オペラ・オブ・ストックホルム

1/1
前へ
/1ページ
次へ
序章 夏霧の朝、エマはストックホルム郊外にある、ウットゥランと呼ばれる湖へ一人で出掛けて行った。僕はそこでいつもエマが何かを待っていることを知っていた。それはきっとカップルが漕ぐボートでも、水鳥でもなかった。ただその辺りの景色を眺める訳でもなかった。 彼女はいつもスケッチブックを片手にその湖に行った。どうして行くのかと訊くと、彼女は決まって、『描けるかもしれないから』と言った。 でも僕の知っている限り、彼女がそこで絵を描けたことは一度もなかった。 僕は記憶を辿る。 その湖に面するベンチに座り、水面に落ちる太陽を眺めるだけで意味があるように思えた、素敵な光景がある。風が運ぶ、鼻から抜けてゆくような緑の匂いは、人の細胞を再生させてくれる。僕は大きく息を吸い込んで、胸が綺麗な空気で満帆になるのを楽しんでいた。 その湖の近くには森がある。そこでエマは面白いことを訊いて来た。 『ねえ、この森には狩人が居ると思う?』 『居ないと思うよ』 『どうして? じゃあ、ねえ、この森の中に住んでいる人がいると思う?』 どうしてそんなにここに人が住んで居て欲しいのか、僕には皆目見当も付かなかった。だから僕の答えは素っ気なくて、まるで靴底にくっついたガムを剥がすように、訝しがっていた。 『どうだろう。居ない、と思うよ』 僕は青空を見上げた。カモメがやって来るのだと、その日、白髪のスウェーデン人から言われたのだ。 『今日はカモメが来る』 『なに?』 『そう言っていた人がいた。きみがそこでデッサンをしていた時に、通りすがりの人に言われたんだ。白髪のスウェーデン人だよ』   僕はそこから途端に、その続きの記憶を思い出せなくなる。 そのあと違う景色の中で交わされただろう会話も、表情も、まるで指紋を焼かれように存在しない。 でも何も不思議なことには思えない。だって、常にどんな記憶も覚えている、という人はいないから。 1 「ショウタ、エマはね、どうやら少し〝記憶が曖昧〟のようなの」 そう静かに、エマの母、リンダは僕に言った。 「ねえ、でもそういうこともあるのよ。買い物にアイフォーンを持たずに出掛けてしまうようなものよ」 「ええ、そうですね。それはわかりやすい例えです」 病院の廊下は薄暗い。でも明かりがあろうがなかろうが、ここでは迷子になりそうだ。どの廊下も、まったく同じようにしか見えない。 エマの病室に入ると、彼女は白い糊のきいたベッドの上で横になっている。 「ハロー、エマ」 彼女は少しの間、その碧い目で僕を見つめた。 彼女の目は疲れ、少しも笑えていない。 「思い出せるかもしれない。少し時間がかかるかもしれないけど」 身動き一つせず、冬眠に入る前のクマのようにゆっくりと瞬きをする。 そしてゆっくりと光を遮断する。 2   いつ頃の記憶を忘れてしまったのか、どんなことが思い出せないのか、僕はエマに聞くことができない。 「普通に生活していれば、記憶が戻る人もいるって、先生にそう言われた」 「そう、よかった」 僕は彼女の肩に手をまわす。エマの目がまどろむ。 「ここに住もうか」 「イヤ。東京に帰りたい」 身体が重く、肩に寄りかかる。   たとえ彼女が生徒の名前を幾人か忘れてしまっているとしても、東京にあるとある美術学校で憧れの対象であることは変わらない。 手紙に目を通しながら、エマは「どうして日本人の「r」は「t」に見えるのかな」と尋ねてくる。 「ただ慣れていないだけだよ」 僕はそう答える。 「そうかなあ……」 「双子だってそうだろ? いずれ見分けられるようになる」 「文化の違い、ではないのかな」 「あるいはそうかもしれない。でもね、僕が傍にいるから」 3 気が付くと、感情を込めてその日の出来事を僕に話してくれていたエマはもういない。昼間のうさぎのように、静かにじっとしているだけ、という夜が幾夜もある。 「ある日、蛍を捕まえて虫篭に入れたことがあった」 そうエマが言う。 「それで?」 「ただ、ふと思い出しただけ。パパが逃がしてあげようって、言ったの」 僕はどう答えていいかわからなかった。 「時々思い出すの、子供の日のことを」 「どうして?」 彼女はなにも答えなかった。