とは言えないが仕事に支障は出ないだろう。彼への感情も波が引いて、一時の事のように思えた。
「おはようございます~。」挨拶した先には照明に照らされるスキンヘッドがある。今日は店長が早番だったようで彼の姿は見えない。
「水木さん、おはよう。今日、更新頼むね。」店長から店用の携帯端末を渡された。「はい。任せてください。」このお店は若年層でも入りやすいバーをというコンセプトで開かれたと聞いた、そのせいかバイトは若い子たちが多いし、価格も一杯三百円台とリーズナブルだ。SNSの発信にも力を入れていて、一日一回は必ず何かを投稿する。店長が言った更新とはこのことだ。偶に頼まれて引き受けるが、なかなか楽しい。店長曰く『僕や丸谷君のような、長い人間だと、同じ様なアイデアしか浮かばないからね。新しい風を入れなきゃ。』だそうだ。店の役に立つのは嬉しいし、自分の出した文章や画像が誰かにシェアされていくのは面白かった。大勢の人間に、自分を認めてもらえた様な気になる。投稿を手伝うようになってから、自分の承認欲求が肥大している自覚があった。自分の事を自分の力だけで、上手に認められなくなりつつある。日常を過ごしていても、これを撮らなきゃ、残さなきゃ、と言う気持ちが常にある気がする。それは悪い事なのか、分からない。自分を認めようとすると、その反対の事を心が言うのだ。もう一人の私は、私を否定し続ける。
「着替えてきますね。」足早に階段を上って更衣室に向かう。ここは二階建てだ。一階は店、二階は従業員スペースになっている。階段を上って、二個目の扉が女性用ロッカールームだ。制服に着替えて、先程の端末で店のアカウントにログインする。この前、ハロウィンを押し出した投稿をしたところフォロワーが増えて、反応も良かった。やっぱり季節ものは強い、どの世代にも受けがいい。今日は撮りためてある写真の中から4枚選び、ハロウィン仕様のドリンクや料理を張った、ついでに簡単な説明と価格を出しておく。最終的に誤字がないか、確認してから投稿ボタンを押す。音が鳴りやまなくなるので端末の音はあらかじめ切ってある。更衣室を出た。
「今日って、丸谷君お休みでした?」「いいや、もうすぐ来るはずだよ。」店長と話している声が聞こえた。社員の足立さんだ、下の名前は知らない。二人に挨拶して、カウンターに入る。足立さんは看板を持って店の外に出て、すぐにカフェ用の看板を持って戻ってきた。彼女はシングルマザーで息子が一人いる。彼を養うために、うちと他にもバイトしているらしい。息子さんは以前お店にも来たことがあって、よく笑う朗らかな子だった。その笑顔は足立さんとよく似ていた。彼が帰宅する時間帯に合わせているのだろう、足立さんは基本早番だ。退勤時間まであと一時間もない。「丸谷君が来ないと帰りづらいなぁ。」足立さんはそうぼやいた。
結局彼が出勤してきたのは、足立さんが帰った二時間後、二十時を回ってからだった。
お客様がだいぶん入り始めてきた頃合いだった。彼は店長と話し込んだのち、私たちに軽く謝罪をして、いつも通り働き始めた。遅刻した理由を話すことはなかった。それを彼に聞くことは容易に思えたが、その日は妙に忙しくて、結局その疑問を口にすることはなかった。
「ねぇやん、今日も付き合ってくれますか?」彼がいつもより神妙に誘ってきたのは、遅刻した気まずさもあったのかもしれない。あらかた帰り支度を終えた時だった。店指定の革靴からスニーカーに履き替えようとしていた。「やっぱり、今日はダメですか?」
時計の針は、午前一時を指していた。彼が神妙だったのはそのせいもあったのかもしれない。明日は珍しく、朝から大学に行く用事があった。提出した卒業論文の議題に必要な参考文献を、教授から何冊か貸してもらうことになっていた。それらは大学の図書館でも取り扱いが無く、ずっと探していたものだった。私のゼミ担当である早見教授は、年がら年中毛糸の帽子を被っている奇人で有名だが、大学の副学長も務めている。多忙な人だ。その教授と、一対一で話せる貴重な機会を、はっきりしない頭で台無しにしたくはなかった。わざわざゼミの後に声をかけてくれた教授の好意にきちんと応えたかった。
「今日は無理かも。また誘って。」
思えば、彼の誘いを断ったのはこの時が初めてだった。
「ねぇやんにもっと美味しいお酒、飲んでもらえるように修行しておきますね。」彼はほんのりと笑った、ようだった。
「お客様の為にね。じゃ、お疲れ様です。」
振り返らなかった。彼がどういう表情で私を見ているのか確認したくなかった。どんな表情であっても、その理由を見出してしまうだろうことが、怖かった。「お疲れ様です。」声だけでは何も汲み取れない。彼の事を何も知らない、彼も私の事を何も知らない。それでしか保てない安寧がある。彼は上司兼後輩として、住む世界が違う住人として、在ってほしかった。
今夜はタクシーが捕まらず、歩くのにも疲れてきた。そろそろ自転車を買うべきかもしれない。彼の練習に付き合うようになってから、タクシー代が嵩んでいる。けれどあと半年余りの為に自転車を買うべきだろうか。就職先は地下鉄、もしくは徒歩でも問題ない。大学に通い始めてから一人暮らしをしているが、特に不便を感じたことがなかった。私が出不精だからかもしれない。悩みどころだ。
「その練習付き合うのやめたら?」
