ムスカリをまどろみに

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           11 「二人ってもしかしてより戻した?」 「いや、戻してないけど……何で?」 「別に、なんとなく」  聞くだけ聞いてもう興味をなくしたらしく、紫織はフライドポテトに手を伸ばす。  春休み、無事に大学生活一年目を終えた今は夏休み同様二ヶ月の長期休暇の真っ只中だ。  三月に入り、今日は四人でファミリーレストランに集まって、二年生もフル単頑張ろう会をしている。隼人と亜紀はドリンクバーに飲み物を取りに行っているため席に不在だ。  「俺が行くよ」と自ら那央の分も取ってきてくれるという隼人と、「俺の分もよろしくー」と紫織に押しつけられた亜紀のおかげで二人は席に残っていた。 「えっ、ねえなんとなくじゃなくてさ。俺たちってやっぱり何かおかしい……?」 「いや、本当なんとなく思っただけだから、気にすんな」  この話はこれ以上広げるつもりはないと、わざとらしく「それより見てよ」と最高レアが三枚出たガチャ結果のスクリーンショットを向かいの席から見せて話を逸らしてくる。  それ以上踏み込んで聞くことができず紫織のスマホをのぞき込むが、やっぱり第三者から見ても俺たちの今の距離感はおかしいのかな、ということで頭がいっぱいだった。  別れてからあからさまに距離を感じていたのは一ヶ月ほど、その後は徐々に元通りの距離感で過ごせるようになっていった。  そんな都合良くいかずに別れてそのまま疎遠になる可能性もあったので、自分の気持ちは別として友達としての姿を取り戻せたときには嬉しかった。  そうやってあたかも自分の思い通りに事が全て運んでいると楽観視していたからか、もしくは恋愛感情を伴った好意を向けられたことがなかったせいか。  隼人にとって自分という存在は本当に友達なのだろうか、と確かな疑問を持ったときには紫織からよりを戻したのかと疑われるほどになっていた。  目に見える行動としては些細な変化だ。  例えば大学で、ふざけて亜紀を含めた誰かの手が触れた際にはやんわりとどけさせて、気がつけば以前ほどではないにしろ大抵の時間で那央の隣を隼人が独占している程度。  例えば家で、いつの間にか風呂の後に髪を乾かして貰うのが日常になっていて、ふとした時に並んでソファに座る距離が意図せずに手や肩がぶつかるくらいに近い程度。  対して明らかなのはその態度と視線。  基本的に隼人は昔から誰にでも分け隔てなく優しいのだが、那央に対しては過保護に思えるほどの気遣いと顕著な最優先具合を見せる。  那央が他の人と話しているときにやたら感じる視線、面と向かっている時に時折感じる熱を帯びた目線と甘い声。  大事な宝物のように接してくる姿に、何度も今は友達であることを忘れそうになった。  本当にただの友達だった時にも、隼人の心情はそれどころではなかったとはいえ付き合っていた時ですら感じなかった程の甘ったるさでようやくその予感に気がついた。  「今度こそ本当に両思いだよ」と囁く自分と、「何のために別れたか忘れた? それは勘違いで間違った関係性だよ」と囁く自分。どちらが天使でどちらが悪魔なのだろう。  そしてそういった言動に触れた晩、決まって悪夢を見るのだ。生気がない顔の自分が立っていて、不思議とそれが知るよしもない元の世界の自分だと分かる。何をするべきか分かってるでしょ? 隼人にとっての普通は? 幸せは? 隼人の未来を奪うの? と執拗に責め立てる悪夢だ。  もう少しだけ甘い夢を見させて、それが日に日に酷くなる悪夢に対するここ数日の寝起きの第一声だった。 「はい、りんごジュース」 「ありがとう」  昨晩も見た悪夢を思い出しながら紫織のスマホを眺めていると、いつの間にか隼人が戻ってきていた。  途中で一度紫織に何を飲むのか聞きに戻ってきた亜紀に対して、隼人は何も聞かずに那央が飲みたいジュースをしっかり氷少なめ、ストロー付きで持ってきてくれる。 「ドリンクバーの好みも完璧ですか」 「那央検定があったら一級取れる自信があるからこれくらい余裕」  目の前にいる露骨に引いた顔をする紫織と、左隣に座った得意げな隼人。