代わりに、英語で書かれた手紙の「r」と「t」を判読することに努めているようだった。 4 定刻通りの池袋行きのバスに乗ると、いつも通り一番後ろから二番目の座席にすわった。 隣にはエマが座っている。綺麗に整えられたストレートな金髪、碧い目がアンバーのロングコートと、ブラックのパンツによく似合っていた。 「おはよう」と僕は彼女に声を掛けた。 「おはよう」 「あれ、今日って雨降る?」 エマが黒と赤のボーダー柄の折り畳み傘を持っていたから僕は訊いた。 「降るよ。会社に置いてない?」 「置いてない」 「残念だね。でも、今晩は絶対降るよ」 エマの英語は流れるように耳に届く。英国紳士からこんなジョークを聞かされたことがある。 『エマはエリザベス女王よりも、はるかに流暢な英語を話す』 僕はそのあと意気揚々と彼女にこう言った。 『ジェームス・ボンドの英語はレシーブド・イングリッシュといって、訛りのない英語なんだよ』 そう僕はほとんどたった今仕入れた情報を、さも昔から知っていたかのように、話した。 『知ってるよ』 エマは悲しそうに微笑んだ。 『なんだ、知ってたんだ』 そしてエマは僕の目を覗き込んでこう言った。 『翔太が聞き取りやすいように、がんばってそうやって話してるんだよ、私。でも、気が付いてないのね?』  5  店内でジョニー・キャッシュが流れていた。なんという曲かは覚えていなかった。でも彼の音楽ということは覚えている。あの日、あの場所で演奏されていたのもジョニー・キャッシュだったからだ。 僕とエマが出会ったのはストックホルムのライブ・バーだった。 あの時僕は『日本人はマイナー・コードの音楽に親しんできたから、カントリーのような明るい音楽は苦手なんだ』と怪しいウンチクを友人のビヨンに話していたところだった。 僕はカントリーというほとんど聴いたこともない音楽に戸惑っていた。そしてその言い訳をやっと探しあてたところだった。でも僕が話し終えると、彼はそんなことはどうでもいいようで、あっさりと聞き流されてしまった。 『あそこにいる女の子はこのバーのアイドルで、実際はライブを観に来る客と彼女を見に来る客とで、半々なんだ』 ビヨンの指さす先にはカウンター越しに、生ビールを注ぎながら客と話をしている女性店員がいた。 僕はその店員を一瞥すると、『まあ、それは分かる気がする』と頷いた。 『近くで見て来いよ』 『そこまではしないよ』 僕はそういう話に飽きていた。だから席を立ち、ステージから一番遠いカウンターにもたれ掛かって、ジョッキを飲み干すことに徹した。少しすれば、カントリーという音楽も好きになるかもしれない、と祈りながら。 気が付くと、僕はずいぶんと酔っているようだった。  辺りを見回し店員を探すと、背後から細長い手が僕の目の前にスッとあらわれた。 僕は差し出されたハイネケンのグラスを受け取った。なんだか優しい声でしゃべりかけられたけど、スウェーデン語だからわからない。一応においを嗅いで色を見て、それを少し飲んだ。水が入っていて、とりあえず安心した。 水を飲むと落ち着き、振り返る。 脚が長くてお尻がキュッと上がっていて、優しくされれば確かに通いたくなるかもしれないような店員がそこにはいた。でも落ちこぼれ留学生の僕には関係のない話だった。 『サンキュー、サンキュー・ソー・マッチ』と僕はデキあがった客同然につぶやいた。するとまさか彼女が振り返った。 『ノープロブレム』 エナメル質の濃い、真っ白な歯が薄暗い中で輝いた。 僕は途端に酔いがさめた。 『ジャパニーズ?』 『イエス』 『ウエルカム・トゥ・スウェーデン』とイタズラに微笑まれた。アルコールの弱さを笑われたのだろう、と思う。 スポットライトがステージを照らし、その光は反射し彼女の横顔を照らした。 丁寧に伸びるアイラインと、長くてはっきりとした睫、散りばめられた薄いブルーのアイシャドーが浮かび上がり、また影を作った。 『カントリー、好きなの?』 『いや、べつに。日本人はマイナー・コードの音楽に慣れているから』とまた 怪しいうんちくを言った。でも今度は少し恰好つけて言った。 『じゃあ、楽しくないんだ?』 『うん?』 いや、そうなのだけど、僕は戸惑った。 『スウェーデンでなにしてるの?』 