目の前の幼馴染は容赦なく言い放った。ここは学内のカフェテラス。講義中の時間帯なので、周りは騒々しくもなく、尚且つ通りやすい彼女の声はしっかりとした声量を保って、私の耳に届いた。
「いやでもさ、ゆっこ…、」ゆっこもとい、萩尾裕子は私の事をきちんと理解してくれている人間の一人だ。姉御肌でいつだって頼りになるし、信用している。彼女は呆れたように目頭に手を当てた。私の態度が不満らしい。
「あーはいはい、水木の言いたいことは分かってる。頼みは断れないとか、彼はそう悪い人間じゃない、とか言うつもりでしょ。」
「…。」
「全く…、水木はいつもそう。誰にでもいい顔するのやめなって。」
「誰にでもってわけじゃ…。」
「昔っから人の頼み事断れなくて、厄介事押し付けられてきたくせに?」
「今回はそんなにひどい事でもないよ、練習に付き合ってるだけだし。」
「それ、直井は知ってるわけ?」
「いや、裕次には話してない。」
ゆっこは眉を顰める。その表情を見て私は何故だか焦る。自分が悪い事をしたような気になる。私はやましい事をしている、のだろうか。
「あんた…、マンネリしてるね?」ゆっこは、眉を顰めたままそう言った。
…マンネリ。付き合って三年目になる彼とは喧嘩もしたことがない。マンネリ、というのはある程度心が通い合っていて、それでも疲れた男女が陥るものではないのだろうか。私と彼は、その段階まで進んでいるのだろうか。
「マンネリじゃないよ。そもそも致命的な喧嘩もしたことがないし。」大学に入ってからしばらくして同じ学科の彼に告白され、断る理由もなかったから交際を始めた、それだけのことだ。私はある程度顔見知りの他人に対して嫌悪感を覚える事が殆ど無く、それに加えて直井裕次は優しく人当たりの良い人物だった。過ごした月日の甲斐あってか、彼の事は大切な存在であると認識はしている。彼に対する不満はない。苛立ちを言葉にしたとしても、彼はさらりとそれをいなしてしまう。最初はそれを穏やかな美徳として捉えていたが、私の感情が彼にとって、さして重要な事項でもないからだと気づいたのはいつからか。そう気づいてから、彼の感情をさして気にも留めなくなった。それでも私たちはうまくやれていたし、大きな喧嘩はしたことがない。それこそ致命的な、関係が終わるような喧嘩は。
「水木がそういうならいいけど。浮気はダメだからね。」
「それはない。」私は思わず笑ってしまう。
「ただのバイト先の人だよ。裕次には関係ない。」
「そう、それでもとりあえず言っといたほうがいいと思うけど。無駄な火種になるかもしんないし。」
「…付き合ってるだけなのに、全部話す必要ある?裕次も私に何もかもを話してるわけじゃないだろうし、さ。」
「二人の関係に口を出すのは野暮だけど、このまま言わないのも、なんか…もやもやしない?」
ゆっこから目を逸らす。彼女はいつだって真っ直ぐだ。もやもやとしたものがないと言えば嘘になるが、彼と話すことで、これが解消されるとは思えない。
「…自転車、どう思う?」
「…どっちにしろ、必要になりそう。よく大きいショッピングモールにバスで行くの不便だって言ってたじゃない、自転車があればそれで行けるし。」
「たしかに。」
ゆっこは正しい。彼女の言い分の正しさは、痛いくらいによく分かっている。でも彼女に私の気持ちは分からないだろう、というような拗ねたような気持ちもある。余りにも幼稚な思考だ。私だって彼女の本当の気持ちなんて分かりはしないのに。裕次だってそうだ。でも、彼に対しては正直なところ、もう全部分かってしまった、そういう気持ちが大半を占めていた。彼は予想を裏切ってこない。興醒めだ、と思わずにはいられない。最初、小さかったそのしこりは最近どんどん膨らんでいっている。思えば、彼に対してだけではなかった。以前付き合った恋人も、その前も。彼らにこの感情を共有したことはなかった。そんなことを言っても別れ話だと解釈されるだけだろう。それに、その解釈はあながち間違いでもなかった。私は他者と話し合いが出来ない、それ以前に諦めてしまう。私の欠落はそこにあった。裕次に対して、諦めてから早二年が経った、彼はその事に気づいていない。彼とは分かち合うことも、理解し合うこともできない。この欠落について話すこともできない。彼には理解できない。私も歩み切れない。けれど、誰も失いたくはない、誰ひとりとして。
「水木?お昼食べにいこ?」
「うん。」
「駅前に新しいハンバーガー屋さんが出来たんだって。めっちゃ映えるやつ!」
ゆっこは駆け出す。卒論の議題で教授と揉めたと言っていたのにやけに元気だ。彼女の背中を追いかける、横に並んで他愛無い事を話す。ゆっこのバイト先の愚痴、他のゼミ生の進路に対する噂。代わり映えのない日常だ、けれど卒業したら、それも変わってしまう。ゆっこは関東の銀行に勤める事になっている、ここで就職する私とは離れる。サービス業と一般職である為、会うのも中々難しくなるだろう。…私は、
「何にする?」いつの間にか店の前までついていた。オープン日だからか、行列が出来ていた。最後尾に並ぶ。店員からメニュー表を渡される。一押しメニューなのだろう、一ページ目には、ボリュームたっぷりのハンバーガーの写真と鮮やかな字体のポップが踊っている。メニュー表片手に真剣に悩む友人の横顔を見ていたら、なんだか気持ちが軽くなった。
「おはようございまーす。」「お、水木さんおはよう。」「おはよう~。」
