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わたしは息子を愛している。そして強くなって欲しいと願っている。
だから栄養をたくさん与えているのに、成人病の可能性についてバカバカしいレベルで長い説明をうけた。その説明を真に受けたのか、息子はあまり食べなくなった。気にしなくていいと慰めると「だけど、僕が言うこと聞かないと、お母さんがイジメられるから」と、わたしを守るために、一方的に物事を考える馬鹿どもの作ったルールに従うことにしたらしい。
なんて優しい子なのだろう。わたしは息子を誇りに思う。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数年が経過した。
息子は別人のようにやせ細り、常に洗剤の匂いを漂わせる好青年となった。が、たまに口から見える歯が、人工物のように真っ白くて、見ていてなんだか悲しくなった。いじめられなくなってホッとしつつも、ここまでしないと人の輪に入ることができない人間の残酷さに、わたしは恐怖する。こんな恐ろしい世界で、わたしも息子もよく生き延びてこれたと自画自賛したい。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
さらに数年が経過した。
息子は大手に就職し、仕事に恋にと大忙しなのだが。
「剛、また食べてるの」
「うん」
剛が食べている物に、わたしは眩暈を覚えた。
ビニール袋に詰められたゴキブリを、スナック感覚で剛が食べているからだ。しかも、生きたままだ。どうやって調達しているのだろう。ガサガサとビニール袋で蠢くゴキブリを、慣れた手つきでボリボリ食べていく剛は、満面の笑みを浮かべてわたしを見る。なにかを期待するような眼差しを、わたしは気づかない振りをする。
なんでも職場の先輩に「腐った根性を治してやる」と称して、ゴキブリを食べさせられたらしい。
そこで奇跡が起きたんだ! と、剛は言う。
なんでも、ゴキブリというあり得ないものを食べたことで、自分の中に巣食っていたしつこい恐怖心が吹っ飛んだのだそうだ。
信じられない話だが、剛の生き生きした顔をみていると、何とも言えない複雑な気持ちになる。
(ちなみに、その先輩はパワハラを訴えられて会社を辞めたのだが、息子はその先輩に感謝しているらしい。あぁ、どうしてうちの息子は、こうも心が清らかなんだろう!)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
……ボリボリガリガリグチャグチャ。
息子の口の端で見えている、棘だらけの足を見て、わたしは吐きそうになった。
「食べる量には気を付けてね。お腹を壊すわよ」
わたしはそれしか言えない。
ガサガサゴソゴソとビニール袋に蠢く黒い虫たちを見ないようにして、これは息子の精神安定剤なのだと言いきかせる。
「わかってる。だけど、ゴキブリは栄養満点なんだよ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
来年、剛の結婚が確定したが、わたしの日常はそんなに変わらない。
……ボリボリガリガリグチャグチャリガリガリグチャグ。
「ねぇ、お母さんも一緒に食べよう。きっと世界が違って見えるよ」
ついに来た。息子の期待を知りつつも裏切ってきたわたしに、優しい剛はゴキブリを摘まんで差し出してくる。
拒絶するわたしを姑が羽交い絞めにする。
抵抗する間もなくイスに座らされて、ガムテープで拘束されると、なんだか学生時代に戻ったような、惨めで懐かしい気持ちが蘇り、わたしは涙ぐんで訴える。
「どうして、なんで、こんな酷いことをするの?」
突然現れた姑をわたしは驚かない。
夫と息子を殺されたと勘違いしている彼女は、この数年間、執念深く復讐する機会をうかがっていたのだろうから。
そして私が気づかないところで息子に接触し、なんかしらよからぬことを吹きこんだに違いない。
「剛が結婚すると聞いて、危機感を覚えたのよ。下手をしたら、剛の婚約者も曾孫もアンタに殺されかねないからね」
わたしは姑の思い込みにゾッとした。さらに絶望的なことに、剛も姑の言葉に同意して、これからわたしをいじめようとしているらしい。
「お母さん、僕知っているよ。お母さんは、お薬が嫌いな僕のために、栄養がたくさんあるものを食べさせてくれたんだって」
「剛……」
あぁ、なんて優しい子なのだろう。
「けどね、お母さん。僕がこれ以上食べたくないって言ったら、たくさん殴って無理やり食べ物を口に詰め込んだよね。それで吐いたら、ゲロをかき集めて、無理矢理僕の口につめこんだよね。成人病が怖くてダイエットした時も、何度も何度も邪魔したよね。虫歯の治療もおばあちゃんにお金を借りて、がんばったんだよ。だけど、お母さんは何度も何度も怒って暴れたよね」
恨みのこもった息子の声に、わたしは我が耳を疑った。
「え」
そんなつもりはない。つもりはなかったのに……。
わたしは、わたしを睨む息子の目を見て諦める。
大人になって強くなった剛は、もうわたしの手を離れて、自分の意思で立ち向かう勇気を手に入れたのが分かった。
これは喜ばしいできごとなのだ。
「それで、あなたはわたしになにを願うの?」
わたしが静かに覚悟を固めると、逆に剛の方が、臆したように押し黙った。
姑も見守るように剛を見守っている。
「お母さんの腐った根性を僕が治療してあげる。これはそのお薬なんだよ」
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