『好きでもないのにビジネスを勉強してる』 『あらら、それはかわいそうだね』 『ビジネスをしたことがないただの学生がビジネスの勉強をするなんて、冷めたコーヒーを飲むようなもんだよ。僕ら落ちこぼれはそう言って笑うんだ』 彼女はイタズラをしている子供をからかうように『へえ、私は絵を勉強してるの。時々もう描けないって思うことがある。そういう時、私たちは夏場の水道水をガブ飲みしちゃった気分って言って、笑うの』と返してきた。 彼女は客に呼ばれて行こうとしてしまう。『ワッツ・ユア・ネーム?』 咄嗟に僕は彼女に名前を聞いた。 『エマ』 それから僕はこのバーに通うようになった。あまり頻繁に訪れると怪しまれるから、月に三回くらいのペースで彼女に会いに行った。もちろん他の客と同じく、きみに会いに来たとは言わなかった。 何回か来て話すうちに、僕は最近習ったスウェーデン語をエマに披露する、というルーティーンが出来あがっていた。彼女は彼女で、いつも僕よりも先に今日はどんなスウェーデン語を覚えたのか、訊いてくるようになった。 『スヌッグ』とその日、僕は彼女に言った。 『ドゥー・アール・スヌッグ』 『私のことが綺麗だって? ありがとう』 『ヤー』 『それだけ?』 『それだけかって?』 『うん』 『じゃあ、コーヒーでもどう? その続きをコーヒーを飲みながら話すよ』 『コーヒー? ずっとコーヒーばかり飲んでるのに? ここはバーだよ』 『だよね。でもね、きみがいれたコーヒー、お世辞にもうまいとは言えないんだ』 『ハハハ、言われちゃった』 『この街で一番美味しいコーヒーを飲みに行こう。きみのコーヒーを毎回全部飲みほしているお礼に』 気が付くと、もうジョニー・キャッシュは流れていなかった。僕の知らない今風のただ明るいだけの音楽が、居心地を悪くしているだけだ。 僕たちは影法師から逃げるように、バーを出た。 外に出ると今朝エマが言った通り、雨が降っている。僕はエマの黒と赤のボーダー柄の折り畳み傘を差した。エマをいれて、少し傘を彼女の方に寄せた。 「ほら、やっぱり雨でしょ」 「よくわかったね」 最終バスに間に合うと、「ねえ、私って、エマ・セデーンじゃないかも。時々そう思うよ」とエマが真っ暗な窓の外を眺めながら言った。 「どうして?」 「今の嘘。本当のことを言うね。本当はよくそう思うよ。おなじ洋服を着ていても、おなじ靴を履いていても、私はあなたの知っているエマじゃないのかもよ。今は、これが私なのかも」 「わかってるよ」 「そっか、ならいいよ。それと私、定期検診でスウェーデンに戻るよ」 「前は半年後って、言ってなかった?」 「ううん、言ってないよ。ショウタは、いつも私の話、聞いてないよね」 「別れたいの?」 僕は少し食い気味に言った。 「別れないとわからないでしょ?」 〝何が?〟 僕はそう言いかけた。 6 『孤独だなんて、辞書か小説にしか出て来ない言葉だろう?』 『それは、翔太が本当に孤独になったことがないからだよ』 どこでこんな会話をしたのだろうか。どうしてかこの会話が朝起きた時から頭の中でずっと繰り返されていた。 僕はお爺さんの隣に座った。揺れる車内で、英語のテキストを広げてなにやら考え込んでいるようだ。 「あれ、どうしてgoing to とwill がここでは使い分けられているんだろうな。これはわからないね」と小さな声と溜息が重かった。余計なお世話と分かっていながら、僕は話し掛けてしまった。 「going toは計画的なんですよ。Willはたとえば、I will go to the bathroomと使います。トイレには急に行きたくなるものですから」 「なるほど」とお爺さんは狐につままれたような顔だ。 「ああ、そうか。あなた、外国のお嬢さんとよくお見かけする方ですね。今日はいらっしゃりませんね」 「ああ、はい」 「いつかね、僕の英語が伝わるかどうか、試してみようかなと企んでいました。でもまあ、そんな勇気はなかなかないんですけどね」 「いや、伝わりますよ」 「本当ですか?」 「ええ」 「実は、若いころにアメリカ軍の基地とイギリス軍の基地で、アルバイトをしていたことがあります。その時から、少し英語は聞き取れていました。