開店前は思っているよりも騒々しい。誰もかれもが動いている。カフェからバーに変えているので尚更だ。食器の音、椅子やテーブルを運ぶ音、店長の声、先輩達の声。その騒がしさに身を浸していると、どこか落ち着く。自分の居場所を取り戻したような気持ちになる。だけれども、ここともあと数ヶ月でお別れだ。また新しい居場所を私は作らねばならない。それまでに、この停滞ともおさらばしなければ。
「ねぇやん?どうかしました?」いつの間にか手が止まっていたらしい。隣の声がやけに遠く感じる。彼の目に映った自分が見えた、ぼんやりとした影だ。
「丸谷さんこそ、目の下に隈、どうしたんですか。」「いや、ちょっと寝不足で。」彼の声は掠れていた。「また飲み過ぎですか。」「ほんの少しだけですよ。」ほんの少しでそんな掠れ声になるものか、と思ったが追及はしない。飄々としている彼は今日も変わらず、何を考えているかよく分からない。「そろそろオープンですよ。」彼の丸眼鏡が僅かにずれる。
それからはあっという間だった。金曜日だからか、すぐにテーブルもカウンターも埋まっていく。洗いきれない食器も溜まる。グラスが積み上げられていく。しかし、そんな目も回る忙しさも二十二時を過ぎると落ち着いてきた。その間に洗い物を手早く済ませようと、グラスに手を伸ばした。ふと小指に痛みが走る。いつの間に切ったのだろうか、全く気付かなかった。周りを確認するが、血はどこにもついていない、グラスを確認すると、僅かにグラスの口が欠けていた、ここで切ったのだろう。いつから欠けていたのだろう、お客様に出す前に欠けていたわけではなかったらいいが。切ってしまった人差し指を水で洗い流してから、グラスをビニール袋に入れる。大した傷ではないが、指先の血はどんどん丸く膨らんでいく。
「ねぇやん、ちょっと。」咄嗟に指を隠してしまうが、意味はなかった。「上に救急箱あるから来て。」「でも、丸谷さんまで抜けたら。」店内は落ち着いてきてはいるが、予断を許さない状況だった。「バイトがそんなこと気にしない。」素っ気ない口調だった。
「店長、良いですよね。救急箱の場所教えるだけなんで。」彼の隣に居た店長は状況を察したのか頷いた。「もちろん。」欠けたグラスが入ったビニール袋を、ごみ箱に捨てた音が聞こえた。
丸谷さんの背中を追いかけ、階段を上る。「すみません。」「謝らなくていいよ、よくあることだから。」彼の口調がいつもより冷たく聞こえる。それは私の後ろめたさからくるものだろうか。こんな忙しいときに怪我をするなんて、彼に呆れられているんじゃなかろうか。「ねぇやん。これでちょっとでも。」彼は階段を上り切って私にティッシュを差し出した。「ありがとうございます。」いつも通りの彼だった。やはり杞憂だったらしい。ほんの少し罪悪感が薄れる。
救急箱を、ここで目にするのは初めてだった。彼の手に抱かれたそれは、やけに小さく頼りなく見える。彼はその中から、消毒液と絆創膏を取り出した。テキパキとした動作だった。
「丸谷君、私自分で、」
「ねぇやんは、意外と不器用だから。」
彼は私の言葉を掠れた声で制した。私を椅子に腰かけさせ、自分も座った。パイプ椅子が軋む。怪我をした人差し指を取った、その手つきは余りにも優しい。
…知らないままでいたかった。どこか居心地が悪くなるような眼差しも、指先のぬくもりも。
「…不器用で、すみません。」
「からかっただけ。」おどけた笑み。
「ほんとに、気にしなくていいですよ、僕が、」彼は不意に俯いて黙った。不自然な沈黙だった、まるでうっかり言うべきではない事を言ってしまった後の様な。表情は窺い知れない。彼の顔を覗き込む勇気も資格も私には無い、その表情も感情も。彼の指が私の指に触れている。消毒液の匂いが漂う。
…もう、何もかもが駄目だった。爆発してしまいそうだった。感情を言葉にしたくても、喉が震えて音にすらならない。指に貼られた絆創膏を只、見つめた。
「知っていますよ。ねぇやんがひとりじゃないこと。」思わず顔をあげると、そこにはおどけた笑み。いつもの笑み。
「なんですか、その顔。」
「水木さんは、本当に単純ですね。」
彼が私の名前を呼んだのは、この時が初めてだった。去り際に撫でられた傷ついた指先が熱を持って、暫く冷めそうになかった。彼の声が私を打ちのめし、彼の体温が私を舞い上がらせ、どうしようもなくした。どうしてこういう感情に襲われているのかも私には分からなかった、どうしてここまで自分が動揺しているのかも。
店長が呼びに来るまでの十五分間、立ち上がることすらできなかった。只、彼の言葉と仕草を反復していた。カウンターに出てからも、それは続いた。幸いにも続けてミスをすることは無かったけれど、極力彼の方を見ないようにして過ごした。それでも、彼の視線を感じていた。その晩は、練習には誘われなかった。それに少しの寂しさを感じてしまっていた時点で、私は自分の感情と向き合うべきだったのだ。そしたら何かが変わっていたかもしれない。でも後の祭りだ。私は何もしなかった。只、自分の安寧を優先した。
怪我をしたあの日の記憶が薄まる気配もないまま、数日が過ぎた。私はその日、裕次と待ち合わせをしていた。集合場所に着く直前に携帯が鳴った。嫌な予感がした。
