義経記・序 ~実在した運命の二人~

5/5
前へ
/5ページ
次へ
5 「殺せ! 私の負けだ。命乞いをする気もない」  弁慶は手に持った長刀を地面に落とし、膝を着いた。弁慶の頭に最初に浮かんだのは平徳子の顔だった。清盛との約束を果たせず、これから平徳子は一生、清盛の操り人形として生きなくてはならない。清盛にとっては自身の娘でさえも権力を得るための駒の一つに過ぎないからだ。「人は自らの手で運命を切り開ける」。それを徳子どのや清盛に証明したかった。ここで私の命は潰える。最後の一振りの刀にこだわったばかりに……。この小僧との戦いにこだわったばかりに……。途中で逃げて別の刀を探しに行けば、このような無様は晒さなかった。弁慶は激しく後悔した。  だが、弁慶に意に反して遮那王は刀を鞘に収めた。 「殺すつもりはない。私はただ貴様がそこまで太刀を欲する理由を知りたいのだ」  弁慶は言葉に詰まる。事の顛末をどこから話したものか。それが分からなかったからだ。ただ、事の顛末よりも先に弁慶の口からは胸の中で熱く煮え滾る思いが自然に出た。 「変えたかった。生まれ、身分、境遇のせいで自らの手で選びたかったものが選べなくなる……。そんな腐れ切った世を」  その言葉を聞いた遮那王は確信する。僧正坊どのが言っていた通り、この者との出会いは私にとって運命だと。遮那王が弁慶に問う。 「お主。名は?」 「……弁慶。武蔵坊弁慶」  呟くように弁慶は自身の名を告げる。遮那王は満足そうに頷いた。 「そうか。怪力無双に相応しい名だ。では、私も名乗ろう。  私の名は遮那王。源義朝が九男。源氏の嫡流だ。私もこの腐れ切った世を変えるために戦いたい。弁慶とやら、お前の全てを私に寄越せ。これより、お主は私の為だけに働くがいい」  「源氏の嫡流」という言葉を聞き、弁慶は驚きの表情を見せる。そして、戸惑いつつも首を横に振った。 「生憎だが、私は平家の家臣となる約束を相国殿と交わした身。お主が平家と事を構えると言うのなら、私は平家に対して弓を引くことはできない」  その言葉に遮那王は一つ大きな溜息を吐く。 「幾つか誤解をしているな、弁慶。まず、私の真の敵は先程も申した通り、腐りきった世であって平家ではない。故に、平家を倒す必要がある場合は倒すが、平家の一族郎党を執拗に追い回して皆殺しにする考えは今のところはない。  次に、貴様は私に負けたのだ。私の敵が誰になろうと、貴様に物を言う資格はない。私に従え。だが、利害は一致している筈だ。私に付いてくれば、貴様の見たかった世を見せることができる。この言葉に嘘はない」  弁慶は遮那王の目をじっと見つめる。曇りなき眼を見て、弁慶は遮那王の言葉に嘘偽りがないことを感じ取った。そして、思考を巡らせた。私は平家に仕えたい訳ではない。徳子どのをお救いしたいだけだ。源氏として清盛を討てば、結果的に徳子どのは清盛の支配から逃れられるのではないか……と。この方を主君にすれば、本当にこの世を変えられるかもしれない。  弁慶の心は決まった。再び、遮那王に向かって頭を下げる。 「遮那王どの。今から、私は貴方の家来。貴方の手となり足となり、遮那王どのの為に働きましょう」  後に遮那王は「源九郎義経」と名を変え、源平の戦乱の中で大きな活躍を見せる。そして、義経の側には必ず「武蔵坊弁慶」が付いていたとされる。  これは源義経の最初の戦いにして、歴史に名を遺す運命の二人が出会った瞬間。  そして、二人が世を変えるために巻き起こす壮大な戦いの幕開けであった。 (終)
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加