よくアメリカ製のタバコやら、イギリス製のウイスキーやらを、軍人から頂いたんですよ。可愛がられていましてね。ジャック・ダニエルという、銘柄だったかなあ。まあ、だからアメリカ英語と、イギリス英語の違いはなんとなく聞き取れるんです。彼女さんの英語は、イギリス英語ではないですか?」 そう言うとバスが停車して、お爺さんが降りていく。 「今度会ったときは、英語で彼女に話しかけてあげてください」 お爺さんは立ち止まり振り返った。 「はい。わかりました」 バスが動き出した。僕は一週間分の洋服が詰まったスーツケースをしっかりと引き寄せる。 7 石畳の凹凸を足の裏に感じながら街を歩くと、低い建物の間に小道がある。僕はそこに入り込んだ。さながらタイムスリップでもした主人公のように、役目を全うすることに徹する。 ガムラスタンとは、スウェーデン語で『オールドタウン』という意味だ。 この場所はその名の通りストックホルムの旧市街で、今も小さな雑貨店やレストラン、バーなどが中世の街並みの中にある。石畳も昔のままだ。 小坂が多く、僕は上ったり下ったりしながら歩き回り、朝食のとれる小さな暖色のレストランを見つけた。 新聞を広げている少し歳を召した〝レディー〟の隣に座る。少しふくよかで、新聞を読んで暇つぶしといったところか。 ポニーテールの金髪の店員にスクランブルエッグとベーコン、パンを僕は注文した。ドリンクは隣のレディーが飲んでいるスパークリング・ウォーターを頼む。 「ジャパニーズ?」レディーが老眼の隙間から、好奇心旺盛な大きなくりくりの碧い目を覗かせた。 僕はイエスと答える。 「寒いでしょう? スウェーデン」 「ええ、まあ」 「あら、もしかしてここに住んでるの?」 「いえ、前はここで学生でしたが」 「オオカミではないのよ」 「わかりますよ」 「食べたりはしないわ。興味があるだけ」と大きく口を開けて笑う。それから思い出したような表情で「私は日本に行ったことがあるのよ」と話し始める。 断る理由は見当たらない。 「まだ私が十八くらいの頃ね。船で行ったの。乗組員に食事を作るシェフの見習いをしていてね。今は飛行機で眠っている間に着いてしまうようですけど、昔はそれはそれは遠かった。だから着いた時は」 両手で花火のようなジェスチャーを加えた。 「それはそれは嬉しかった。一人の日本人の女の子が港で私たちを迎えてくれてね。彼女はとってもとってもシャイな女の子だったわ。小さくて、真っ黒でシャイニーな髪を後ろで束ねていてね。うつむいたまま、私たちにライスボールをくれたのよ。でもそれがとてもとても美味しかった。ただライスを丸めただけのものなのに、なにか東洋の魔法がかかってるんじゃないかと、皆で疑ったわよ。その味はいつでも思い出せる、あれを超える料理はないわ。それが私の初めての海外旅行よ」 案外いい話だった。 「いつかそんな旅に出てみたいですね。でも船酔いが酷そうですが」 「慣れれば大丈夫。ここの若いシェフが作ったこのスクランブルエッグも、最初は決して素晴らしいものではなかったけれど、慣れとは恐ろしいものよ。今では完食できてしまうもの。ところであなた、一人で来たの?」 「まあ、はい」 「じゃあ、ガールフレンド?」 僕の表情を見て、「だと思ったわ」と大きなくりくりの目を更に大きくし、少し早めの誕生日プレゼントを受け取ってしまったように見える。 「じゃないと男一人でこんな寒いところに来ないもの」 金髪の店員がスクランブルエッグを運んで来た。 「ソフィア、このジャパニーズ・ジェントルマンがビューティフル・スウィーディッシュをジャパンに連れ帰ってしまうと言っているわ」 「グランマ、またそんなことを」 家族経営の店のようだ。 「こうしましょう、ジェントルマン。その代わり、あなたの可愛い妹をスウェーデンに連れていらっしゃい。私が良いハズバンドを紹介してあげるか ら。それならフェアじゃない?ディールね?」 「ええ、はい」 僕はスクランブルエッグを一口食べた。行ったことはないが、一流ホテルのスクランブルエッグと言われたら納得する。まだ起きたばかりの時差ボケに対応しようとする身体にとても優しく吸収されるから〝おもてなし〟すら感じる。 「アイ・アクチュアリー・リメンバー・マイ・カントリー」と僕は言った。 