集合場所は大学最寄りの駅前だった。適当な電柱にもたれかかり、通知が来ていたSNSを開く。チャット画面を開くと「ねぇやん、暇。」とだけ送られてきていた。それは疑問文ではなかった。見て見ぬ振りをするか迷ったが、結局返信した。
「私はこれから人と会うところ。」返事は数秒も経たず来た。「彼氏?」見て見ぬ振りをした。だけれど、どうして自分がそうするのかも私には分かっていなかった。何故だか彼と会話することが億劫になりつつあった。彼のぬくもりに触れたあの日から、会話する度裕次への後ろめたさみたいなものが、心のどこかに蓄積されているのを感じているからかもしれなかった。
暫く待つと、裕次が来た。約束していた時間通りだった。この三年間、彼は遅れたことも約束を違えたこともなかった。安心感のある、人だ。今でもそう思う。「ごめんね、待たせた?」彼は駆け寄ってくる、まるで急いできたかのように。息を弾ませて言った彼の顔がやけに幼く見えて、急激に気持ちが萎んでいく。
「ううん。待ってないよ。」笑顔を作る、なるべく穏やかに。彼も変わらず穏やかに笑っている。何の含みもない、穏やかな笑み。彼は予想を裏切らない、良い意味でも悪い意味でも。
「今日はどうする?」彼は勝手に物事を決めない、私の意見を必ず尊重する。それはきっと良い事だった、どこか物足りなさを感じても。彼が正しくて、私の感情の方が間違っているのだった。
「どこか、連れていきたいところとかないの?」目の前の人波を眺めながら聞く。土曜日だからか人が多い。人混みは苦手だ、息が詰まる感触がする。けれど我慢は出来る。
「うーん。」曖昧な返答。それに対して愛おしさよりも先に、苛立ちを覚えてしまう。返事をしていないチャットの事を考える。停滞しているチャット。私の事を変なあだ名で呼ぶ青年は今、何をしているのだろう。彼の事だからなんだかんだ言いながら仕事をこなしているのだろう、仮にお客様が少なくても社員にはすべき仕事が沢山ある。最近は店長の仕事も手伝うことがあると言っていたな、それとも土曜日だからカフェもそろそろ混んでくる頃合いかもしれない。忙しなくパフェやドリンクを作っている彼の姿は容易に想像できた。あの指先で、あの白い、器用な指先で。
「まこ?」ハッ、とする。
「ううん。」無意味に首を振った。
「聞いてる?で、前ハンバーグ食べたいって言ってたから、探したんだけど―――…」隣から聞こえる筈の声がなんだか遠く、曖昧に微笑む。ハンバーグを食べたいと言ったのは三ヶ月も前の話だった。近しい男性のはずなのに、初対面と同じ様な距離感。男は気づいているのだろうか、繋がれた手のひらを私が握り返していない事に。多分彼は気づいていなくて、気にもしていない。ごつごつとしていて、柔らかくはない、男性の手のひら。
彼の指先は華奢で細かった、きっと彼の指にはピアノの鍵盤が良く似合う。
目の前の男が何か言う度に頷く、笑う。私は何をしているのだろう、と思う。最初はこんな風ではなかった。私はこの男性の事をきちんと見ていたし、きちんと恋をしていた筈だ。会う予定が決まっても、胸がときめかなくなったのはいつからだろう。相手との予定を合わせるよりも、自分の予定を優先しだしたのは?この人が悲しむかもしれないと思っても、罪悪感を覚えなくなったのは?どうして自分がここに居るのだろうと、デート中に考えるようになったのは、いつから?
男は笑いかけてくる。どうして笑っていられるのだろうと思う。だって私は貴方を見てはいないのに。こんなにも、蔑ろにしているのに。どうしてそれに気づかないの。
「まこ、先に決めていいよ。」メニューを差し出す男に笑顔でお礼を言う。どうして、私は別れを切り出せないでいるのだろう。
「私、デミグラスハンバーグ。」
「王道だな、王道。じゃあ俺もそれにしよーっと。」
男は好き嫌いをしなかった。基本的に私と同じものを頼んだ。それを好意的に捉えられなくなった。決断力に欠ける人だ、としか思えなくなって、その自分の浅はかさに吐き気すら覚えた。どうして恋人というだけで全てを知った様な気になっているのだろう、どうして安心していられるのだろう。友人とは何年付き合っても知り得ない部分があって、ふと知らない部分が垣間見えた時、驚きと新鮮さから親密さが増すのに。どうして私はたった数年付き合っただけの、この男性の事を、全て知り得たような気持ちになってしまうのだろう。これも私の欠落の一部だ、自覚しているからと言って、改善できるわけではなかった。自分の傲慢さが、男といると浮き彫りになるようだった。
こんな風になるのなら、何も知らないままが良かった。誰に対しても一線を引くべきだった、あの彼の様に。彼に対しても私はいつか同じ様に思うのだろうか。何も知らないままでいたくて、でも、全てを知りたい。あの不可解な青年の全てを理解したい。
「…裕次。私たち、このままじゃ駄目な気がする。」私たち、ではない。私が、だ。不用意な本音を出してはいけない。
目の前の笑顔は固まっている、言葉が出ない様だった。どんどん、眉根が寄っていくのが見える。濃く、太い。眉毛だけ見れば、意志が強そうに見えるだろう。
「…どういう意味?」いつの間にか運ばれてきていたハンバーグが目の前で湯気を立てている。「そのままの意味。」フォークとナイフを手に取り、肉を切り分ける。口に運ぶ。飲み込んで、努めて静かに応える。とても美味しい。こんな状況なのに、お肉は変わらず美味しい。こういう時、食べ物は喉を通らなくなるのでは?私は薄情な人間なのだろうか。
