義経記・序 ~実在した運命の二人~

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3  五条天神は五条大橋からやや離れた場所にある。五条近辺で弁慶は刀を狩っていた。この辺りは日が沈むと、殆ど人は出歩かない。出歩くのは、ほぼ盗賊の類で間違いなかった。それ故、刀狩りにはうってつけだったのだ。  神前で祈った後、弁慶は身の丈よりも大きい長刀を片手で持ち、境内の真ん中で仁王立ちをした。最近は、刀狩りの大男が出ると京の都のあちらこちらで噂が広がってしまい、肝心の野盗でさえも出歩く頻度が減ってしまっている。 (今日が最後の一振りだというのに……)  弁慶は苛立っていた。もはや、野盗でなくとも誰の物でもよい。ただ、ひたすらに人が通りかかるのを待っていた。そして、その者が美しい刀を持っていることを心から祈った。  数刻経ち、月明かりが境内を照らす。  カラン コロン カラン コロン  下駄の音であろうか。この神社に近づいてくる足音。弁慶は咄嗟に身構える。長刀を構え、臨戦態勢をとる。  下駄の主が鳥居の前に立った。月明かりはあるが逆光で姿が見えない。だが華奢な体格で、一瞬、弁慶は女性だと思った。女性ならば太刀は持っていないだろうから見逃そう。そう考えていたのだ。  しかし、それは間違いだった。女性に見紛う美貌ではあるが、その人物は白い狩衣を着ていた。そして、腰には立派な黄金色に光る太刀を携えていた。 「おい、小僧」  弁慶は野太い声を出す。まるで地獄の底から聞こえるような恐ろしい声だった。 「その刀は貴様のような小僧には勿体ない。黙ってその太刀を置いてゆかれよ」  だが、その少年。遮那王は一歩も引かず、口元に笑みを浮かべた。 「あぁ、やはり会えたか。僧正坊どのの言った通りだ。これが運命の出会いになるかどうかはまだ分からないがな」 「何だと?」  怯えもせず、意図が読めない台詞を投げかける遮那王に狼狽(うろた)える弁慶。逆に、今度は遮那王が弁慶に問いかけた。 「なぁ、貴様。噂の太刀狩りの大男だろう」 「そ、それがどうした?」 「この刀が欲しいのか?」  遮那王は腰の太刀を右手に持ち、弁慶に見せつけた。  舐められている。そう考えた弁慶は怒声を張り上げた。 「あぁ、そうだ! 千本まであと一本! その刀、寄越せっ!」  弁慶が長刀を振り上げる。そして、遮那王の居る場所に切っ先を叩きつけた。切った、と弁慶は思った。だが、妙に手ごたえがないことに違和感を感じた。 「ふむ。(のろ)いな。止まって見える」  その声がした先を見て、思わず弁慶は腰を抜かしそうになった。人間業ではありえない。遮那王は弁慶が振り下ろした長刀の切っ先の上に立っていたのだから。  いや、まさか。偶然、足が乗っただけだ。そう思い直し、弁慶は再び長刀の切っ先を左右に振り回した。  だが、遮那王はその攻撃をかいくぐり、弁慶の周囲を走り回って翻弄する。 「小癪なっ!」  怒りで目の前が真っ赤になった弁慶は無茶苦茶に長刀を振り回した。境内の石畳、狛犬に幾重もの傷が付く。長刀を振り回す速度と勢いは先程よりも増している。  だが、それでも遮那王はひらりひらりと舞い、その攻撃を避けている。蝶のように舞うという言葉の表現がまさしく的確に当てはまるだろう。人間とは思えない、身のこなしだった。 「なぁ、少し聞きたいのだが……。何故、貴様はそんなに刀が欲しいんだ?」  幾重もの斬撃をひらりひらりと避け続けながら、遮那王は弁慶に問いかけた。その声に疲れや焦りの様子は一切なく、飄々とした様子だった。  一方、弁慶は額から汗が滲み出て、ぜえぜえと息を切らせていた。それでも気迫を込め、あらん限りの大声を張り上げた。 「そんなこと……。貴様に言う必要はない! 貴様はただ黙って太刀を置いていけばよい!」  その顔はまるで仁王像の如し。目を血走らせ、鋭い眼光で遮那王を睨みつけた。そして、怒声を張り上げ、再び遮那王の頭部を目掛けて長刀で斬りかかる。  その姿に怯むことなく、むしろ面白がるように遮那王は再び弁慶が振り下ろした長刀の柄に飛び乗った。下駄の足で器用に立つ。そして、今度は懐から笛を取り出した。 「そうか。そんなにこの太刀が欲しいか。では、場所を変えるから付いてこい。私は足が速いからな。見失わないように笛を吹いてやるから、笛の音を頼りに追ってくるがよい」  そう言うと、遮那王は長刀からひょいと華麗に降り立ち、笛を吹きながら颯爽と境内から出て行ってしまった。 「……おのれ! あの小僧め。あの人を嘲るような態度、腹が立って仕方ないわ」  怒りで肩を震わせ、弁慶も五条天神を後にした。
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