レディーは老眼の隙間からウインクして、「ユー・ディドゥ?」と言うと、また日本の新聞紙半面ほどのローカル新聞に視線を落とした。 『ボルボのV70。家族四人と愛犬が、無理なくピクニックに行ける車』 僕は路肩に止まっているボルボの前で、そんなことを言ったエマを思い出した。 エマはときどき夜になるとなにかを思い出すようで、そういう時は僕を呼んで、部屋の電気を消し、ベッドに入り込むことがあった。 『ねえねえ、翔太?私の夢はゴールデンレトリバーをトランクに乗せて、ピクニックに行くこと。あなたが運転して、私が助手席に座って、後部座席に子供がいるの。想像できる?』 僕は毎回『できるよ』と答えた。 『私のパパって、小さいときに出て行っちゃったじゃない?だからさ、そういうことしたことないの。かすかに覚えてるのはね、絵を教えてくれたってことだけかな。結構有名な画家だったんだよ、パパ。あれから一度も会ったことないけどね。でも、翔太に出会ってから、なんだかパパにまた会える気がするの。だって、日本人のボーイフレンドができるなんて、想像したこともなかったし』 『会えるよ、いつか』 『ねえ、翔太って、浮気とかする人?』 『ううん』 『じゃあ、女友達多かった人?』 『ううん』 『じゃあ、付き合うと長い人?』 『うん』 『じゃあ、証拠見せて?』 『ハハハ。どうやって?』 『じゃあ、物持ちいい人?』 『うん。零点だったテストの答案用紙を、額縁に入れて飾っておくぐらいだよ』 『えっ、なになに? それ面白いね。みたいなー』 『じゃあ、今度みせる。今も実家の子供部屋に飾ってある』 『うん』 あのときのエマは戻って来るだろうか。戻って来たら、見せなければならないものがあった。 ストックホルム・セントラーレン駅の構内に入った。 黒い屋根に白を基調とした貴族の邸宅のようなその外観は、意外にも慣用的に人々を招き入れている。 中に入ると、両足を失った移民が車椅子に座って、スウェーデン語でなにか叫んでいた。 段ボールにパンが入っていてそれを売っている。夕方の時間帯は一番人が多く通るから、必ずここに陣取っている。それは僕が学生だった頃から変わっていない。 八メートルほどの幅のエントランスで、邪魔にならないよう、斜め向かい側に立った。 どれくらい待っただろう、人の大群が駅構内に流れこんで来た。 常連客らしき人々が、手慣れた様子でコインをだして、パンを受け取っていく。 第一波が引いて、また少し待つと、第二波が来る。それが何回も続いて、人波の押し寄せる回数を数えるのに飽きた頃、僕はエマの姿を見つける。 冷めたパンを受け取った彼女の名前を呼んだ。 彼女は振り向いて、隅に追いやられている僕を見つけると、捨てられた子犬を見つめるような顔になる。 「Oh my gosh. Why are you here?」 「I just missed you, you know」 「私、翔太を心配させたよね」 近寄ると、機嫌の悪い子供がしがみついて来るように、エマは強く僕の腕を締め付けた。 僕の身体は反対に、この寒さの中で温かを増した。 ヨーテボリ行きの列車を待つ人々でロビーは混雑していた。 僕たちはベンチに座り、列車を待つ人々や、待ち合わせをしている人々に紛れた。 一度そうしてしまうと、ここは居心地のいい場所だった。だれも僕たちの存在を気にする人は居ないからだった。 「翔太? 私、日本の森をテレビで見たよ。ハヤオ・ミヤザキが描いた通りだった」 「そうだよ。僕がはじめて見た彼の映画は、マイ・ネイバー・トトロだったかな。トトロとは同い年だよ。二十五年前の映画さ」 「私がはじめて見たのは、プリンセス・モノノケ。ねえ、翔太?」 エマの視線は向かいに座るスウェーデン人の子供に向けられている。 「あの金髪は、いずれ色褪せて暗くなるよ。碧い瞳は、泣いたぶんだけ灰色がかってくる。私みたいに」 「それがスウェーデンでは大人になるってことなんだね」 「そう。でも悲しいことではないのよ。それを、小さい子たちに証明しなくてはいけないね。きっと」   ペンデルトーグと呼ばれる列車で十五分ほど揺られて、フッディンゲという駅で降りた。 煉瓦でできた街で、住んでいる人が多い街だ。    