「まこが何を言いたいのかよく分からない。」切り分けた肉を、もう一口食べる。肉汁が口の中で広がる。彼の皿は、一切手を付けられていない。
…すぐ食べなければ冷めてしまうのに。
「私たち、」
もうお互いに好きじゃないよね、別れよう。貴方の事がもう無理なの、別れよう。違う人の事を考えてしまうから、別れよう。どれも違うけれど、どれも本当だ。
「別れよう。」その時の裕次の表情は初めて見るものだった、全く知らない他人のように見えた。怒っている様な、笑っている様な、何とも奇妙な表情をしていた。別れを切り出した直後に、知り得なかった一面を知る、だなんて皮肉だ。けれども、もう目の前の男性に心を動かされることはなくなっていた。それが、分かった。
彼は話しかけてはこなかった。しかし何をするというわけでもなく、皿に手を付ける様子もなかった。奇妙な表情のまま、私を見つめていた。
「じゃあ。」きちんと食べ終えてから、席を立った。その間、水を三杯飲んだ。水は柑橘系の香りがした。何故だか、急に胃の許容量が増えたように感じられた、いくらでも食べられる気がした。自分の代金だけを払って、店を出る。なにか大きなものから解放されたような、そんな気がした。足りなかった何かが満たされた気持ちにもよく似ていた。
ゆっこと連絡を取る。そっちに行ってもいいかと聞くと良いと言うので彼女がいるというショッピングモールに向かう。
「やっほー。」声に手をあげて応える。
「急にごめんね。」
「いーや全然。ぶらぶらしてただけだし。」
ゆっこは手に紙袋を持っていた。彼女が喋る度に、紙袋の隙間から華やかな柄がのぞいた。花だ、赤と黒で構成された大ぶりな花だ。
「ゆっこは派手な色が良く似合うね。」今日のゆっこは、大きな金魚が数匹描かれたワンピースを着ている。服を褒めただけなのに、彼女は訝しげにこちらを見た。
「何かあった?」
「…。」隠すつもりはなかったが、何故だかすぐに言葉が出てこない。
「今日デートの予定でしょ。」
「別れた、」「と思う。」平気だった、その言葉を口にするまでは。興味が無くなったとつい数分前まで思っていて、一方的に別れを告げたのも私だった。
けれど、何故かその時の私は、自分が彼に捨てられたような、そんな気持ちになっていた。本当は彼が私に捨てさせたのだ、と。彼は私よりずっと早い段階で私に興味を無くしていて、私との関係性よりもずっと大切にしている何かがあって、その『何か』を私には教えてくれなかった。私は、それを知り得なかった。否、知ろうとしなかった。彼に拒絶されることを恐れた、知るという事を諦めた。その時から、段々と彼に興味がないフリをするようになった。そのうちそれは私の身となり、私は彼に興味を持たなくなった。フリをしていたことも徐々に薄れた。そう気づいた、自分を責めたくない故の妄想かもしれない、いやきっとそうだろう。私は選択を間違えたのかもしれない。
唐突な感情の揺れをどこか客観的に捉えていた。きちんと苦しいのに、その苦痛を自分が感じられているという事に心地よさもあった。
「辛いな。」ゆっこは黙り込んだ私の肩を優しく叩いた。この幼馴染は偶に男性より男性らしい仕草をする時があった。
「後輩が原因?」「ちがうよ。」間髪入れずに言った。彼の事をどうとも思わないと言えば嘘になるが、それは原因とするのにはあまりにも些末なことだった。
…あの美しい指。彼の事は知らないままでいたかった、これからも。奥深くまで知る必要はない、偶像のままでいてほしい、と思うのは傲慢だろうか。好きなところだけを知って、自分の良い面だけを知ってほしいと願うのは傲慢だろうか。
「今日は飲もう、奢っちゃる。」ゆっこはゆっくりと、私の手を取った。さらり、としていた。そのぬくもりを享受する。握り返した、この温かさを忘れたくないと思った。
またもや私は頭痛に苦しんでいた。ゆっことあれから三軒もはしごしたせいだ。二日酔いには迎え酒が効くと言うが、暫くはアルコールの類は見たくもない。昨日へべれけの彼女を家に泊めた。まだ私の部屋で寝ているだろう。朝、出かける前にのぞいたポストには家の合鍵が入っていた。去年渡したものだった。彼の家の鍵はまだ手元にあった。彼の家は通学途中にあって、私の家からは二十分もかからない。鍵を確認しようとパスケースを取り出して気づく。鍵と一緒についてきた不細工な猫のぬいぐるみ。二人で一緒に買ったものだった。少し薄汚れたこの三毛猫を忘れていたわけではなかった、ただ馴染み過ぎていて、いつどこで誰と買ったかがすぐに思い浮かばなかっただけ。愛着はあると言えばあるし、無いと言えば無かった。歩きながら、紐をほどく。ぬいぐるみを、立ち寄ったコンビニのごみ箱に捨てた。暫く歩くと、馴染みのアパートが見えてくる。
古くもなく、新しくもない。赤茶色のアパート。彼の部屋は三階だった。304のポストに鍵を滑り込ませる。彼の連絡先を消す。彼と撮った写真を消す。
こうやって彼と過ごした三年間は、呆気なく無かったことにできてしまう。思い出が残っていないと言えばそれは嘘だが、昨日の様な感傷はもう襲いかかってはこなかった。お酒で流れてしまったみたいだ。まるで、こうなることが最初から分かっていたかのように落ち着いている。
