第1話

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第1話

 微かな空気の振動で京哉(きょうや)は目覚めた。  目覚まし時計のアラームかと思ったが、ブラインドを透かして差し込む朝の光もなく、常夜灯だけを灯した寝室は暗い。そこでふいに意識がはっきりし、ナイトテーブルに置いてある携帯が振動しているのに気付いた。  温かな腕の中で身を返して見上げると、同時に目覚めたらしい霧島(きりしま)が切れ長の目を覗かせている。昨夜は存分に愛し合ったまま疲れて寝入ってしまい、京哉だけではなく霧島も下着すら身に着けていないため、すべすべとした素肌同士が非常に気持ち良かったが、今はそれどころではない。  だが携帯に手を伸ばした小柄な京哉を、長身の霧島は全身で抱き込んで邪魔した。 「こんな時間に連絡なんて相当の案件です。(しのぶ)さん、離して下さい」 「私たちは三連休、非番ではなく休日だ。無理して出て行かずとも責められはせん」 「その休日を押しての連絡です。正義感の塊の貴方がどうしたんです、霧島警視?」 「あんなに攻め抜いて失神までさせてしまった。まだお前はまともに歩けまい」  僅かに頬を染めた京哉だったが、ここで連絡を無視してあとで後悔したくはない。確かに足腰は痺れたように重たかったが、自ら鞭打ってもぞもぞと這い起きる。諦めたか霧島も上体を起こした。京哉は自分の携帯を取って操作する。 「はい、機捜の鳴海(なるみ)巡査部長です」 《いつまで待たせる! 俺だ、今すぐ出て来い!》  鼓膜を破らんばかりの大声で怒鳴ったのはSAT(サット)隊長の寺岡(てらおか)警視で、それだけで通話を切られた。  改めて目が覚めた気分で京哉はダブルベッドから滑り降りる。膝が砕けそうになったのを堪えてクローゼットに辿り着いた。  その時には既に霧島もリモコンで明かりを点けて着替え始めている。 「何も忍さんまで出張らなくてもいいですよ、せっかくの休日に。貴方はSATじゃなくて機捜隊長殿なんですから」 「お前も機捜隊員で私の部下だろう、京哉。それに私とお前は相棒(バディ)でパートナーだ。私はお前がトリガを引くとき必ず傍にいて、共に撃つのだと何度も言った筈だ。自らの誓いを破らせないでくれ。それとも非常勤のSAT狙撃班員殿に私は邪魔か?」 「……いいえ」  低い声と穏やかな灰色の目に京哉は首を横に振り、少し落ち着いた気分になった。  鳴海京哉、二十四歳。県警の機動捜査隊で隊長及び副隊長の秘書をしている。そしてスペシャル・アサルト・チーム、SATの非常勤狙撃班員でもあった。  県警本部長から直々に命令されて狙撃班員になったのは京哉が元々スナイパーだったからだ。スナイパーと言っても警察官としてではなく、非合法の暗殺者としてである。  高二の冬に女手ひとつで育ててくれた母を犯罪被害者として亡くし、大学進学を諦めて警察学校を受験し入校した。そこで抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、陥れられたのである。  警察学校を修了し配属寸前に呼び出されて、会ったこともない亡き父が生前に強盗殺人という重罪を犯していたと告げられたのだ。  無論、真っ赤な嘘だったが、警察組織の幹部にそんな嘘を吐かれるとは思いも寄らなかった京哉は、見事に嵌められてしまったのである。  政府与党の重鎮や警察庁(サッチョウ)上層部の一部に巨大総合商社の霧島カンパニーが組織した暗殺肯定派に陥れられ、本業の警察官をする傍ら、五年間も政敵や産業スパイの暗殺に従事させられていたのだった。一度として失敗知らずのスナイパーとして。  だが霧島と出会って心を決め『知りすぎた男』として消される覚悟をした上でスナイパー引退宣言をした。しかしやはり『はい、そうですか』と辞めさせて貰える訳もなく、京哉自身も暗殺されそうになった。  そこに霧島が機捜の部下を引き連れて飛び込んできてくれて、命を存えたのである。  