少し歩くとピザ屋がある。店内を覗くと二十代前半くらいのカップルが、慎ましくピザを切り合っていた。ワインボトルがテーブルの中心に置かれている。 エレベーターのないアパートに入り、ひたすら五階まで階段で上がった。この国ではエレベーターのない集合住宅がとても多い。 ドアを開けると、待ち構えていたようにエマの母、リンダが駆け寄ってきて、かなりタイトにハグされる。 スウェーデン訛りのある英語で、「お腹が空いているでしょう? たくさん作ったのよ。たくさん食べてね」と挨拶もほどほどに僕の手を引っぱる。でもそれが僕を安心させる。 僕は靴を脱ぎ、マフラーとコートをハンガーに掛けた。スウェーデンも日本と同じく、玄関で靴を脱ぐ習慣がある。 席に着くと、リンダがさっそくライトビールと呼ばれるアルコール度数の低いビールをグラス半分注いでくれる。 クリスマスツリーの刺繍がされた赤色のテーブルクロスが敷かれている。 エマが電気を少し暗くし、キャンドルをテーブルの真ん中に置いた。四本のキャンドルが横一列に並べられ、左から三本に火を付ける。 クリスマスまであと一週間ちょっとだ。スウェーデンではクリスマスの四週間前から一週間ごとに火を付けて、クリスマスを迎える準備をする。 「雪がまだ無いけど、今晩降るらしいの」とリンダが言った。 「もしかして、ショウタが日本から雪を降らせる神様を連れて来たんじゃない? 日本には色々な神様がいるって聞いたわよ」 「そんな神様知りませんけど、知らないだけに連れてきてしまった可能性はあります」 「飛行機で隣の席だったかもしれない。どんな人だった?」 「頭の薄いおじさんですよ。たぶんスウェーデン人ですね」 「じゃあ彼は違うわね。だって頭の薄いおじさんはスウェーデンに腐るほど居るから」 「それに神様なら是非ファーストクラスに搭乗して頂きたいですよ」 リンダはジュル・ムストをライトビールの入った僕のグラスに注いだ。シャンパンのように弾けて、準備万端だ。 パプリカとチキンをトマトソースで煮た物は、僕の一番好きなリンダの手料理だから、なにも言わずさっそく料理を取り分け始める。 ゲストルームに入ると、リンダの言った通りバスタオルとパジャマが、綺麗にベッドメイクされたその上に置いてある。 夜道、雪が降ってきたら大変だからと、泊まる準備をしてくれた。 僕は窓から坂の下のフッディンゲの街並みを眺めた。ピッザリアの明かりを見て、あのカップルはどうしただろうと思った。 すると、なぜか蘇って来ることがあった。電車に乗り遅れそうなときや、重い荷物を持っているとき、喧嘩をしたときも、僕は拗ねて早歩きになるのだけど、そうするとエマもたちまち不機嫌になることがあった。 ふと、『翔太!』エマの鼻に掛かったような声が、頭の中でリフレインする。 記憶が鮮明になっていき、血管が開くように僕の体は熱くなった。まるで体の芯が震えるようだ。 「翔太? コーヒーがはいったよ」 そのエマの声が僕を現実に引き戻す。 「ねえ、なんだかんだ、僕はきみのいれてくれるコーヒーが好きだよ。本当は、マズくなんかなかったんだ」 「なにそれ?」 そう言って彼女が近づいて来る。 「いいんだよ。こっちの話」 8 朝起きると、街が砂糖に埋もれるように真っ白だった。まるでお菓子でできた街だ。 「ショウタ、私の言った通りでしょう?」 リンダが僕の顔をみて言った。 テーブルにはスウィディッシュ・ブレッドと呼ばれるコーヒープレートほどの、丸い円盤の形をしたパンと、言いすぎかもしれないけど、木の幹のように分厚いチーズ、バターが置かれ、グラーシュと呼ばれる、少しスパイシーなスープが用意されていた。 コーヒープレートほどの円い、スウィディッシュ・ブレッドを三枚レンジで温める。それからバターを塗り、チーズスライサーでチーズを薄く削ると、それをのせて食べた。温めると食感がもちもちとして、ライ麦の香りと甘みがでる。 リンダはその横で数独を解いている。 何一つ変わらない、僕の知っているスウェーデンの朝。 エマは昨日と同じく、卒業した美術学校で絵を描かせてもらうと言う。   僕とエマが家を出るとき、リンダが寒いからお腹を壊さないようにと、ホットミルクの入ったタンブラーを持たせてくれる。 