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「チップが……」  こめかみに触れるが、そこにはなにも貼りついていなかった。  いつの間にか白い無機質な診察室は消え、ユウトは見覚えのあるレストランの前にいた。子供のころから両親とよく通っていた、地元のレストランだ。 「なに言ってるの? 寝不足なんじゃない? 大丈夫?」  懐かしいレストランを見上げるユウトの顔を、白いワンピースを着た女性が覗き込む。丸い目を不思議そうに瞬かせ、彼女は首を傾げた。 「いや、ごめん。大丈夫だよ」  彼女は別れた妻の紗江だ。離婚してすでに二年経つ。別れてから、彼女には一度も会っていない。 (そうだ、両親に結婚することを伝えた日だ)  なぜか脳裏に今日の日付が浮かび、懐かしい記憶が呼び起こされる。  確かに、今日は幸福を感じた日だ。  どうやらあの薬は、幸せだった日々を呼び起こしてくれる効果があるらしい。  ユウトは戻れない日々を噛みしめ、紗江と一緒に両親の待つレストランに向かった。 「母さん、父さん」  両親の顔を見た途端、紗江と会ったとき以上の感情が込み上げた。  本当に、幸福な日々が帰ってきたみたいだ。彼らに気づかれないように涙をぬぐい、ユウトは家族と元妻と食事を楽しんだ。 「実は俺たち、結婚することにしたんだ」 「そうなの! おめでとう。ね、お父さん。私の言ったとおりだったでしょう?」  昔から変わらない母の笑った顔を見たユウトは、涙を耐えられなかった。 「母さん、父さん。俺、頑張るよ」  これが幸せだったのだ。薬の見せる幸福に、ユウトは身を任せることに決めた。  ――それから三か月、ユウトは結婚式を終えて紗江との新生活を始めた。毎日が幸福に満たされ、これが薬の見せる夢だということも忘れてしまいそうだった。 「……しまった」  ユウトはオーブンからケーキ型を取り出し、舌打ちをする。 「どうしたの?」  手元を覗き込んだ紗江は、表面が焦げたスポンジケーキを見て「なんだ」と呟く。
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