自分よりも自分のことを理解してくれる隼人が嬉しくて、今日の夢もまた悪夢かなと憂鬱になった。相談しようもないどうすることもできない悩み事は忘れようと、ストローを指して一気にリンゴジュースを吸い込んだ。 「ちょっと待ってください!」  アルバイトを終え、お先に失礼しますと店を出たところで呼び止められる。  後ろ姿を追いかけてきたのは同じく十七時終わりのシフトだった女子高校生だった。 「芳賀さんって羽風さんとは昔からの知り合いですよね? 羽風さんって女関係で何か凄いトラブルでもあったんですか?」  白い息を弾ませて駆け寄ってきた少女が必死な顔で詰め寄ってくる。 「知らないけど、急にどうしたの」  勢いに押されて一歩後ずさりする。少女はそれ以上に近づくことなく、大きなため息をついて立ち止まり「聞いてくださいよー」と嘆いた。 「羽風さんってマジイケメンだし優しいじゃないですか。それで好きだなーと思ったからこないだつい告白しちゃったんです、そしたら振られちゃって。それでなんでダメなんですかーって聞いたらそもそも彼女作る気ないって言われたんですよ。あのスペックで彼女作る気ないとかもったいなさすぎません?」  そこまで那央が口をはさむ余裕もなく一息に言い切る。告白をされた話も彼女を作る気がないという考えを持っていることも初めて聞いた那央は、「そうなんだ」という相槌を打つことしかできない。 「よーするに愚痴言いたかっただけです。あの羽風さんに彼女いないどころか作る気すらないの普通におかしくてつい呼び止めちゃいました。ではリアタイで見たいドラマあるんでお先に」  言いたいことが言えて満足したらしく、肩をすくめた彼女は会釈をして自転車にまたがると颯爽と去っていく。 「普通におかしい、か。普通……ね」  残された那央は嫌に頭に響く言葉を繰り返しながら大きく息を吐き出して帰路に着いた。 「ただいまー」  いつも通りに帰宅の言葉を告げても何も返ってこない。誰もいないリビングにそういえば、今日隼人は打ち上げでいないんだったと思いだす。  グループワークの打ち上げが、何でも皆の予定がなかなか合わなかったらしくようやく開催できたそうだ。  本人はあまり乗り気ではなかったが、どうにか全員参加できるよう試行錯誤計画を立ててくれている中で断ることは出来なかったらしい。  ダイニングテーブルの上には家を出る前に作ったと思われる那央の為の夕食が、まだ仄かに熱を持ったまま置いてあった。  普段からお互い口数が多いわけではないが、隼人がいないというだけで家の中がやけに静かで広く感じる。 「ごちそうさまでした」  食器を洗い片づけ終わって時計を見れば、そろそろ打ち上げもお開きの時間だろうか。  暇つぶしにスマホでもいじっていようかと写真共有アプリでストーリーを閲覧していく。  タップをしながらいくつか再生したところで手が止まった。テンポよくタップを続けていたせいで次の投稿に移ってしまっていたが、急いで画面左側をタップして一つ前の投稿に戻る。  それは同じ学部の同期生による投稿で今日の打ち上げの記念写真らしく、見たことのある顔ぶれの中に隼人もいた。隣にはやけに距離が近い美女が座っている。写真を撮るために詰めたせいか、距離が近いどころか軽く隼人の腕に触れているようにも見える。  突如わいてきた不快感に見ていられなくなり、投稿が先に進まないよう置いていた指が離れる。 数秒後に移り変わった次のストーリーは高校時代の同級生のものだった。彼は今、本来隼人が行くはずだった大学に通っているはずだ。  隣にいるのはおそらく彼女だろう、テーマパークのフォトスポットの前でおそろいのカチューシャを着けて二人で楽し気にポーズを決めていた。  いつもは気にも留めない、というより気にしてしまうと考えたくないことを考えざるを得ないため気にしないふりをしているその投稿がやけに目に焼き付いた。  これが普通だ、普通の幸せだ。俺さえいなければ隼人にも訪れていたはずの。  本来ならば彼と同じような未来を歩んでいたはずの隼人。別れた時くらいから頭の片隅に生まれては見ないふりをして後回しにしていた思考が鮮明になる。  俺は確実に隼人から正しい未来を奪った。