「ショウタ、カム・ホーム・エニータイム」 その言葉がホットミルクを持った右手だけではなく、ハートも温めてくれる。 「ねえ、翔太。本当は昨晩、雪が降るなんて予報無かったんだよ。今朝降る予定だったの」 「きみはリンダから同じ特技を受け継いだんだね」 「そう。雪国の女の特技だよ」 雪国の女がなにかの理由づけに天気予報をするのはどうしてだろう。 ホームに着くと、ストックホルム・セントラーレンへ行くペンデルトーグは、寒さで止まっているように見える。 この列車は旧型で、見た目は角張り、色も褪せている。 列車に乗ると、僕らは進行方向に向いた二人掛けのシートに座る。 車内のヒーターは効いていなかった。でも着込んでいる所為で寒さは感じない。外気に当たらなくなるだけで違う。 なかなか列車は発進しない。乗客はボタンを押し、扉を開閉し乗車する。すると突然列車の中が暗くなる。 スウェーデン語でアナウンスが流れた。雪の所為で電気が届かない。よくあることだから誰も驚かない。 その静かな空間が、デジャブのように思える。僕は失っていた記憶が再生していくように、あの湖に行った日のことを思い出す。エマが記憶を失う一時間前のことだ。あの日も、同じように突然列車内が暗くなった。大勢の人が降りてバスに乗り換えていった。でもエマは岩になったように、暗い車内から動こうとしなかった。 『翔太は、孤独になったことがないからだよ』そうエマは僕に言った。 『孤独とどう関係があるんだよ』 『ううん、翔太にはわからない』  気が付くと列車は走り出していた。 「寒くない?」 「ううん、スウェーデン人だから」   僕はホットミルクを手に取った。聞かなければならないことがあった。でもそれがなんなのか分からなかった。 孤独か、と僕は思った。 9 ルシア役の先頭の少女は、キャンドルの冠を被り、その後を白いローブを着た少女たちが続き「サンタルチア」を歌う。ルシアは闇から光と共にあらわれたと言い伝えられている。   僕たちは石畳の小道を上ったり、下ったりした。 予約していた小さなレストランに着くと、装飾の施されたモミの木のクリスマスツリーが店の前に飾られていた。   レストランは満席だった。エントランスで少し待つと、白いワイシャツのレディーがやって来る。 「ウェルカム・トゥ・マイ・レストラン」そう老眼の隙間から大きなくりくりの目を覗かせて言った。あのお婆さんだ。   僕はビールを、エマは赤ワインを頼むと、テーブルの上にある真っ赤なキャンドルに火を灯す。 「じゃあルシアに」 小さなレストランにグラスの音が響く。 ガーリックバケットが細長い皿に並び出てくると、エマは今まで食べたガーリックバケットで一番美味しいと言う。 メインディッシュのラムのスペアリブがくると、指を脂でぎとぎとにしながら、でも着ているドレスを気にする素振りもなく、今まで食べたラム料理で一番美味しいと頬張る。 エマは大きな瞳を輝かせ、僕の海老のチャーコルグリルを欲しがった。檸檬を搾り、エマの口に運ぶと、「翔太、こんなに太った海老が存在するのね」とため息を吐いた。 彼女は食後にスパークリング・ワインを頼んだ。 寒い日に空に散らばる星のような目をしているエマを前に、こんな時にこんなことを言うのはどうだろうと思う。でも、こんな時にしか言えない気がする。 「僕は、きみのお父さんがどこかスウェーデンの森小屋に住んでいる、そんな想像をする。きみの好きなハヤオ・ミヤザキのキャラクターにでてきそうな、頑固だけど心優しい『白髪のスウェーデン人』になっていて、好きな絵を、好きな景色を描きまくっていて、今もきみと、きみのお母さんのことを、寝る前に思い出している、そんな想像をする。僕はどうしようもない奴だ。〝きみがなにを忘れてしまっているのか〟僕にはわからないんだから」 湖から引き上げられた、もう輝きそうもない記憶を一瞥するような目が、僕の前にある。 「ねえ、きみのお父さんに会えた時の話をしよう」 「パパはどこか小さなスウェーデンの森小屋に住んでいて、私の好きなハヤオ・ミヤザキのキャラクターにでてくるような、優しい目の、ダンディーなおじいさんになってる。狩りをして暮らしていて、でもパイプタバコを吸いながら、好きな絵を描きまくっている。