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第26話
幸い空腹ではなかったらしく、去りゆくヘビを見送って更に進むうちに、霧島は緑の匂いに酔ったように嗅覚が鈍麻していた。湿度の高い林の中に血臭にも似た草の香りが立ちこめて、それに気付くのが遅れる。
嗅覚が異常に鋭い京哉が真っ先に喉の奥で呻き、反射的に目を凝らした霧島は発見したものを瑞樹の視界から遮ろうとしたが間に合わない。ここならヘリも駐められたのではと思えるくらいの広場に、黒く巨大なものが小山の如くふたつ横たわっていたのだ。
「そんな……嘘……酷い!」
それは体長が五、六メートルありそうな象の死体だった。二頭ともこちらに顔を向けて死んでいて長い鼻の根元が切り裂かれ左右の牙を抜き取られているのが分かる。
人間以外の凶暴な動物を撃ったことのない霧島は、瑞樹の腕を宥めるように叩きながらも、フラッシュライトで照らしたそのスケールの違いに半ば唖然としていた。
「監視局の男が言っていた密猟者の仕業か?」
「じゃないですかね。ほら、眉間に巨大口径弾の痕、600ニトロエクスプレスか577T‐REX、それとも460ウェザビー・マグナムでしょうか。たった一発で仕留めるなんて相当手慣れてますよ。無闇に苦しませるよりマシでしょうけど」
素人が撃てば肩が砕けることもあるような巨大口径マグナム弾一発で十トン近い象を仕留める腕は脅威だと言わざるを得ない。そして血溜まりに横たわる巨体からはまだ僅かに体温の残滓のようなものが感じられた。血も殆ど固まってはいない。
霧島の手を振り切って瑞樹はふらふらとそれに近づいた。そして一頭の腹に片手で触れる。
「ごめん……僕たち人間が悪いんだよね……ごめんなさい!」
振り絞るように叫んで瑞樹は動かなくなった。その背に霧島が声を掛ける。
「瑞樹、お前が悪い訳ではないぞ。いいからヘリまで……っと、瑞樹」
ふらりと倒れ掛かった瑞樹を危うく霧島が抱き留めた。その胸に縋りついて瑞樹はむせび泣き続ける。霧島のジャケットに熱い涙が濃い色の染みをつけた。
肩を抱き寄せたが瑞樹の震えと熱い涙はなかなか止まらない。
京哉は……と目で追うと、月明かりで艶を溜めたような瞳に僅かな苦笑を浮かべてチラリと霧島を窺ったのち、肩を竦めて目を逸らし歩いて行ってしまう。
「瑞樹、しっかりしろ。監視局に通報しなきゃならん。それにまだ奴らが近くにいる可能性がある。ここは危ない。第三出張所まで移動するぞ」
二分ほどで戻ってきた京哉が携帯を振って囁いた。
「監視局には連絡しましたから。でも僕らはとにかくヘリに戻らないと」
早く瑞樹を何とかしろということなのだろうが、宥めるように背を叩くもしゃくり上げ続けている。自身でコントロールができないらしいのを見取って、霧島はそっと髪を撫でると、いきなり瑞樹をすくい上げた。横抱きにして歩き出す。
瑞樹が落としたモニタ機器を拾い上げて京哉が続いた。
「三十分以上も大丈夫ですか?」
「第三出張所まで我慢すれば精神安定剤くらいはあるだろう」
敢えて質問を訂正せず京哉は瑞樹を覗き込む。今は泣きやんで目を閉じているが、暗い中でもはっきり分かるくらいに顔色が悪く、呼吸が不規則だった。
歩いているうちに僅かに気温が下がり始めたのに京哉は気付く。瑞樹の体温変化を心配しつつ、周囲警戒しながら小型ヘリに辿り着いた。霧島が後部座席に瑞樹を寝かせる。
「霧島さん、京哉……ごめんなさい」
「気にするな。いいから寝ておけ」
と、大雑把な霧島に対し、京哉は瑞樹の額に手を当て熱がないのを確認し、購入してあったボトルの水を飲ませ機に備え付けの毛布を被せてからコ・パイ席に戻った。
第三出張所をディスプレイ上で確認してヘリをテイクオフさせる。
「十分くらい、二十三時半には着きますから」
「もうそんな時間か」
大きな三日月が金色の光を投げ、降り落ちてきそうな星々と共に明るく照らして、まだ宵の口のような気がしていたのだ。操縦しながら京哉が呟いた。
「明日こそアーヴィンを捕まえて機密メモリを手に入れなきゃ」
「早く帰らんと書類が溜まる、か」
高度を取った小型ヘリを数分で京哉は減速させ垂直降下に移る。スキッドを接地させると窓外には二階建てでログハウス風の第三出張所があり、窓明かりが洩れていた。
「宿泊受付は零時までって言ってましたよね?」
「多少過ぎても押しかけた人間を放り出しはせんだろう」
パイロット席のドアから出た霧島は後部のドアを開けて瑞樹を毛布ごと抱き上げようとした。その毛布から手が伸び霧島の手を瑞樹は素早く掴む。そのまま身を起こした瑞樹は意外にも滑らかに自身の足でヘリから降り立った。それでも霧島は腕を差し出す。
「いいから寝ておけ、ほら」
「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ、自分で歩けるから」
「無理も遠慮もするなよ」
「してない……変わらないんだね」
色の薄い瞳は眩しそうに霧島を見上げ、薄く微笑んで伏せられた。自分でショルダーバッグも持って、ややゆっくりだったが迷わず先を歩いてゆく。霧島とこちらもショルダーバッグを担いだ京哉はあとを追いながら小さく囁き合った。
「トランキライザーは不要らしいな」
「使わないでいられれば、なるべく使わないに越したことはないですもんね」
ログハウスの入り口はスコール対策か階段を三段分上がった所にあった。危なげなく瑞樹は階段を上り、ドア脇に設置された機器のスリットにパークレンジャーの証明書たるカードを通す。訪問者のIDは監視局から通達されているため、スムーズに認識されてグリーンランプが灯り、小さな電子音と共にロックが外れた。
瑞樹はドアを開けて足を踏み入れる。数秒遅れて霧島と京哉も機器のスリットにカードを通した。ドアを霧島が引き開ける。続いて入った京哉と二人で動きを止めた。
目前で瑞樹が顎の下に大口径ライフル二丁を左右から突き付けられていた。
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