ただ、彼の飼っていた猫の事だけは思い出された。まん丸な瞳の三毛猫。捨てたぬいぐるみに少し似ていた、あの子。みけ、と安直にも名付けられたあの子は、今でも彼の部屋で微睡んでいるのだろう。もう私が見る事も出来ないし、触れることも出来ない、あのあたたかな生き物。あの子の事を思い出すと少しだけ鍵を取り戻したくなってしまう。
さっさと大学に向かわなくては。ずっとこんなところに居たら、また自分の下した判断が誤りだったと思ってしまいそうになる。
講義が終わる頃には、頭痛は殆ど無くなっていた。今日はバイトだ。SNSをふと開いて、後輩のチャットに返信していなかったことを思い出す。「もう彼氏じゃないよ。」と打とうとしたのをやめてスタンプだけを返す。ゆるい三毛猫がごろごろと転がっているだけの無意味なスタンプ。返信は無かった。
「ねぇやん。」
「今日は付き合ってくれますか。」彼にそう言われるのは、随分と久しぶりに感じた、数日も経っていないのに。色々とあったせいだろうか。自分の立ち位置が変わったせいだろう。罪悪感はもう無かった。
「片付け、止まってますよ。」彼に促され、私は拭いたグラスを棚に戻す作業を再開する。「いいよ。」吐き出した声が自分のものでない様な一瞬の違和感。彼の後頭部を見つめる、黒い、丸い頭、長めの襟足がきゅっとすぼんでいて、襟の間から白い首筋が見える。
「何時間でも付き合うよ。」私の言葉にゆっくりと彼が振り向いた、唇を動かす。スローモーションみたいに見える。時がいつもよりずっと、ゆっくりと動いている、そんな気がした。周りの雑音が遠くなる。彼の瞬き、まつ毛の揺れ、眼鏡の傾き、唇の動き、白い指先、彼の動き全てが網膜に焼き付く。後ろの照明がやけに眩しく見える。
祈るような気持ちで、彼の言葉を待っている自分に気づいた。
―――どうか。どうか肯定的な言葉を。
「嬉しいなぁ。」彼は笑った。時が動き出す。雑音が戻る。丸眼鏡が少しズレた。それを戻しながら彼はまた前を向いて、食器を洗っていく。私は、彼の丸い後頭部をしばらく見つめて、作業に戻った。
「今日はちょっと挑戦をしたくて。」
出ていた看板を店中に戻し、openの札をひっくり返しながら、彼は言った。店にはもう私たちしかいない。彼が遅番の時、店長は早番だし、他のバイト達も終電が無くなる前に帰ってしまった。とても、静かだ。彼の音と私の音しかない。声が良く響いた。
「挑戦?」「フローズンカクテル。」思わずまじまじとカウンターに立った彼の顔を見つめた。
「こんな時期に、って顔しないでくださいよ。」
「うん。」
「…ねぇやんが飲みたいって言ってたから。」
記憶を探るが、そんなことを言った覚えはなかった。「前、お客様が頼んでたのを見て、その時に。」何かの弾みで言っていたのかもしれないけれど、働き始めの頃だろう。その頃は何もかもが新鮮に見えて、なんでも彼に飲ませてとせがんでいた気がする。
「とりあえず、飲んでみてよ。」彼はやれやれとでも言いたそうに首を振った。呆れているのだろう。
数分後、目の前にカクテルグラスが置かれた。グラスの中身は、乳白色のとろりとした液体だった。これは見たことがある。
「マスカット。季節限定なのに使ってよかったの。」「意外と出てなかったので改善点を教えてください、来年も出すだろうし。」彼はやんわりと笑っている。
一口飲む。視線を感じる。口当たりは滑らかで、しかし氷の質感も舌が冷えるくらいには残っている。雪を口にいれた幼少期の頃を思い出す。けれどあれほど野性味は無く、丁寧に作られた感触。さらさらと氷が喉を通っていくのを感じる。それと同時にマスカットの風味と僅かに喉を刺激するアルコール。
「寒くなってくる。」
「それは、そういう飲み物だから。」目元だけで笑った彼は、暖房の温度を少し上げた。
「これ改善点、ある?」「僕に聞かないでくださいよ。初めてだから、これ作るの。」「だから、挑戦?」彼は頷く。「美味しい、と思う。」「ねぇやんはいつもそれだ。」「ただのバイトだし。ただ、」「ただ?」
「よく分からないけど、丸谷君の作るお酒、好き。」好き。その言葉の余韻がいつまでも唇に残る気がした。好き、私は丸谷君の作るお酒が好き。もう一口、もう一口、ペースが速くなる。マスカットの甘みと氷の冷たさで、舌が痺れてしまえばいい。余計な事を口遊むこの唇が凍ってしまえばいい。彼は変わらない笑みのまま、次のカクテルを作っている。自分用だろう。私の言葉は届いていないのだろうか。その笑みからは何も読み取れない。彼の事を何も知らない。知らないままでいるからこの安寧が保たれていると信じている。けれど、それは思い込みだったのだろうか。ただ自分の臆病ゆえのものだったのだろうか。張り付いた笑みを剝がして、その下を覗き込みたいという獰猛な気持ちが膨らんでいるのを自覚する。この感情は、なんだ。答えはまだ出そうになかった。
グラスの中身がするすると減っていく。「ねぇやん、お水。」出されたプラスチックのコップを素直に手に取る。ゆっくりと飲み干す。一杯しか飲んでいないのにやけに喉の奥が熱く、頭の回転が鈍っている様な感触がした。良くない兆候だ。お水のお代わりを注いでもらう。「大丈夫?そんな強かったかな、これ。」彼も同じものを作っていたらしい。ちろり、と舌先だけで味を確かめている。赤だ。その鮮やかさから目を逸らした。