時々、いや、決まって眠るころになると、私と、ママのことを思い出す。誰かにパパのことを尋ねられたら、この話をす るわ。そしたら、もう可哀想だなんて思われないよね?」 「私、絶対パパは探さない。だって、パパから会いに来てくれる。その時はすっごくビックリするよ、すっごく美人になったって言うと思う。それで翔太はラッキーだって、こんな美人はめったにいないぞって。そしたらね、ここのレストランがいいと思うの。落ち着いていて、少し暗いから、私がぴったりした胸元の開いたドレスを着たら、セクシーに見えるでしょ。きっと誇りに思うって言ってくれるよね、そんなドレスが似合うようになったんだって」 スパークリングワインを片手にレディーはやって来ると、グラスに注ぎながら、炭酸の弾ける音に耳を傾けるよう、エマに訊いた。 「ワイ・アー・ユー・クライング?」 「アイ・ドント・ノウ」 「思い出した。私もあなたのように泣いていた頃がある。でも、その理由は思 い出せない」 「なぜ?」 「わからない。でも、あとでコーヒーをいれてあげる。この街で一番美味しいコーヒーを」 「オールドタウンで一番美味しいコーヒー? その味は覚えている気がする」 「忘れられない思い出が、私にもあるのよ。覚えておきたい記憶以外、私は忘れてしまうことにしてるんだけど」 「そんなこと、上手くできますか?」 「あなたにもいつかね。でも、まずは泣かないことね。幸せが逃げて行ってしまうから。でももしも泣いてしまったら、またいらっしゃい。今度は、スクランブルエッグを食べにいらっしゃい。きっと昔の幸せな記憶を思い出せるから」 10  アーランダ・エクスプレスがストックホルム、アーランダ空港に向かう列車の中で、僕はエマの父親の話をした。 「きみのお父さんは、狩りの腕前が相当なものなんだ。絵を描くことよりもずっと上手くなってしまったよ。細くて繊細だった手もね、今ではスゴイ、指輪は指に埋め込まれていると表現したほうが正しいくらい、ずいぶんタフになったんだ。でも、そのくらいでいいんだ。心配することはないんだ」 空港に着くと、いつもと同じようになにかに急かされているように思う。そしてそれが終わるのが、やっと座席に着いた頃なのだけど、いつものらりくらりとその間の二時間をやり過ごすことになる。 チェックイン・カウンターに並ぶと、エマが迷子のようにベンチの前で佇んでいるようにみえる。列を外れ、僕はエマのもとに行く。 「どうしたの?」 「ううん、疲れてしまっただけだよ」 「じゃあ、少し休もう」  一時間三十分、僕とエマはチェックイン・カウンターの前に居た。するとその姿に気が付いたグランド・スタッフが僕らのもとへやって来た。 「どうなされましたか? ご搭乗手続きがまだお済みではないようですが」 「諸事情で、待っているんです」 「待っている?」 「はい」 「失礼ですが、どなた様を?」 「いえ、人ではないんです。ほら、たまに見かけることがあります。やっぱり怖くて乗れないと言っている人や、座席でうずくまり、ずっと目をつむって祈っている人です。そういう人たちと同じで、僕たちも勇気が湧いてくるのを待っているんです」 「……わかります。そういうお客様もいらっしゃいますから。そういう時に、私は時々こうお話させて頂くことがあります」 「飛行機は車よりも安全な乗り物、という話ですか」 「いえ、違います」と微笑む。 「お二人を見て、私は羨ましく思います」 「どうして?」 「だって、お一人で搭乗するということは無いのでしょう? 乗るも乗らないも、一緒なんでしょう? きっとお二人は繋がっているんですね。心や、胸や、記憶や、どこか奥深くで」   グランド・スタッフはあともう少しだけ待てると思うと言って立ち去った。 「翔太?」 「なに?」 「Never leave me alone」 「Never leave you alone」 「Shota?」 「Don`t say anything. Baby, come closer」                              The End
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加