俺が死ななければ、そもそも自己満足の告白なんてしなければ、隼人が過去に戻ったり意に反して付き合ったりすることはなかったのだ。  友達に戻ればそれでいいだなんて甘えた考えで、最近なんてやっぱり両想いだったんじゃないかなんて浮かれて、自己中にも程がある。  今まで噛みしめていたのは隼人の本来あるべき人生を犠牲にした上での紛い物の幸せだ、という自覚が足りていなかった。  あったものはあった場所へ返さなければいけない。隼人の未来を元通り返さなくてはいけない。 本当は何をすべきか最初からわかっていたのに、自分可愛さにそれを最終手段として放置していた。 「やっと分かった? もう十分思い出はもらったでしょ?」  今は夢の中ではないのに、元の世界の自分が目に涙をためて微笑んでいる。 「全てを元通りにしようか」  隼人が知ったらきっと止めるに違いない。直に帰ってくるはずなのでそれまでにすべてを終わらせなくては。  コートを羽織りスマホだけポケットに入れると、考えが変わらないうちに早足で玄関へと向かう。  もう三月ではあるが夜はまだ大分寒い。ドアを開けた瞬間に襲う冷え切った空気に足が止まる。  それでも意を決して外に踏み出した那央は、家を後にする前に最後に振り返った。閉まりゆくドアの隙間から廊下に二つ並んだ各自の寝室と、奥には一番多くの時間を過ごしたリビングが見える。 「行ってきます」  もう帰ってくることがない自宅へそっと一人別れを告げた。  心を無にして無我夢中で歩いていたが、目的地に近づいたところでようやく家を出た時にでも連絡を入れておくべきだったのではという考えに至る。  不在を心配しながらもたどり着いたアパートで、幸いにも目的の一室の窓から明かりが漏れているのを確認できた。  これを押したらもう後戻りはできない、夢は終わる。インターホンの前まで来たが怖気づき、なかなか呼び鈴を押せない。  躊躇っているとブブッという振動を感じ、その在処からスマホを取り出す。  『今打ち上げ終わった。帰りにコンビニ寄るけど何か食べたいものとかある?』というメッセージが隼人から届いていた。  スマホのロックを開ける前の通知欄で見ていたせいですぐに画面は暗くなり、メッセージは視界から消える。  スマホ側面の電源ボタンを押すと再度表示されたメッセージを、そのままロックを開けることなく目に焼き付けた。  そしてアプリを開いて既読を着ける動作をせずに、画面がまた消える前に電源ボタンを長押しして今度は主電源を切った。  ――ピンポーン  主電源が切れたためもうメッセージが届いても分からないスマホをポケットに仕舞い、事務的にインターホンを押す。 「何時だと思ってんの」  テレビモニター付きのはずなので応答せずとも来訪者が那央だと分かったのだろう。インターホンを押して少しすると、玄関扉が半分ほど開いて酷く迷惑そうな顔をした紫織が顔を覗かせる。時刻は二十時過ぎ、突然の来訪を怪訝に思うのは当然のことだ。 「突然ごめんね。今ってお邪魔しても大丈夫?」  そもそも那央が夜遅くに突然訪れるなんて今までになかったことだ。何か大事な用事でもあるのだろうと察してくれたらしい。  一言「入れば?」と告げて大きくドアを開けて招き入れてくれた。  スタスタと先を歩く紫織に続いてキッチンを通り過ぎて居室に入る。先に部屋に入った紫織はさっさと部屋の中央に置かれた炬燵の中に潜り込んでいた。ドアの前に黙って突っ立ったままでいる那央のことは気にも留めず、皮を剥いた蜜柑の白い筋を取っている。 「ねえ紫織、前言ってた時を戻せる時計って今持ってる?」 「なんで?」  一瞬で訪問の意図に気づいた紫織の責めつける視線に怯むが、後戻りするという選択肢を捨てた那央は対峙する外ない。 「見せて欲しいんだけど」 「だからなんで?」  目を逸らした方が負けだとでもいうように、両者視線がぶつかったまま一向に譲らない。  隼人が不審に思って自分を探し始めるまでのタイムリミットはそう長くはないだろう、と心の内では焦りが募る。強硬手段に出たところで身長と体格差から考えると上手くいくかは賭けだ。できれば穏便に済ませたい。 