「…ジンバックが飲みたい。」もっと彼の作ったお酒が飲みたかった。美しい指先で、砕かれ混ぜ合わされた、それらを飲んでいれば私は正常で在れるような気がした。明日から、感情を飼い慣らして、何ともない顔で生活を営めるような。彼の前では酔ったことがなかった。だから安心しきっていた。
ドアの閉まる音がした。眠っていたらしい。起き上がるとそこは見慣れた店の中、ではなく、やや薄明かりの中、女性と目が合った。よくよく見るとその人は額の中にいた。色鮮やかなポスター。CAMPARIとポップな字体の後ろで女性が微笑んでいる。壁には似たようなポスターが後二枚飾られていた。どれも豆電球に照らされている。私が寝かされていたベッドの近くには小さな丸テーブル。その上にはCAMPARIの瓶と、グラスが二つ。一つのグラスにはまだ赤い液体が少し残っている。
ここはどこだろう。頭が鈍く痛む。考えたくはないが、私はあの後酔っぱらったのだろうか。記憶をたどると、徐々に思い出せそうな気がしてくる。
ジンバックを飲んだ後もペースは変わらなかった。五、六杯は飲んで、彼も同じペースで飲んで、ふらふらになりながら店のシャッターと鍵を閉めて…、ああ、そうだ、自販機。彼は自販機で水を買い、飲むのかと思ったらそれをそのまま自分の頭にぶちまけた。野良犬の様な粗暴な動作だった。酔っていた私は彼のその行為が無性に美しく見えて、でもそれを本人に悟られまいとする理性は残っていたから、指さして大袈裟に笑った。振り返った彼の長い前髪から水滴が滴り落ちるのを見た。いつの間に外したのか眼鏡はかけていなかった。そのせいで、いつもより彼の顔が鮮明に見えた。瞼は重ためで、切れ長に伸びていて、その奥には黒耀石の瞳が。ただ、じっと私を見ていた。全てを見透かすように、ただじっと私を見た。そして、「――――――――。」彼は私に、何か言った。
ドアの開く音がした。
「水木さん。」ここはやはり彼の部屋だったらしい。水の気配はもうない。眼鏡もかけている。いつもの、彼。いつもの丸谷樹。私は彼の部屋に居る、この男の部屋に。急に彼の部屋のベッドに腰かけているというこの状況が事実として身に迫ってきて、勢いよく立ち上がった。彼は目を見開いた。その表情を見て、暴れだしたくなるような衝動を覚える。
「帰る。迷惑かけたみたいで、ごめん。」壁に掛けてあった自分のバッグとコートを身に着ける。ここの場所も分からないが、携帯で調べたら出てくるだろう。思案しながら玄関に向かう。
「待って。」と彼が言った。腕を掴まれてもいないのに動きを止めてしまう。
「なにも、してないから。」振り返って、彼の顔を見た。焦った様な、不機嫌なような。まともな表情。安堵と、少しの失望。この男も、結局。「わかってる。」そんなことは分かっていた。服に乱れはなかったし、身体への違和感も無い。
ただその時の私にとって重要だったのは、そんな分かり切った事を、あの彼が焦ったかのように言った、その事実だった。それが彼を酷く浅ましい人間に見せた、私にはそう見えてしまった。
―――ああ、こんな人間だったのか、この男は。
一つ、何かが削られた。やっぱり知ることは罪だ。こんな一面、知りたくなんてなかった。
「ねぇやんとは、今のままでいたい。」俯いて、彼は言う。また一つ、削られた。
―――もう黙れ、頼むから。お願いだからもう何も、これ以上。
久しぶりだった、ここまで心の奥底からから苛立ちを覚えるのは。それを何とか宥めながら玄関のドアノブを握った。
「じゃ、バイト先で。」辛うじてそれだけを言って、彼の部屋を出た。
もう引き留められはしなかった。
「本当に何もなかったわけ?」ゆっこは信じられないとばかりに、甲高い声で私に詰め寄った。
「ないよ。」僅かに残ったアップルジュースを飲み干そうとストローを咥えながら、返事をした。嫌な音が鳴る。
「水木、行儀悪いよ。」
ストローから渋々唇を離すと、その先は醜く潰れていた。悪い癖が出てしまった。
「年若い男女が酔っぱらって一晩一緒に過ごして、何もないなんてことある?」
「あったんだよ。そんな顔しないで。」ゆっこは再度宇宙人を見るような目線を私に向け、それから少し笑った。
「らしいっちゃらしいかもね。手出してこなかった、ってことは向こうも案外本気だったりして。」
「そんな馬鹿な。言い訳したんだよ。」
「だからそれはさ、安心させようと思って言ったんじゃないの。」
「…そんな感じじゃなかった。」あの時の彼は酷く狼狽していて、取り繕う余裕も無いように見えた。いつもの、飄々とした態度は微塵も無かった。ただの、一人の男だった、女々しいだけの、浅ましい。知ってしまえた様な気になれる、今までの人たちと同じだ。一年もすれば飽きてしまうような、そんな男。それがあの男の本質だったのだ。
「水木はいつもそうだよね~。」
「え?」ゆっこはマグカップを傾けながら言う。珈琲の香りがした。燦燦とした陽射しを浴びながら仄かに笑っている。
「私はね、昔お菓子が大好きだったの、駄菓子屋で売ってるドーナツ型のチョコとか混ぜて作るグミとか、ね。」
「…うん。」
「でもさ、駄菓子屋の駄菓子って、スーパーにも売ってるじゃん。それ知った時、衝撃だったね。」「私が特別だと思っていたものが当たり前に違う場所にもあって、何も特別なものじゃなかった、って知った時。」「それでなんか駄菓子屋にいかなくなっちゃったんだよね。スーパーで良いやって、色んなものあるしさ。お菓子もあんまり食べなくなった。」
「それで?」
