義経記・序 ~実在した運命の二人~

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2  京の都の何処か。  身の丈が一丈(約3メートル)の大男が立っていた。「僧兵」の姿そのものである。白の袈裟で頭を包み、墨のように黒い法衣を着崩している。さらに右手には男の身の丈と同程度の長さの長刀を握りしめている。  その僧兵は元々、比叡山延暦寺の僧だった。だが、気性が荒く、体格も大柄なので他の僧は彼を大変恐れていた。ある時、他の僧と喧嘩の騒ぎを起こし、彼は寺から追い出されたのである。  行く当てもないまま、彼は京の都を彷徨った。夏の京は蒸し暑く、行き交う人々の体力を奪う。彼も寺から追い出されたうえに飲まず食わずだったので、六波羅の辺りで倒れ込んでしまった。喉が渇き、腹も空き、そのまま放っておけば死んでいたことは間違いない。だが、その僧兵は死ななかった。 「もし、そこの御坊……」  僧兵は誰かに話しかけられたことに気が付いた。喉が渇き声は出ないが、起き上がることはできる。彼はよろめきながら体を起こし、地面の上に胡坐をかいた。  目の前にいたのは華やかな衣を着こなした姫君だった。見目麗しい顔立ち、長い黒髪、瞳は透き通った水晶玉のようだ。優しい笑みを浮かべ、僧兵の顔を覗き込んでいる。  その姫君の背後には牛車があった。そんじょそこいらの貴族のものではない。その大きさから、余程の権力者の車だと見受けられる。 「中宮さまっ! なにもそんな怪しい僧都の前に顔を出すことなどっ!」  牛車から「中宮」と呼ばれた女性の従者らしき女性が出てきて、「中宮」を叱る。しかし、「中宮」は首を横に振った。 「何を言うのです。下手をしたら、こちらの牛車がこの御坊を轢きそうになったのですよ。それに此処は六波羅泉殿。私の居の敷地近くで倒れている人を放っておくことなどできないでしょう」  そして、「中宮」は僧兵に自らの名を名乗った。 「私は平相国清盛の娘、平徳子と申します。水と食べ物をご用意しましょう。どうぞ。屋敷の中へ……」 「武蔵坊弁慶……殿と仰るのですね」 「えぇ、まぁ……。私のような者にここまでして頂いて申し訳ない」  僧兵、武蔵坊弁慶は平清盛の居宅である六波羅泉殿に招き入れられ、用意された水と食事を必死に体に詰め込んだ。久方ぶりの食事だ。目の前に用意されるや否や、膳を抱えるようにして貪り食う。それほどまでに飢えていたのだ。  食事を終え、一息ついてから僧兵もとい弁慶は自身の身の上を徳子に話した。徳子は自身が寺を追い出された経緯を知ってもなお、嫌な顔一つせずに話を聞いてくれる。嫌な顔をするどころか、 「それはさぞ大変でしたね。弁慶殿さえよければ、幾らでも此処でお休みください」 とまで優しい笑顔で申し出てくれる。もし、この世に仏が存在するのだとしたら、それはきっとこの御方のことだ。弁慶の心中には自身でも気付かない恋心のような感情が芽生えていた。  その時、ガラッと襖が開く。現れたのは、弁慶ほどではないが大柄の坊主頭の男だった。豪奢な法衣を着ており、この屋敷の主人であることは明白だった。 「中宮様。これは一体……」 「相国どの」  徳子が「相国どの」と呼んだ時点で明らかだった。この男こそが、今の平家一門を束ねる長。平清盛であった。  清盛は弁慶を一瞥した。まるで汚らしい野良犬を見るようにふんと鼻で笑った。 「中宮様。何を考えておられるのか。屋敷に何処の馬の骨とも知らぬ者を上げるなど。中宮としての自覚を持ってもらわなければ困る」 「分かっております。しかし、この御方は……」  徳子の言葉を清盛は怒鳴るようにして遮った。 「分かっております? 本当に分かっておられるのか? 今は中宮様が主上の御子をお産みになるかどうかの瀬戸際なのだ。儂は皇子の外祖父になりたい。いや、ならねばいかんのだ。我が嫡男、重盛も摂政殿とのいざこざが長引いて頭を痛めておる。