「……面倒なことに巻き込まないでほしいんだけど」  埒が明かないと思ったのだろうか、先に折れたのは紫織だった。  これ見よがしに大きなため息をつくと蜜柑をそのまま、立ち上がってベッドサイドに向かう。そして目覚まし時計の横に置かれた木箱を手にした。 「これ寄木細工の秘密箱。万が一にも開け方バレたくないし、後ろ向いててもらえる?」  その気になってくれたのに逆らって気分を害しても困るので、那央は大人しく指示に従った。  少しして「もういーよ」と声を掛けられたので振り返ると、箱から取り出したと思われるアンティーク調の懐中時計が紫織の手の中にあった。時計自体は片手に収まるサイズで、銅色の長い鎖が零れたそれは遠目には特別何かが変わっているようには見えない。 「何となく察しはつくけど、何をするつもりかだけ教えてよ」  懐中時計に吸い込まれるように近づく那央が目の前まで来ると、しっかりと時計を握りしめたまま紫織は言った。指に力がこもっているのが分かり、言うまでは渡さないという意思が伝わってくる。 「全てを、元に戻そうと思って」 「元って?」 「一番最初。時を戻して、隼人と俺が付き合わなかった世界に戻す」  終止感情を見せなかった紫織もその言葉にはピクリと眉を動かして反応を示す。 「はぁ? 今この世界で上手くいってんじゃん。なのに何のため? 意味わかんないんだけど」 「だって、俺に都合がいいように上手くいってるだけでしょ。本当だったら隼人はここじゃない違う大学に行って、彼女作って、その先には今の世界ではたどり着けないような未来があって。それを全部俺が奪ってる、だから全部なかったことにする。それが正しい世界でしょ」  珍しく声を張る紫織に負けじと那央も声を荒らげる。大きな声を出すのも、一気にこんなにも言葉を発するのにも慣れていないため疲れて肩で息をした。 「分かってる? 元に戻すってことは、未来が変わるための行動を起こさないってことは、きっと那央は死ぬことになるよ。気を付けて生活すればいいとかの問題じゃない。それでもいいの?」 「分かってる。でも、それでどんなに隼人がショックを受けたとしても一度時計を使用したことがある隼人はもう時を戻せないんでしょ? なら大丈夫」 「いや、那央自身の話をしてるんだけど……」  大きなため息をつき、悩ましそうに時計を持っていない左手を首にやる。  そして暫く目を閉じて俯きながら長考した後、そのままグイッと右手ごと時計を押し付けた。ジャラッと鎖が揺れる音が耳に響く。  恐る恐る受け取ったハンターケース型の懐中時計にはしっかりとした重みを感じた。蓋を開けるとそこには風防がなく、むき出しの針が一秒一秒時を刻んでいる。 「過去の隼人は何も知らない隼人と、時を戻した記憶がある隼人のどっちなんだろ。後者だったら計画を上手く遂行するの、ちょっと大変そうだな」  もしも那央が死ぬ未来を知っている隼人だったら、那央を繋ぎ止められるよう奮闘してくるのを逃げ回らなくてはならない。大学も今と同じところではなくどこか遠いところを受けて連絡先も繋がりも完全に消さなくてはならない。  知らんぷりをしたが、自分が死ぬと分かっている行動を起こすことへの怖さはもちろんある。そして何よりこの先待ち受けるのは隼人がいない日常で、この世界では隼人と共に過ごした日々と同じ日を、そんな一日一日を思い出しながら一人虚しく空虚な毎日を過ごさなければいけない。  今の自分の行動をどんなに後悔したところで隼人も自分も一度時を戻してしまったのならば、もうやり直すことはできないのだ。 「紫織、これってどうやって使うの?」  無理やり笑顔を作ってわざとらしい明るい声で問う。慈悲のこもった目で見つめていた紫織は一言「馬鹿だね」と呟いた。 「針を回すんだよ、時計回りに何周も。その内勝手に回り始めるから、そうなれば気づけば過去に戻ってる。戻ったらその日の行動で確実に未来が変わるようなことをすればいいだけ」 「分かった、ありがとう。迷惑かけてごめんね」  那央が微笑んでお礼を言うと「馬鹿だよ、本当」と倒れこむように後ろのベッドに腰掛けた。  那央はもう一度手にしている時計をまじまじと観察する。風防がない以外に特に変わった点はなく、こうしている間にも時を刻み続けている。