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当然だが、平安末期のこの時代に街灯などある筈もない。この時代の人間は夜歩く際には月明かりを頼りにする他はなかった。
「くそっ……。忌々しい、あの小僧め」
肝心の月明かりも度々、雲に隠れてしまう。やはり、弁慶が遮那王を追いかける為には遮那王が吹く笛の音に付いていくしかなかった。だが、五条大路の辺りを歩いていることは何となく弁慶も分かっていた。
物の怪でも現れそうな夜道に鳥の鳴き声のようなか細い笛の音が響き渡る。弁慶は心なしかその音に心を和ませている自分に気が付いた。憎き敵であることに間違いはないが、あれ程の強敵は今まで刀狩りをしていて見たことがなかった。
(あの小僧との戦いを……私は楽しんでいるのか?)
ふと、弁慶の心中にこのような疑問が湧く。あの少年は自分と会った時、「運命の相手」と言っていた。もしかしたら、自分はあのような相手との戦いを欲していたのかもしれない。
笛の音が止む。今まで月を隠していた雲が晴れ、月明かりが周囲の景色を照らした。今宵は満月だった。
弁慶は足を止める。耳にはざあざあという水音が足元から聞こえる。
「どうした? 早くこちらに来るがよい。それとも怖いのか? 噂の太刀狩りの大男も一皮剥けば臆病者だったようだな」
月光に照らされ、遮那王の姿が浮かび上がる。彼は橋の中央で弁慶を待ち受けていた。ぎしぎしと音が鳴る木の柱、錆びた擬宝珠、橋の下にごうごうと流れる川は鴨川だった。
五条大橋。僧正坊の助言通り、戦いが長引くと判断した遮那王はこの場所に弁慶を誘い出したのだ。
ふん、と弁慶は鼻を鳴らした。
「そのような安い挑発に乗ると思うか? それに場所を変えたところで何になる。少々すばしっこいようだが、その速さはもう見切っておる。小柄な貴様と大柄で怪力無双の私。どちらが勝つかは明白であろう」
その言葉を聞き、遮那王は嘲るような笑みを見せた。
「そう思うのなら、四の五の言わずにかかってくればよい。この太刀が欲しくはないのか。腰抜けめ」
「ほざけっ!」
怒声を上げ、弁慶は鬼の形相で遮那王に向かって飛び掛かる。先程よりも速い踏み込みはまるで稲妻のようだ。長刀が遮那王に向けて振り下ろされた。
木で造られた橋の欄干に大きな切れ込みが入る。長刀の刃がぎらりと光り、遮那王の服や皮膚をぎりぎりの距離で掠める。
切った、と弁慶は思った。だが、長刀を振り下ろした場所を見て弁慶は唖然とした。先程までは確かに姿があった場所に、その姿が無かったのだから。
「ははは。滑稽だな。何処を探している?」
その声は背後から聞こえた。弁慶が振り向く。いつの間に移動したのだろうか。反対側の橋の欄干にある擬宝珠、その上に遮那王は器用に足を乗せて立っていた。
(素早いにも程がある……!)
弁慶は悔しさのあまり、奥歯を噛み締めた。実は五条天神での弁慶は本気ではなかった。齢十一か十二に見える少年に本気を出すのも大人げないだろうと、やや手加減していたのだ。だが、今回の踏み込みは本気を出した。生半可な力で勝てる相手ではないと見抜いたからだ。しかし、弁慶の本気の踏み込みでさえも遮那王は容易く躱してみせた。
いつもであれば太刀を奪うのに、ここまで時間が掛かることはない。数人切り殺せば、恐れをなした他の野盗も散り散りになって逃げていく。彼らが放り出した刀を拾うだけで事が済んだ。
なかなか太刀を奪えない歯痒さ、年若き少年に本気の斬撃を赤子の手を捻るように避けられたことへの苛立ち。もはや、弁慶は冷静に場を見ることができなくなっていた。そして、弁慶の余裕のなさに遮那王は気付いていた。
「今度はこちらから攻めよう」
遮那王は腰に下げた黄金色の鞘から刀をすらりと抜いた。月光にさらされた刀身は美しく光り、その場の空気すらも切り裂いてしまいそうな鋭さが感じられる。
遮那王の足が擬宝珠を蹴り上げた。満月が浮かぶ夜空に遮那王の体が舞う。まるで白拍子の舞を見ているかのような軽やかな跳躍。遮那王の見目麗しさも際立ち、幻想的な光景を見ているような気分にさせられる。弁慶もその遮那王の姿に一瞬、気を取られていた。
刹那、刀の切っ先が弁慶の頬を掠めた。冷たい刃の感触に驚き、のけぞる弁慶。気付けば、弁慶の眼前には既に遮那王がいた。
「おのれっ!」
弁慶はすぐさま長刀を振り上げようとする。だが、振り上げることはできなかった。長さ一丈ほどもある長刀の柄が橋の欄干にぶつかってしまったのだ。確かに、長く大きな長刀は相当な脅威である。まともに打撃や斬撃を食らえばただでは済まない。だが、それは振り回せる環境があってこその話なのだ。
「いくら相手が怪力無双でも、武器をまともに使えぬ状況では意味がない」
遮那王の冷静な声が弁慶の耳に響く。遮那王も僧正坊の言葉にただ従ったわけではなく、五条天神で弁慶の姿を一目見て五条大橋に誘導する策を考えていた。橋というものは横幅が狭い。それ故、体格の大きい者や大きな武器を持つ者にとっては非常に動きづらい場所となる。逆に、遮那王のように小柄で身軽な者にとっては小回りが利きやすく、奥へ奥へと逃げやすい場所になっている。そして、鞍馬の山で木から木へと飛び移る鍛錬を毎日していた遮那王にとって、橋の欄干を跳ね回ることなど容易かった。
狼狽えながら滅茶苦茶に長刀を振り回す弁慶の周りを、遮那王は目にも留まらない速さで駆け巡る。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という言葉がある。大げさな表現に聞こえるが、遮那王の動きはまさしくこの言葉の通りであった。蝶のようにひらひらと軽やかに欄干の柱を飛び回り、翻弄されてあちらこちらに顔を向ける弁慶の隙を突いて、少しずつ斬撃を浴びせていく。頬、右腕、左ひざ、脇腹……。弁慶の体に刀傷が増えていく。
前、後ろ、右、左……。
「ここかっ!」
素早さに慣れつつある弁慶が長刀を突く。だが……。
「狙いが直線的すぎる。そうなれば読みやすい」
突いた方向と反対の方角から声がする。振り返れば、遮那王が欄干の上から弁慶を見下ろしている。燕のような早業。防戦一方になってしまった弁慶には成す術がなかった。
「さて、いつまでもこうして斬り合っているのは飽きた。そろそろ勝負を決めさせてもらおう」
欄干の柱を蹴り上げ、宙を舞った遮那王は懐から何かを取り出した。その何かを素早く広げ、弁慶の顔に目掛けて投げつけた。弁慶の目には羽を広げた黒い蝙蝠に見え、それが一瞬、弁慶の視界を覆った。
「目眩ましのつもりかッ!」
弁慶は左手で拳を握り、黒い何かをはたき落とした。地面に落ちた物の正体は扇だった。
気が付けば、遮那王が持つ刀の切っ先は既に弁慶の喉元にあった。弁慶の頭を包んでいた白の袈裟がはらりと落ちる。刃を相手の首に当て、遮那王は言う。
「私の勝ちだ」
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