近頃、具合も良くないらしい。重盛の件が無かったとしても、正直、今の平家には余裕がない。平家の未来は中宮様に掛かっておられるのですぞ!」  何かを言い返したい徳子。だが、清盛の迫力に何も言えずに押し黙るしかなかった。他の従者も皆、徳子の気持ちを思い心を痛めつつも清盛に逆らうことはできずに俯くばかりだった。  だが、その場でただ一人、清盛に意見する者が居た。弁慶はすっくと立ちあがり、一丈の身の丈で威圧するように清盛の前に立った。  一瞬、おののく清盛。だが、すぐに弁慶を見上げ、蛇のような鋭い目で睨み返す。 「そのような言い方は無いでしょう。恐れ多くも中宮であらせられますぞ」 「はっ。何を言うか。僧兵ごときが。誰に対して物を言っておる。よもや、この私を相国と知っての態度か」 「誰であろうが関係ありませぬ。中宮様は貴方の道具ではない。一人の人間だ! 何故、人の一生を貴方に決める権利がある? 中宮様の一生は中宮様のものだ。貴方に指図される謂れはない!」  この言葉が弁慶の口から放たれた瞬間、清盛は既に腰の刀を抜いていた。弁慶の喉元に鋭い切っ先が向けられる。その顔は地獄の閻魔のようだった。顔は真っ赤に染まり、歯をこれでもかと食いしばり、目は今にも獲物に飛び掛からんとする獅子のごとき睨み方であった。  だが、次に清盛の口から放たれた声は酷く静かであった。本当に我慢できない怒りを抱えている人間の声は冷たくなると聞く。この場合の清盛もそうであったに違いない。 「成る程。では、人は自身の生きる道を自身の力で切り開けると言うのじゃな。故に、当人の人生は当人のものだと……。  馬鹿者めが。平家がここまで大きくなったのも先祖代々の力が大きい。保元の乱で儂が勝利したのも、半分は運のようなものじゃ。  中宮……。いや、徳子は儂の娘として産まれた幸運があり、儂の力で主上の妃となる栄誉を手に入れられたようなもの。まさしく、平家でなければ人でなし。人の運命は生まれと運で決まるのだ。ならば、父である儂の元に産まれた恩を返すのが筋というものであろう。  だが、もし、それでも貴様が『違う』と言うのなら、それを証明して見せよ」 「……証明?」  首を捻る弁慶に清盛は鋭く言い放った。 「人は宝を千そろえて持つべきである。奥州の藤原秀衡は名馬を千匹に鎧を千領、松浦の大夫は矢入れを千腰、弓を千張持つと聞く。故に、貴様も千の宝を揃えて儂に献上せよ。例えば、そう。刀じゃな。刀千本を揃えて、儂の前に持ってこい! 貴様のような下賤な者でも自らの手で運命を切り開けると言うのであれば、これくらいは朝飯前であろう。  貴様が刀千本を儂の眼前にしかと見せつけた時には、儂は先程申したことを全て撤回し、貴様が儂に働いた無礼は許してやろう。いや、そこまでの力を見せたのであれば、実力に免じて平家で召し抱えてやってもよい。  だが、できないと言うのなら、この場で容赦なく首をはねてやろう」  清盛も徳子も、まさか弁慶が頷くとは思っていなかった。 「申し訳ない。撤回する。無礼を許してほしい」 という類の言葉が彼の口から出るものだと考えていた。  だが、弁慶は彼等の意に反して力強く頷いたのだった。 「分かりました。必ずや刀千本、耳を揃えて相国殿に献上しよう」  そして、今に至り、弁慶は既に九百九十九本目の刀を手に入れていた。京の大内裏も五条よりも南は盗賊のたまり場となっており、非常に治安が悪かった。だからこそ、弁慶がその怪力を活かし、盗賊から刀を大量に奪うことができた。  商売で刀を手に入れるのであれば至難の業だが、怪力無双の弁慶にとって奪い取るだけであれば赤子の手を捻るが如く容易であった。  そして、今宵が最後の一振り。願わくば立派な太刀を賜りますよう。弁慶は五条天神に足を運び、心から祈った。
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