観察する中でいつの間にか九時を過ぎていることを知った。   一度大きく深呼吸をした那央はゆっくりと震える人差し指を長針へ寄せる。ひんやりとした感触の針は那央が振れた瞬間にピタリと動きを止めた。  案外簡単に動く針をゆっくりと時計回りに動かしていく。一回転、もう一回転。  徐々に指を動かす速度を速めていくのと同時に、瞳からは堪えきれなくなった大粒の涙が次から次へとあふれ出す。  一度ストッパーが外れてしまえば、壊れた蛇口のように流れ続ける涙のせいで前がよく見えない。  それでも指先だけの感覚を頼りに、止めることなくひたすら回し続けた。  時計を回すことだけに全ての神経を向け、もはやすぐそばにいるはずの紫織の気配も感じず、自分の荒い息も鼻を啜る音すらも聞こえなくなっていた。  ――ぐるぐるぐるぐる  今は一体何周目だろうか。まだ針が勝手に動く感覚は分からない。  ――ぐるぐるぐるぐる  早く、早く。意図せず、時計を掴んでいる方の手に力がこもっていく。  後どれくらい回せば良いのだろうか。早く動き出して欲しい、止まったままでいて欲しい、上手く呼吸ができない。 「――っ!」  何か近くで大きな音がして、それに気がついた瞬間にはもう針と指は引き離されていた。  動力を失ってピタリと動きを止めた時計の針、左右の手首をそれぞれ掴む手、自分を包み込むように回されている腕、背後から聞こえる荒い吐息。  徐々に感覚が戻るにつれ、自分の置かれた状況が明らかになっていく。 「那央……」  後ろからすり寄るように項垂れた顔が近づいて、耳元で馴染みのある愛しい声がした。 「……隼人、なんで」  ――失敗した。  過去に戻れなかった那央からはすっかり力が抜けて腕がだらんと重力に従って降りる。手首を掴むのをやめてゆっくりと抱きしめる形で身体の前まで来た腕が、ついには全身から力が抜けて崩れ落ちる那央を支えた。  ゆっくりと後ろにあったベッドに座らされ、握るというより置いてあるという方が正しい手の中にあった懐中時計は回収される。  回収される様子を虚ろに目で追い、いつの間にかベッドから離れたところに立っていた紫織の手に時計が戻ったのを見届けて計画が完全に失敗したことを痛感した。 「なんでこんなこと」  床にしゃがむ隼人が俯く那央の顔を覗き込み目線を合わせようとするのを、遠くへ目をやって拒否した。 「なんで来たの」  後もう少しだったのに。  その問いに答えたのは紫織で、通話終了と表示されたスマホの液晶画面を面倒くさそうに見せてくる。 「さっき箱開けるときに電話繋いだ。これは二人の問題だろうから、俺がコンビニに行ってる間にでも決着付けといて。これはここ置いとくから」  それだけ言い捨てるとテーブルの上に懐中時計を置き、代わりに財布とクローゼットの中のコートだけを手に取ってさっさと部屋を後にする。ガチャリと玄関扉が閉まる音がすると一帯は無音となった。 「別れた後も気持ちは消えなかった。でも那央はこの気持ちを勘違いだって言うから、俺なりに自分の気持ちが本当に恋愛感情なのかどうか考えてみた。男女共に交友関係広げて色々な人たちと関わるようにしてみた。告白をされることもあった、でもその人達には悪いけどその度に違うって思った」  黙ったままの那央の手を取って、反応がなくとも構わずに続ける。 「紫織から元の世界での林野との関係を聞いた時には言葉にできないほどの嫌悪感が凄くて。今の世界では誰の記憶にも事実としても残っていなくても、俺の知らない那央の姿を見た人がいるって言うのが嫌だった。面倒くさいと思ってた嫉妬がどういうものなのか初めて知ったんだ。本気で好きになるっていうことは、そういう自分でも知らなかった自分も知っていくってことなんだね」  照れくさそうに笑う隼人の姿が視界にぼんやりと映る。紡ぎ出されるのは都合の良い夢のような言葉。ただ、お互いの体温を分け合う手の平が現実だと教えてくれている。 「ねえ那央、これでもまだ俺の気持ちを勘違いだって言うの?」  まっすぐ心に響いてくる声も真剣な眼差しも、どちらをとってもそれが嘘偽りのないものなのだと示してくるようだった。 「でも、例え今の隼人の気持ちが本物だとしても、それはまがい物なんだよ。