そのあと警察の総力を以て京哉がスナイパーだった事実は隠蔽されたためにこうしていられるのだが、実際、そのお蔭で県警本部長から直々にSAT狙撃班員に任命され、更には『知りすぎた男』という事実を便利に使われて、霧島とセットで極秘の特別任務をたびたび下され、ここ数ヶ月間は怒涛の日々だった。  何せ県警本部長を通して下命される特別任務の依頼主である『上』は某大国だったり、国連安保理事会だったりという、にわかに信じがたい状況なのだから。  そんなファンタジーな特別任務だけでなく、衣食住まで共にしている霧島忍は二十八歳。生みの母はハーフだったが生まれてすぐ父に認知されたため、日本人として育ち警察にも入庁できたという経緯がある。  それも最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリアとしての入庁故に、この若さで警視という階級にあった。  だが普通ならキャリアが進む内務ではなく現場でノンキャリア組を背負ってゆくことを強く希望し、念願が叶って県警機動捜査隊・通称機捜で隊長を拝命している。  おまけに霧島カンパニー会長の御曹司でもあった。  京哉と出会いスナイパーをしていた件を知った霧島は、暗殺肯定派の関係者一斉検挙を独りで企て、人間離れしたスパコン並みの緻密な計算でそれを実行に移した。その中で京哉暗殺を防ぐために自ら機捜を動かした際、霧島カンパニーの悪行もメディアに洩れた。  お蔭で霧島カンパニーは株価が大暴落して一時は企業体としての存続に関わる窮地に陥ったが、数ヶ月を耐え抜いて株価も戻り現在は却って上昇傾向にある。  そのため霧島は警察を辞めた日には霧島カンパニー本社社長の椅子が待っている上に、父親の霧島会長もあの手この手で社長の椅子に座らせようと画策してくるのだが、本人は警察を辞める気など微塵もない。  それどころか裏で平気で悪だくみをする父親を毛嫌いしてクソ親父扱いし、証拠が掴めたら逮捕も辞さないと明言しているほどだ。  ともあれ二人は急いで服を着た。ドレスシャツとスラックスを身に着けてタイを締め、銃の入ったショルダーホルスタを装着する。  機捜は覆面パトカーで警邏し、殺しや強盗(タタキ)に放火その他の凶悪犯罪が起こった際にいち早く現場に駆け付け、初動捜査に就くのが職務だ。凶悪犯と遭遇することも有り得るので、職務中は銃の携帯が義務付けられている。  機捜隊員が所持しているのはシグ・ザウエルP230JPなる、フルロードなら薬室(チャンバ)一発マガジン八発の合計九発を発射可能な小型のセミ・オートマチック・ピストルで使用弾は三十二ACP弾だが、弾薬は五発しか貸与されないというものだ。  しかし二人が持っているのは同じシグ・ザウエルでもフルサイズのP226という銃で十六発の九ミリパラベラムを発射可能な代物である。  特別任務のたびに交換・貸与されていたのだが、十五発満タンのスペアマガジン二本と共にいつの間にか持たされっ放しになってしまったのだ。つまり交換が面倒なほど特別任務が降ってくるようになった訳だった。  普通は職務中だけ携帯してあとは武器庫に保管するが、二人は特別任務関連で県下の暴力団に恨みを買っていることから、職務中でなくとも銃を携帯する許可は下りていた。  ベルトの上からスペアマガジンパウチと特殊警棒に手錠ホルダーの着いた帯革を締め、先に霧島がオーダーメイドスーツのジャケットを羽織り、黒いチェスターコートを手に寝室を出た。リビングでTVを点けてニュースをチェックする。  だがまだSATの出動案件となりそうな事件は報道していない。そこで続き間のダイニングキッチンでインスタントコーヒーを淹れた。  一方の京哉は言うことを聞かない足腰に難儀しながらスーツを身に着け、メタルフレームの伊達眼鏡をかける。伊達なので生活に必要ではないが、スナイパー時代に自分を目立たなくするためのアイテムとして導入して以来かけ慣れてしまって、今ではフレームのない視界は落ち着かないのだ。それに素顔で人前に出ると何故か霧島が機嫌を悪くする。 「忍さん、準備できました!」 「分かった。だが京哉、お前もこれだけ飲んで腹を温めろ」
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