「特に意味は無いよ、喋りたくなっただけ。」「ゆっこの家の近くに駄菓子屋があったなんて知らなかったな。」
「言わなかったからね、誰にも。」
「どうしてよ。」
「だって、特別な場所は自分一人が知っておきたいじゃない。」
「…そういうものかな。」
「水木にとって彼はなに?」思わず彼女の顔を見つめ返した。ゆるゆると笑っている。
「特別?」
彼女の問いに、首を振る。
「…素直じゃないなぁ。」
それから私は三回バイトに休んだ。二回は不可抗力で、一回はずる休み。一回目は風邪を引いた時。二回目は内定者懇談会が被ってしまった時。三回目は丸谷さんから練習を頼まれた次の日。
丸谷さんはあれから何も変わらなかった。私を練習に誘うのも、飄々とした態度も。私が知らない部分のある男のままだった。けれど、その皮の下にはあの平凡な男の顔があるのだ、彼の本性はそちらだ、と思ってしまう自分がいた。彼からすれば随分と勝手な話だろう、勝手に期待して失望して。
丸谷さんとシフトが被る、最終日の前日。
「ねぇやん?」グラス拭きが疎かになっていたのを気づかれてしまったらしい。
「ここ、拭きなおして。」
「すいません、」「あと…その呼び方やめてください。」
「…どうしてですか。」平凡な顔。まともな、動揺。
「なんとなく。」
「…分かりました。」「水木さん、今日の練習付き合ってくれます?」
思わず、男をまじまじと見つめた。相手は一歩も引くつもりはないらしい。先に、目を逸らしたのは私だった。
「もう、付き合うつもりはないよ。大会も終わったんでしょ。」一昨日、足立さんから大会が終わっていたことを聞いた、二か月も前に。そういえば、理由も言わずに彼が遅れてきた日があった。
「それだけじゃないよね、どうしてですか。」
「言わないと分からない?」
「あの日のこと気にしてるなら…、」
「そういう事じゃない。」「…そういう事じゃ、ないんだよ。」棚に並べられたグラスが、キラキラと光っていた。反射する光は美しい。どうして、美しいものがこんなにも世界には溢れているのに、美しいものだけ見つめて生きていけないんだろう。どうして、汚いところに注目せずには居られないんだろう。どうして、私はこんなにも愚かなんだろう。
『まこさん、僕を知ってください。僕も貴女を知りたい。』
無理だよ、突き放すのは簡単な事だった、その四文字さえ口にできれば良いだけなのだから。でも言えなかった。唇が二呼吸分だけ震えただけだった。彼はまだ私を見返している。手を動かしてはいるが、私の言葉を待っているのは明白だった。なのに言葉は出てこない。否定、出来ない。私は浮かれているのかもしれなかった。失望の中に仄暗い喜びがあった。…なぜ?
「明日の晩でもいいんで。最後じゃないですか。」
「…分かった。」一週間後には、卒業論文の大詰めに取り掛からなければならなかった。本当はもう少し猶予はあったのだが、予定を早めたのは彼の前で平常心を保てなくなってきたからだ。最初の頃の衝動より、もっと異質な激情が話しかけられる度、増していくようだった。
翌日、私はバイトに行かなかった。店長にはゼミが急に入ったと嘘をついた。丸谷さんからはメッセージが届いていたが、既読をつけないまま消した。二回目は来なかった。そのままバイトの最終日を迎え、彼とはもう会っていない。
大学を卒業した日の夜、夢を見た。鮮明な夢だった。私は夜の街を歩いていて、水に濡れた丸谷君が斜め前にいた。降り向いた彼は、眼鏡をかけていなかった。何にも遮られていない彼の目は、どこか濡れているように見えた。私は酔っているのか、彼を指さして笑った。なぜだか面白かった。これは夢ではなく、思い出だ、と頭の片隅で冷静な自分が分析していた。
丸谷君が口を開く。時がゆっくりと動く、あの時の様に。彼の頬から垂れた滴が地面に落ちていくのが見える。おでこに張り付いた前髪が僅かに震えた。全て覚えていた、覚えていないフリをしていた。
『まこさん、僕を知ってください。僕も貴女を知りたい。』彼はそう言って、私をじっと見つめた。耳が赤く染まっていた。
そこで、目が覚めた。まだ夜は明けていなかった。何故だか泣いていた。
頭が鈍く痛んだ。それは二日酔いの痛みに、よく似ていた。
今でも、思い出す。社会人になって三年経つ、今でもだ。忘れたことはなかった、ふとした時に、自分の指先を見つめている。深夜寝付けない時だったり、早朝目が覚めた瞬間だったり。誰かと深い関係を築こうとする度、彼との時間を思い出す。彼と触れ合ったのは、あの一度だけだというのに。いつの間にか私の意識の根底、価値基準には彼が見え隠れしている。恋人たちを彼と比べてしまう。あの短いモラトリアムを美化し過ぎている、そう分かっている。彼の虚像だ、本当の彼は私の求めている彼ではない。
私は知らないままでいたかった。近づきたくなかった。向き合わなかった。それでも、惹かれていた。
彼も、私に負けず劣らず臆病だった。あの日の朝、それを知った、彼の部屋で。
…知ったから。知らないままでいたかった。
今もずっと彼を知らないままでいる。美しいものは美しいままで。
これからも、そうだ。どこか寒々しさを感じながら、今日も私は大切なものを知らないままでいる。
彼の事を、何も知らない。
完
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