タイムリープなんて非現実的な事さえ起きなきゃ生まれなかった気持ちなんだから。だから少しでも正しい世界に戻そうとしたのに、なんで来ちゃうんだよ」  隼人の言葉を受け止めるばかりだった那央もついに絞り出した声で反論を漏らす。全てが自分に都合の良い甘い言葉に耳を塞ぎたくなるが、両手を隼人に握りしめられているためそれは叶わない。 「結局はそこか」  それだけ呟いた隼人は立ち上がるとそのままドカッと那央の隣に腰を降ろす。反動で微かにベッドが揺れた拍子に隣を見ると隼人と目が合う。 「那央はさ、誰かのためにどこまでできる?」 「え?」 「例えばさ、一人乗りの船に自分が乗っていて、 目の前で誰かが溺れかけている。その誰かを助けるためには自分の安全を捨てて海に飛び込まなくてはいけない。誰のためにならその行動を取ることができる?」  突然の前触れのない例え話を投げかけられる。自分の命の保証はなくても誰かを助けたいと思うこと、今の自分の状況がまさしくそうで隼人の幸せのためならば自分の命も惜しくないと思ってしまっている。 「俺はね、那央相手にならその行動が取れると思ったんだ」  隼人にならばと思っていたら、隼人は那央ならばと口にした。 「ただの友達相手にいくら急に死んだからってその理由を突き止めに大学まで押しかける? それで、時は戻せるけど未来がどう変わるかは分からないから代わりに自分が死ぬ可能性もあるよ、なんて初対面の奴から言われた言葉に縋れる? 俺は那央じゃなかったらこんなことできてない」 「そんな風に脅されたのにタイムリープしたの?! 自分が死ぬかもしれないのに?! 俺はそんなこと望んでない!」  必死になるあまり左手をベッドについて隼人に向かって前のめりになる。隼人はいたって落ち着いたまま優しく那央を抱き寄せた。 「それでもいいって思えるくらい那央の存在が大切だった。那央だって今、自分の命より俺の元の世界での日々が大事だって同じように躍起になってるじゃん。それを俺はこれっぽっちも望んでないのに」  その言葉に何も言い返せなくなった那央は、そのまま久々に密着した隼人に包み込まれていた。 隼人が勝手に望んだことは俺が望んでいないことで、俺が勝手に望んだことは隼人が望んでいないことで。何が正解なのかがもはや分からない。 「それまで女の子しか好きになったことがなくて、突然だったから那央を振ったけど、本当はあの時から那央の存在は友達以上だったのかなって今なら思う。いつも隣にいるのが当たり前で、自分の中を占める那央の大きさに気づけてなかった。恋人として約一年過ごして、一度別れて自分の気持ちを見つめ直したけどやっぱり誰よりも好きだなって思うよ。正しい元の世界って那央は繰り返すけど、俺にとっては那央と俺が今いるこの世界が正しい世界だよ。元の世界なんてそれがあって今があるっていうただの過去の一部じゃん。今いるこの世界で俺と一緒の未来を見てよ」  訴えかけるように強く、でも心を込めて優しく。自身の全てを託すようなメッセージは捕らわれた過去の自分をも抱きしめるようだった。温かい涙が隼人の胸のあたりを湿らせた。 「……俺は、隼人のために……」 「俺のことじゃなくて、那央がどうしたいのか教えてよ……。俺は、俺の隣で、那央に幸せになって欲しい。那央はどうしたい?」  隼人のためにではなく、自分がしたいこと……。 自分を抱きしめる力が強くなるのを感じる。少し顔を動かしてテーブルの上に視線を向ければそこに懐中時計はあった。  なんとなく、今そこにある懐中時計を掴んで走ったならば満身創痍の隼人から逃げ切れる自信があった。  その想像通りに抱きしめられている力強さの割に簡単に隼人の腕から抜け出した那央はふらりと立ち上がる。  そしてテーブルの上の時計を手に取った。鎖をつまんで文字盤を見ると回し続けたせいで時刻が狂っていた時計は、いつの間にか正常な時を再び刻んでいる。 「那央」  必死に言葉を伝えた反動か、力が抜けて急には立ち上がれなくなっている隼人に掠れた声で名前を呼ばれる。  時が戻れる不思議な時計、嘘みたいなこれの存在がなかったならば隼人は違う未来を歩んでいて、自分は生きてすらいなかったのだろう。