義経記・序 ~実在した運命の二人~

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1  辺り一面に巨大な樹が屹立している森の中。おそらく、杉であろう巨大な樹。生い茂る木々で日光が隠され、辺りは昼間とは思えないほどに薄暗くなっている。  コン  コン  コン  コン  一定の間隔で音がする。まるで木材、いや木刀か何かを打ち合っているような音。音のする方に視線を向けると二人の人影がお互いに木の棒を持ち、ぶつけ合っていた。  片方は頭に特徴的な頭巾を被り、白い袈裟を着ている。「山伏」という奴だ。  もう片方は若い少年。肌の色は雪のように白く、対照的に髪は鴉の羽のように艶やかな漆黒。女性にも見紛う中性的で整った顔立ちをしているが、永久歯の前歯二本がやや大きいのが残念だ。  剣術の試合をしているようだが、優勢なのは若い少年の方だった。まるで時代劇の殺陣のような動き。山伏の周囲を素早く駆け回り、周辺の杉の樹の幹を思い切り蹴り上げ、上空に跳ぶ。かと思いきや着地した後、瞬時に地面にかがみ込み、下から木の棒を突き上げる。皮一枚で山伏が躱す。が、木の棒の先が頬をかすめた。  山伏が驚き、背後によろめく。少年はその隙を見逃さない。山伏の袈裟の背中にある裾を掴み、後ろに引っ張る。山伏が倒れ込み、尻餅をつく。起き上がる隙すらも与えず、少年は山伏の喉元に木の棒の先を突き出した。 「それまで!」  森中に老人らしき声が響き渡る。その声を聞いた少年が木の棒を下ろした。山伏もゆっくりと起き上がる。先程まですっかり存在に気付かなかったが、少年と山伏が戦っていた場所のすぐ近くの樹の陰から、白い狩衣を着た老爺が現れる。白い髭が胸板まで伸びており、仙人のような雰囲気がある。 「僧正坊(そうじょうぼう)どの」  少年が老爺の名を呼ぶ。「僧正坊」と呼ばれた老爺が満足そうに頷いた。 「なかなか良い太刀筋じゃ。動きも日に日に素早くなっておる。みっちり稽古を付けた甲斐があるわい」  少年は額の汗を拭いながら答えた。 「いえ、まだまだです。以前、僧正坊どのが貸してくださった兵書のお陰で剣術における間合いの取り方や立ち回り方については会得しつつあるのですが……」 「兵書……。あぁ、『六韜(りくとう)』か。遮那王(しゃなおう)殿なら読みこなせると思っておった。あれに書かれている動き、早速、体得したようじゃの。遮那王殿の実力であれば、そこらの盗賊や鞍馬の僧兵程度であれば難なく倒せるじゃろうて」  誉められて嬉しがるのかと思いきや、「遮那王」と呼ばれた少年の顔は険しくなった。 「盗賊や僧兵など眼中にありませぬ。倒すべき相手が定まった今、何千何百の兵を相手にしても容易に勝てる実力でなければ……」  その言葉を聞いた瞬間、僧正坊の目も鋭くなる。 「平氏か」  遮那王はしばし黙り込んだ後に静かに首を横に振った。 「いえ、平家を敵と定めた訳ではありません」  その言葉に僧正坊は首を捻った。 「分からんの。儂はこの前、しかと伝えた筈じゃ。お主の父は源義朝(みなもとのよしとも)殿だと。そして、お主は義朝殿の九男であり、立派な源氏の嫡流だと」  遮那王は頷く。そして、一つ息を吐いてから、近くの樹の幹に寄りかかった。 「えぇ、確かにそうお聞きしました。そして、話してくださった。源氏の嫡流である私が生かされているのは、義朝の側室であった私の母、常盤御前が平相国清盛(たいらのしょうこくきよもり)の妾となり、身を挺して私の命乞いをしたお陰だと」 「そこまで自身の出自を知り、何故、今更『平家は敵ではない』などと言う。平家は憎き敵ではないのか?」  僧正坊の問いに遮那王はふっと息を吐き、微かに笑ったように見えた。 「確かに、私にとって平氏は倒すべき存在です。だが、敵ではない。私にとっての敵とは『この世』です。  私が鞍馬の山奥でこっそりと剣の教えを貴方に乞うているのも、表向きは私が刀を持ってはいけない存在だからです。源氏の嫡流である私が剣を持つことは平氏と事を構える姿勢を表す。だから、覚日(かくじつ)和尚は執拗に私に剣を持つなと言い聞かせた。仏門に帰依する身だからと、将来は高僧になるものだと勝手に決められたのです。  私はそれが我慢ならなかった。平氏と事を構える、構えないの問題ではない。私は純粋に剣術や兵法が好きだったのだ。僧正坊どの、貴方が私に剣の稽古を付けてくれたのには平家云々の思惑がおありなのでしょう。だが、正直、私にはどうでもいい。  よく考えれば、母の常盤も望んで清盛の妾となったのだろうか? いや、きっと自分の望みと自分の命を天秤にかけ、いや、かけるまでもなく命惜しさの気持ちが殆どであろう。断れば義朝の側室として殺されていたのかもしれないのだから……。  私は許せない! たかが生まれで! たかが一つの戦の勝敗で、一人の人間としての自由が奪われるなど。自身の望むことが生まれのせいで自由にできなくなり、あまつさえ将来も勝手に決められてしまう始末……!  そんな世であるのならば、私は変えたい。そして、今、世を治めているのは平氏です。平氏を倒せば、この腐った世の中が変わるかもしれない。  だから、私は父の仇も源氏の再興もどうでもよいのです。この腐った世が私の真の敵ですから」  そう言葉を放った遮那王の目は決意に満ちていた。燃えるような瞳で僧正坊を見る。  その言葉を聞いた僧正坊は「ふむ」と一言述べ、目を閉じた。何かを考えこんでいる様子だ。しばらくして目を開き、優しく遮那王に語りかけた。 「遮那王よ。よく聞くのじゃ。もし、それがお主の思惑であればお主は今夜、寺を出るがよい」 「えっ! 寺を……。しかし!」  慌てる遮那王を手で制し、僧正坊は話を続ける。 「最後まで聞くのじゃ。寺を出て、そのまま堀川の辺り、五条天神の方へ行くがよい。そこでお主は運命の出会いを果たすことになるであろう」 「運命の出会い……」 「ただし!」  僧正坊が厳しい口調で付け加える。 「その相手は一筋縄ではいかんじゃろう。少なくとも、まともに話ができる相手ではない。その時は場所を変え、橋に向かうとよい。困難な状況を開く助けとなる筈じゃ。まぁ、儂に言えるのはここまでじゃ」  しばし呆然と立ち尽くす遮那王。だが、すぐに僧正坊と剣の相手をしていた山伏に一礼をする。そして、振り返ることなく山を下りて行った。
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