だが実際に非現実は現実で、時計はあって時は戻って、自分を想って必死になってくれている隼人と生きている自分がここにいる、これが那央の知る現実だ。 「俺が……したいこと……」  そんなの最初から一つしかなくて、隼人とずっと一緒にいたかった。過去も元の世界でもきっとそれは変わらない。  隼人のためにと勝手に繰り返して、差し伸べられた手を拒絶することは一体誰が望んでいることなのか。実在したかも分からない空想の未来での隼人と、今確かに自分を必要としてくれている隼人。信じるべきはどちらなのか。  隼人が、ではない。自分が幸せになるために未来を選んでも良いのだろうか。  そのまま那央はベッドサイドに向かい、時計の蓋を閉めて木箱の中にそっと戻す。  地元に帰って馴染みの顔を見た時、周りにいる人が結婚や子育てをし始めた時、特に特別なことがなくてもふとした時、これから先もそういう時々に隼人に訪れていたかもしれない別の未来を想像してしまう事はきっとあるだろう。  この選択が正しかったのか、それはきっと何年経っても答えが出ないままだ。  それでも隼人がくれた今と未来を、隼人と共に、隼人を想うがゆえの苦しみを背負いながらでも生きていきたいと思った。その未来を、確かに自分の気持ちで選んだ。  木箱の中に元通り静かに収まっている何の変哲もないただの時計、おそらくもう二度と目にすることはないそれについに背を向けた。 「那央」  振り返れば、目に涙を溜めながら立ち上がって優しく自分を呼ぶ愛しい人がそこにいた。  溢れだす様々な感情のやり場も表現の仕方もわからなくて、ただただ体の赴くままに飛び込んでいく。そして隼人はそれを全身で抱き留めた。 「ありがと那央。この世界を、俺を選んでくれて」 「ありがとう隼人。俺を諦めないでいてくれて、守ろうとしてくれて」  それからしばらくの間静かに時が流れる中で、お互いのぬくもりを味わい続けた。  自分がここに居られる奇跡、隼人がこうしてくれている奇跡を共に噛みしめる。  顔が見たくなって背中に回した腕はそのままに、少しだけ身体を離すと至近距離で隼人と目が合う。  視線が交わる中、目と鼻の先にある隼人の顔がより近づいてきて、何も言葉を交わさずとも自然と那央は目を閉じた。  最後にキスをしたのはいつだったか、早くその感触を思い出させて欲しい。  かすかに漏れる息遣いに触れ、次の瞬間を待ち望んでいる時、勢いよく部屋のドアが開く音がする。 「解決した? ちょっと、盛り上がってるとこ悪いけどここ俺んちだからね?」  二人して音のする方を振り返れば帰宅した紫織が、コートを脱ぎながら睨んでいた。 「あ、お帰り……」  ここが紫織の家ということをつい忘れてしまっていた。関係を知られているとはいえ、知り合いにキス間際を見られたのが気恥ずかしく名残惜しくも隼人の腕から離れる。 「二人とも顔ヤバいよ。それよりもうこんな時間だし、上手くいったなら二人仲良くお帰りください」  早々に炬燵に入った紫織は追い払うような仕草を片手でしながら、蜜柑の白い筋取りを再開する。  隼人と顔を見合わせれば、お互い涙の痕と目の腫れが目立つひどい顔をしていた。だが、それすらも愛おしくて同じタイミングで笑いあう。 「紫織、色々ありがと。今度何かちゃんとお礼させて。今日も連絡してくれて本当助かった、那央が時計の針回してるの見た時は生きた心地がしなかった」 「迷惑かけて巻き込んじゃってごめんね。俺がこうして生きているのも紫織の力があってこそだよ、ありがとう。でもかなり時計の針回したつもりだったけど、あれって実際どれくらい回すの?」  紫織の家を出る前に時計に関して残っていた疑問点を聞いてみる。  回転数が足りなかったのか、タイムリープが起こる前に隼人が間に合ったため今こうしていられるが、もしかしたら後一回でも多く回転していたら過去に戻っていたのかもしれない。  「あー」と声を漏らした紫織は膝に手をついて立ち上がると、ベッドサイドの木箱から那央が仕舞った懐中時計を再び取り出した。  そして蓋を開き長針に指を置くと躊躇いもなく時計回りに一回転させた。 「これが那央」  そしてそのまま今度は反時計回りに一回転させる。 「正しくはこっち。俺が機転利かせて嘘言ってなかったら、隼人はまず間に合ってなかっただろうね」  淡々と種明かしをした紫織は時計を箱の中に戻し、慣れた手つきで箱を細かに動かして鍵をかける。  確かに、冷静になって考えてみれば時を戻すのであれば反時計回りに回すという方がしっくりくる。  紫織が嘘をついていなければ、途中で違和感に気づいてしまっていたら。運命は変わっていたに違いない。那央と同じようにもしもの可能性を想像したのだろうか、隣に立つ隼人が黙ったまま手を握ってくる。 「そうだったんだ……。ありがとう、嘘ついてくれて良かった」 「お礼を言えるような着地の仕方をしてくれて良かったよ。まあ、せっかく上手くいった未来をそう易々と変えさせるような馬鹿な真似はしないから」  いつも通りのポーカーフェイスでお礼を受け止めた紫織は、珍しく一瞬だけだが表情を和らげて「お疲れさん」と口にした。  その後はもういつも通りの調子に戻り、用が済んだならさっさと帰れと追いやるので再度二人でお礼を述べてから、紫織の家を後にした。  帰り道、より一層夜は深まっていて春はもうすぐそこだとはいっても肌寒い。 「寒いねー」  同じタイミングで同じことを考えていた隼人の言葉を聞き、思い切って自分から隼人の手を取る。  こちらを向いた隼人が、外套と月明りのみのぼんやりとした光の中でも眩しさを放つ程の幸せそうな顔で微笑むので、徐々に指を絡ませながら那央も心から安心して照れた笑みを返した。  歩幅を合わせて家までの道を行く。早く誰の目もない空間で二人きりになりたいような、この自然と笑みがこぼれてしまうようなむず痒い時間がずっと続いてほしいような不思議な感覚だった。 「少し寄り道していかない?」  あともう少しで家に着く、というところで隼人は公園の入り口で足を止めた。  夜でも明るく治安の良いこの公園はデートスポットとしても名高い。那央の中には断るという選択肢などもちろんなかった。  公園の中にはちらほらと他にも何組かのカップルの姿があったが、皆それぞれの空気を楽しんでいて那央達のことを気に留める人などいない。 「ここ、綺麗な桜並木があるんだよね。さすがにまだ蕾みたい。夜桜のライトアップとかもするらしいから咲いたら見に来ようよ」  去年は引っ越しや新生活で慌ただしくて見に来れなかった、というのは言い訳でデートの誘いをして断られることが怖くて言い出せていなかった。  隼人も自分を大切に想ってくれている、という事を強く実感できた今は、芽生えた自己肯定感に背中を押され一年越しに誘うことができた。道の両端に立ち並ぶ桜の木が満開になったならば、さぞかし見応えのある景色だろう。 「隼人?」  突如一本の桜の木の前で隼人が立ち止まるので、手を繋いでいる那央も引っ張られて足を止めた。まだ蕾しかない桜並木には二人の他に誰もいない。 「好きだよ」  木々を揺らす春の風に負けないはっきりとした声がそう告げる。 「えっ……、急にどうしたの」 「ちゃんと言葉にしようと思って。それに今度は俺から言いたかったから。那央のこと、気づいたらずっと好きだった」  いつになく真剣な眼差しで、けれど少しだけ照れが混ざった顔をまっすぐに見据える。  この次の大切な言葉は俺が言うべきだ、他でもない自分のために。あの時言えなかった言葉を今、ようやく口にできる。 「付き合ってください」  言いたくても言えなかった、困らせるだけだと思ったから。欲張ってはいけないと思っていた言葉が、むしろ今は必要とされている。 「俺と、付き合ってください」  繋いでいなかったもう一方の手も握って、もう一度、一音一音に大切な気持ちを乗せて言った。  頷きながら抱きしめてくれる隼人の腕の中で、本日何度目か分からない涙が流れた。ただそれは、確実に今までの人生の中で一番幸福な涙だった。 「もちろん、ぜひよろしくお願いします」  二人の熱で今にも開花しそうな桜の木に見守られながら、顔を見合わせた二人は甘くて幸せな口づけを交わす。  くすぐったくて甘酸っぱいこの瞬間を、桜の木を見る度に二人で思い出していければいいと思った。
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